第53帳 御台様が買えば、町が売れる
足利義氏が、江戸へ戻ってきた。
彼岸が明ければ、また来る。
そう言って古河へ帰った古河公方は、本当に戻ってきたのである。
江戸は、その間にも増えていた。
酒町ができた。
風月町ができた。
湯屋町ができた。
公家宿が置かれた。
鞠庭ができた。
今川氏真が蹴鞠と剣を見せた。
義氏は、古河公方江戸屋敷へ入るなり、目を輝かせた。
「増えておるな」
森蘭丸は頭を下げた。
「はい。増えております」
「湯屋があると聞いた」
「ございます」
「焼きイカは」
「ございます」
「丸芋薄揚げは」
「ございます」
「南蛮芋蜜掛けは」
「ございます」
「酒町は」
「ございます」
「風月町は」
「……ございますが、御公方様」
「分かっておる。見るだけだ」
蘭丸は、多米殿の方を見た。
多米殿は、静かに頷いた。
「古河公方様、見物口を分けてございます」
「さすが多米」
義氏は満足げだった。
見物口。
試食口。
湯屋の刻限。
公家宿への挨拶口。
鞠庭の見物席。
酒町で出す肴の順。
公方を迎えるだけで、控えが増える。
蘭丸は、すでに少し疲れていた。
◇
義氏は、江戸を満喫した。
まず湯屋へ行った。
「よい。古河にも欲しい」
次に焼きイカを食べた。
「よい。これは酒が欲しくなる」
丸芋薄揚げを食べた。
「これは止まらぬな」
南蛮芋蜜掛けを食べた。
「御台が喜ぶ」
江戸だれ揚げを食べた。
「これは若い者が喜ぶ」
イカ大根を食べた。
「これは年寄りが喜ぶ」
蹴鞠の鞠庭を見た。
「公家がいる町らしくなった」
酒町を見た。
「にぎやかだな」
風月町の入口を遠くから見た。
「上品な名だな」
蘭丸は小声で言った。
「名は上品でございます」
義氏は楽しそうに笑った。
江戸は、公方を退屈させなかった。
それはよかった。
よかったのだが、翌朝、義氏が一人で蘭丸のもとへ来た。
顔が暗い。
蘭丸は驚いた。
「御公方様?」
義氏は、左右を見た。
「蘭丸」
「はい」
「奥をなんとかしてくれ」
蘭丸は瞬きした。
「はい?」
義氏は、さらに声を低くした。
「品揃えが良くなって、買い物が止まらんのだ」
蘭丸は、少し考えた。
「ありがとうございます?」
「礼を言うな。わしが家老に叱られるのだ」
「そう申されましても」
「前に来た時より、店が増えた。品も増えた。南蛮物まで増えた。蜜掛けも、布も、香も、硝子も、針も、鋏も、箱も、だれ壺も、何もかも増えた」
「江戸が発展した証にございます」
「だから困っておる!」
義氏は、ほとんど泣きそうだった。
「御台が言うのだ。これは古河に必要、これは姫に必要、これは奥向きに必要、これは客へ出す、これは予備、これは予備の予備」
蘭丸は、覚えのある言葉に黙った。
嶺松院様と楓姫様の買い物を思い出したのである。
奥向きの買い物は、止まらない。
止めようとすると、こちらが悪者になる。
義氏は、両手をついた。
「蘭丸、助けよ」
「助けると言われましても」
そこへ多米殿が来た。
「御公方様」
義氏が振り向く。
「多米!」
「御台様には、江戸の店々が大変お世話になっております」
「世話になりすぎておる」
「そこで、江戸で半分持ちましょう」
義氏の顔がぱっと明るくなった。
「まことか!」
蘭丸は、嫌な予感がした。
多米殿が、ただ銭を出すはずがない。
「ただし、条件がございます」
「何でも申せ」
「よいものだけを買っていただきたく」
義氏は首をかしげた。
「どういうことだ?」
多米殿は、静かに言った。
「奥様がお買いになった物は、売れるのです」
◇
義氏は、しばらく黙った。
「……売れる?」
「はい」
「御台が買うと?」
「はい」
「なぜだ」
「御台様は、奥向きの目をお持ちです」
多米殿は、帳面を開いた。
「江戸の男衆は、飯と酒と道具に寄ります。長可様は、うまい物に寄ります。御屋形様は、流れを見るために買われます」
蘭丸は、小さく頷いた。
それぞれ、買い方が違う。
「ですが、奥向きで長く使われる品、贈られて喜ばれる品、箱に入れても映える品、予備まで欲しくなる品。それを一番早く見つけるのは、奥方様方にございます」
義氏は、まだ半信半疑だった。
「つまり、御台が買う物は、他の奥も欲しがると」
「はい」
「古河の奥が欲しがる物は」
「駿府も欲しがります」
「駿府が欲しがる物は」
「吉田も、江戸の武家屋敷も、宿町の上客も欲しがります」
蘭丸は、だんだん分かってきた。
御台様の買い物は、浪費ではない。
いや、浪費でもある。
だが、同時に、売れる品を見つける目でもある。
「では、半分持つというのは」
多米殿は答えた。
「江戸の品定め代にございます」
「品定め代」
「はい。御台様に、江戸の品を選んでいただきます。選ばれた品は、御台様御選びとして控えます」
義氏の目が輝いた。
「御台様御選び」
「はい」
「それを売るのか」
「売ります」
蘭丸は小声で言った。
「商いにしましたね」
多米殿は真面目に頷いた。
「はい」
◇
ただし、何でもよいわけではなかった。
多米殿は条件を並べた。
「一つ、壊れにくいこと」
硝子の小瓶は美しいが、割れる。
割れるなら包みが要る。
包みが整わぬうちは、多く売れない。
「一つ、再び揃えられること」
一点物は喜ばれる。
だが、売り広げるには向かない。
「一つ、古河へ運んでも傷みにくいこと」
蜜掛けは日持ちを見る。
だれ壺は漏れを見る。
布は湿気を見る。
「一つ、土産として見栄えがすること」
箱。
包み。
名。
添え文。
「一つ、奥向きで揉めにくいこと」
義氏は、ここで深く頷いた。
「大事だ」
蘭丸も頷いた。
「大事でございます」
多米殿は続けた。
「高すぎてもいけませぬ。安すぎてもいけませぬ。高い品、手頃な品、数を配る品を分けます」
「そこまで」
「はい。奥向きの買い物は、ただの買い物ではございませぬ。贈り物、返礼、面目、予備、見せ合いが混ざります」
義氏は、両手で顔を覆った。
「それだ。それで家老に叱られるのだ」
「ですので、叱られぬ控えを作ります」
「叱られぬ控え!」
義氏は、救いを見た顔になった。
◇
御台様の買い物は、あらためて江戸礼式取次の者も立ち会うことになった。
今川氏真も呼ばれた。
氏真は、話を聞いて微笑んだ。
「よきことにございます」
義氏は、すがるように言った。
「氏真殿も、そう思うか」
「はい。奥向きの品は、礼にも通じます」
「買いすぎではないか」
「買いすぎることも、ございます」
「そこは否定してくれぬのか」
氏真は穏やかに言った。
「買いすぎを、品定めに変えるのがよろしゅうございます」
義氏は、多米殿を見た。
「同じことを言うな」
多米殿は頭を下げた。
「実務にございます」
氏真は、品を一つずつ見た。
南蛮芋蜜掛け。
「これは、奥向きに強い。ただし、包みを上品に」
更紗。
「よき品。ただし、誰へ贈るかで柄を分けるべきです」
針と鋏。
「実用の品。奥向きの女衆に喜ばれましょう」
硝子の小瓶。
「美しい。だが割れる。贈るなら箱が要る」
江戸だれの小壺。
「味はよい。名を整えれば、式の膳にも使えます」
義氏は感心した。
「氏真殿、買い物にも強いのか」
「礼の半分は、贈り物にございます」
蘭丸は小声で言った。
「また恐ろしいことを上品に」
◇
いよいよ、御台様の買い物が始まった。
義氏は、少し離れて見ていた。
逃げるためである。
だが、多米殿に見つかった。
「御公方様も、控えをご確認ください」
「わしもか」
「家老衆へ説明なさるためにございます」
「そうであった……」
御台様は、店をゆっくり見た。
まず布。
「この更紗はよいけれど、古河の奥には少し派手です。こちらの方がよいでしょう」
多米殿が書く。
古河向き、落ち着き柄。
次に硝子。
「小瓶は美しい。けれど、子供の手に届くところには置けませぬ」
多米殿が書く。
飾り棚向き。子供口注意。
次に南蛮芋蜜掛け。
「これは必ず売れます」
多米殿の筆が速くなる。
奥向き強し。箱入れ要。数を揃えるべし。
次に針と鋏。
「これは、上の者だけでなく、働く女衆にも配れます」
蘭丸は感心した。
「そこまで見られるのですね」
御台様は、にこりと笑った。
「奥は、見えるところだけで動いておりませぬ」
蘭丸は、少し背筋を伸ばした。
「勉強になります」
義氏は横で小さく言った。
「勉強にはなる。銭も減る」
◇
御台様の目は、確かだった。
美しいだけの品を選ばない。
高いだけの品も選ばない。
珍しいだけの品も選ばない。
「これは、最初は喜ばれます。けれど、二度目は要りませぬ」
「これは、奥向きより商家向きです」
「これは、贈る相手を選びます。間違えると嫌味になります」
「これは、数が欲しい品です」
「これは、箱の方が品を上げます」
多米殿は、ほとんど無言で書き続けた。
氏真も頷く。
「御台様、実に見事にございます」
御台様は笑った。
「買っているだけです」
義氏が小声で言った。
「だから怖いのだ」
蘭丸は思った。
これは、ただの買い物ではない。
奥向きの品定めである。
贈答の稽古である。
売れる品の見極めである。
江戸の店は、御台様に見られることで鍛えられる。
◇
買い物が終わると、多米殿は支払いを分けた。
公方家私用分。
古河御所奥向き分。
姫君分。
返礼候補分。
江戸品定め分。
菱屋見本分。
駿府高家所送り分。
義氏は、控えを見て目を丸くした。
「半分どころか、だいぶ分かれたな」
「はい」
「家老に見せてもよいか」
「見せるための控えにございます」
義氏は、心底ほっとした顔をした。
「助かった」
蘭丸は、思わず言った。
「御公方様、買い物でこれほど追い詰められておられたのですね」
「蘭丸」
「はい」
「奥は強い」
「存じております」
二人は、しばらく無言で頷き合った。
多米殿は、その横で新しい帳面を作っていた。
御台様御選び控え。
蘭丸は、嫌な予感がした。
「多米殿、それは」
「江戸の新しい品定め帳にございます」
「売るのですね」
「売ります」
「名前は」
「御台様御選び」
義氏が、少し慌てた。
「勝手に名を使ってよいのか」
御台様が後ろから言った。
「よい品だけなら」
義氏は振り向いた。
「聞いておったのか」
「もちろんです」
多米殿は、深く頭を下げた。
「では、よい品だけを載せます」
御台様は満足そうに頷いた。
「粗い品を混ぜれば、許しません」
「承知いたしました」
蘭丸は思った。
多米殿は、とんでもない番を見つけてしまった。
◇
その日の夕方、江戸の店々に新しい定めが出た。
御台様御選びに入る品は、菱屋と江戸礼式取次が見届けること。
同じ品を再び揃えられること。
包み、箱、壺、名を整えること。
古河、駿府、吉田へ運んでも傷みにくいこと。
奥向きで揉めにくいこと。
高き品、手頃な品、数を配る品を分けること。
粗き品を混ぜるべからず。
蘭丸は、それを読み上げてから言った。
「買い物から、また定めが増えました」
多米殿は答えた。
「よい買い物は、町を鍛えます」
義氏は、だいぶ元気を取り戻していた。
「これなら、家老に叱られぬな」
蘭丸は少し考えた。
「叱られにくくはなるかと」
「叱られぬとは言わぬのか」
「奥向きのことは、私にも分かりませぬ」
義氏は深く頷いた。
「正直でよい」
◇
夜、古河公方江戸屋敷では、御台様が買った品が並べられた。
義氏は、控えを持って家老に説明していた。
「これは私用ではない。江戸品定め分である」
「こちらは返礼候補」
「こちらは菱屋見本」
「こちらは駿府高家所送り」
家老は、じっと控えを見た。
「……以前よりは、筋が通っておりますな」
義氏は、ほっとした。
「であろう」
だが、家老は続けた。
「ただし、総額は増えております」
義氏は固まった。
「……江戸が半分持つ」
「それでも増えております」
義氏は、遠い目をした。
その頃、蘭丸は多米殿に尋ねていた。
「本当に江戸で半分持って、よろしいのですか」
多米殿は頷いた。
「よろしゅうございます」
「損では」
「損ではございませぬ」
「なぜです」
「御台様が選んだ品は、明日から売れます」
蘭丸は、店の方を見た。
すでに、菱屋の者が包みを整えている。
職人が箱の寸法を測っている。
だれ壺の口を改めている。
蜜掛けの包みを上品に変えている。
買い物は、終わっていなかった。
売り物へ変わっていた。
◇
翌日、江戸の店には小さな控え書きが置かれた。
御台様御選び。
それだけで、奥向きの女衆が足を止めた。
「どれですか」
「こちらにございます」
「古河の御台様が?」
「はい」
「では、包みも見せて」
蘭丸は、それを見て呟いた。
「本当に売れております」
多米殿は、少しだけ満足そうだった。
「奥様がお買いになる物は、売れるのです」
義氏も遠くから見ていた。
売れている。
たしかに売れている。
だが、御台様もまた新しい品を見つけていた。
義氏は、小さく震えた。
「蘭丸」
「はい」
「これは、終わるのか」
蘭丸は、店を見た。
御台様を見た。
多米殿の帳面を見た。
そして、正直に答えた。
「終わらぬと思います」
義氏は、がくりと肩を落とした。
「やはりか」
多米殿は筆を走らせていた。
御台様御選び、初例。
買い物、品定めへ転ず。
古河公方様、家老衆への説明控えを要す。
奥向きの目、商いに強し。
蘭丸は最後の一行を見た。
「奥向きの目、商いに強し」
「はい」
「怖いですね」
「はい」
多米殿は、真面目に頷いた。
「ですので、味方にいたします」
江戸は、飯で人を集めた。
酒で夜を作った。
湯で人を留めた。
礼で人を座らせた。
そして今度は、奥向きの買い物で品を鍛え始めた。
足利義氏は、江戸を満喫した。
だがその代わり、御台様の買い物は止まらなくなった。
蘭丸は、肩を落とす古河公方を見て、少し同情した。
公方にも、勝てぬ相手がいる。
江戸は今日も、強い者から順に困らせていく町であった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
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『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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