第52帳 今川殿、蹴るだけにあらず
蹴鞠の鞠が屋根を打った翌日、江戸の者たちは、まだその話をしていた。
「森長可様が蹴った鞠が、屋根まで行ったそうだ」
「いや、屋根を越えかけたらしい」
「公家宿を飛び越えたとも聞いたぞ」
「それは飛ばしすぎだ」
噂は、少しずつ大きくなる。
森蘭丸は、朝から何度も首を振ることになった。
「屋根を壊してはおりませぬ」
そう言うたびに、町人たちは少し残念そうな顔をした。
長可は長可で、まったく反省していない。
「壊しておらぬのだから、よいではないか」
可隆が即座に言った。
「壊さなかったことを手柄にするな」
「二度目は弱く蹴った」
「一度目が強すぎたのだ」
そこへ今川氏真が、穏やかな顔で現れた。
「森殿、昨日はよき鞠でございました」
長可は腕を組んだ。
「今川殿の鞠は、面白かった」
「それは何より」
「だが」
蘭丸は嫌な予感がした。
「兄上」
「蹴る方は分かった。次は、打つ方を見せてもらおう」
氏真は、にこりと笑った。
「よろしゅうございます」
蘭丸は思わず声を上げた。
「よろしいのですか!」
氏真は、まるで庭を散歩するように答えた。
「少しだけなら」
◇
江戸鞠庭の隣に、仮の稽古場が設けられた。
上泉伊勢守信綱が立てた新陰流の稽古所とは別である。
公家宿の近くで、氏真が軽く木刀を取る。
その姿を見て、長可が少し眉を動かした。
「細い」
蘭丸は慌てて言った。
「兄上!」
氏真は怒らなかった。
「細いくらいが、私には合います」
長可は、自分の木刀を持った。
太い。
重い。
見ただけで痛そうである。
多米殿は、すでに帳面を開いていた。
「鞠会の次は、木刀稽古控えにございますね」
蘭丸はため息をついた。
「控えが間に合いません」
「間に合わせます」
風魔小太郎が、いつの間にか木陰にいた。
「見る」
蘭丸は、もう驚かなかった。
「風魔殿もでございますか」
「今川殿は、見ておく」
「なぜです」
「弱く見える者が、弱いとは限らぬ」
蘭丸は、少しだけ氏真を見た。
氏真は、ただ静かに立っている。
武者の荒々しさはない。
構えも大きくない。
だが、何かがおかしい。
隙があるようで、踏み込む場所が見えない。
◇
長可が言った。
「今川殿は、剣もやるのか」
氏真は答えた。
「少しだけ、卜伝先生より」
場が、少し静かになった。
塚原卜伝。
その名は、武家なら知らぬ者が少ない。
長可の目が変わった。
「ほう」
可成も、静かに氏真を見た。
「では、遊びではないな」
氏真は柔らかく首を振った。
「遊びのうちに済ませとうございます」
蘭丸は小声で言った。
「その言い方が一番怖いのでございますが」
長可は笑った。
「よい。打ち込むぞ」
「どうぞ」
氏真は、構えを大きく変えない。
長可が一歩踏み込んだ。
速い。
重い。
木刀が振り下ろされる。
蘭丸は、思わず息を止めた。
だが、氏真はそこにいなかった。
大きく避けたのではない。
逃げたのでもない。
ただ、半歩ずれていた。
長可の木刀は空を切る。
次の瞬間、氏真の木刀が長可の手首の先に触れていた。
打ったのではない。
置いたように見えた。
長可が止まる。
「……今、何をした」
氏真は穏やかに答えた。
「森殿が、打つ場所を先に教えてくださいました」
「教えておらぬ」
「足が教えました」
蘭丸は、ぞくりとした。
◇
長可は、もう一度打ち込んだ。
今度は、横からである。
速い。
だが、氏真は受けない。
木刀と木刀がぶつかる音はしない。
また半歩。
ほんの少し。
長可の力が伸び切る前に、氏真の木刀が肩の前に入る。
長可は止まらざるを得ない。
「受けぬのか」
「受ければ、森殿の力をいただくことになります」
「いただけ」
「重うございます」
長可は笑った。
「正直だな」
「正直でなければ、骨が折れます」
可隆が小さく言った。
「うまい」
蘭丸は、長可を見た。
長可は怒っていない。
むしろ楽しそうだった。
上泉伊勢守と立ち合った時とは違う。
あの時は、長可が何もできなかった。
今回は違う。
氏真は消えない。
圧倒もしない。
だが、長可が攻めきれない。
届きそうで、届かない。
押せそうで、押せない。
長可が力を出そうとすると、その前に力の道を外される。
◇
見物していた黒菱衆が、ざわついた。
「長可様の打ち込みを、受けておらぬ」
「逃げているようにも見えぬ」
「当たるところにいない」
風魔がぽつりと言った。
「当たるところにおらぬ者は、斬れぬ」
多米殿は書いた。
当たるところにおらぬ。
蘭丸は言った。
「それも控えるのですか」
「大事にございます」
氏真は、長可から目を離さずに言った。
「卜伝先生は、勝つ剣より、死なぬ剣を重んじられました」
可成が頷いた。
「戦場で生き残る剣だな」
「はい。戦場では、勝ったように見えても、次の矢で死ぬことがございます」
長可は木刀を握り直した。
「ならば、死なぬように勝てばよい」
「それが最上にございます」
「面白い」
長可の足が変わった。
今度は、ただ突っ込まない。
間合いを測っている。
蘭丸は驚いた。
「兄上が、間を見ております」
可隆が言った。
「珍しいな」
長可が怒鳴った。
「聞こえておるぞ!」
「聞こえるように言った」
◇
長可が、今度はゆっくり詰めた。
木刀を上げない。
肩も動かさない。
氏真は、静かに立っている。
長可が、急に踏み込んだ。
先ほどより小さい打ち込み。
速さは落ちたが、読みにくい。
氏真の木刀が、初めて長可の木刀に触れた。
軽い音。
受けたのではない。
流した。
長可の木刀が、少しだけ外へそれる。
その隙に、氏真の足が一歩入る。
木刀の先が、長可の喉元の前で止まった。
蘭丸は息を呑んだ。
長可も止まった。
そして、笑った。
「今のは、負けたな」
氏真は首を振った。
「止めたのでございます」
「負けだろう」
「止めたのでございます」
「面倒だな」
「剣も礼も、面倒なものにございます」
長可は大きく笑った。
「今川殿。蹴るだけではなかったか」
「蹴るだけでは、江戸へ来られませぬ」
蘭丸は、思わず氏真を見た。
この男は、かつて今川家を失った。
だが、何も持たぬ男ではない。
礼を知る。
文を知る。
蹴鞠を知る。
そして、剣も知る。
武田に降った後、ただ生き延びていたのではない。
武ではない場所で、武田に必要なものを担いながら、自分の立つ場所を作っていた。
◇
長可は、さらに二度、打ち込んだ。
一度は、氏真が外した。
一度は、長可の木刀が氏真の袖をかすめた。
その瞬間、見物がどよめいた。
長可がにやりとした。
「当てたぞ」
氏真は袖を見た。
「かすりました」
「当てた」
「かすりました」
「同じだ」
「違います」
蘭丸は小声で言った。
「そこは譲らないのですね」
可成が笑った。
「かすらせた分、長可も見えてきたか」
氏真は頷いた。
「森殿は、速く覚えます」
長可は胸を張った。
「そうだろう」
可隆が言った。
「褒められるとすぐ機嫌が直るな」
「兄上、黙れ」
氏真は、木刀を下ろした。
「ここまでにいたしましょう」
長可は不満そうだった。
「まだやれる」
「やれます。だから、ここまでに」
「なぜだ」
「熱くなる前に止めるのも、稽古にございます」
長可は少し黙った。
そして、可成を見た。
可成は頷いた。
「正しい。稽古で怪我をしてはならぬ」
「……なら、止める」
蘭丸はまた驚いた。
「兄上が止まりました」
可隆が言った。
「今日は珍しいことが多い」
◇
稽古場の端で、多米殿が控えをまとめていた。
江戸礼武稽古控え。
今川氏真殿、塚原卜伝先生の教えあり。
剣は、打つだけにあらず。
当たるところに立たぬこと。
受けすぎぬこと。
相手の足を見ること。
強き打ち込みは、先に道を見せること。
止める稽古は、斬る稽古に勝ることあり。
森長可様、初手、空を打つ。
二手目、肩前に止められる。
三手目、喉元に止められる。
四手目、袖をかすめる。
森長可様、今川氏真殿を「弱くない」と評す。
蘭丸は最後を見た。
「兄上の言葉が、ずいぶん失礼に見えます」
多米殿は答えた。
「長可様にとっては、褒め言葉にございます」
「確かに」
長可は氏真に向かって言った。
「今川殿、弱くないな」
蘭丸は頭を抱えた。
「そのまま言わないでください」
氏真は、まったく気を悪くした様子がない。
「ありがとうございます」
長可は不思議そうな顔をした。
「礼を言うほどか」
「森殿にそう言われるのは、なかなかのことと聞いております」
可隆が頷いた。
「それはそうだ」
蘭丸も頷いた。
「それはそうでございます」
◇
その後、氏真は木刀を置き、蹴鞠の鞠を手に取った。
「森殿」
「何だ」
「鞠も剣も、少し似ております」
「どこがだ」
「強すぎれば、場が切れます。遅すぎれば、相手に読まれます。次を見ずに動けば、続きませぬ」
長可は腕を組んだ。
「つまり、次を見るのか」
「はい」
「敵もか」
「敵も、味方も、場も」
可成が静かに言った。
「将にも要ることだ」
長可は、今度はすぐに言い返さなかった。
蘭丸は、その横顔を見た。
長可が、何かを考えている。
それだけで、今日の稽古には意味があった。
氏真は続けた。
「江戸は、よく動きます。だが、動きすぎれば、ぶつかります」
「昨日も聞いたな」
「はい。ですから、鞠で次へ渡すことを見せました。今日は、剣で当たらぬところへ立つことを見せました」
多米殿が頷いた。
「町も同じにございますね」
蘭丸は多米殿を見た。
「町も」
「酒町と風月町を分けたのも、湯屋の刻限を分けたのも、当たるところを外すためにございます」
風魔が言った。
「揉める前に、場所をずらす」
蘭丸は、なるほどと思った。
剣の間合い。
鞠の間合い。
町の間合い。
すべて、違うようで似ている。
◇
夕方、公家宿へ戻る前に、氏真は蘭丸へ言った。
「森殿。江戸は、力に満ちています」
「はい」
「力は、よきものです。人を動かします。物を生みます。道を開きます」
氏真は、少しだけ稽古場を見た。
「ですが、力は当たります」
「当たる」
「人と人。町と町。家と家。口と口。力が強いほど、当たった時の音も大きい」
蘭丸は、酒町、風月町、湯屋町を思い出した。
どれも、人が集まり、銭が動き、力が生まれる場所だった。
そして、どれも揉めた。
氏真は静かに言った。
「駿府は、その当たりを少し弱める町でありたいのです」
「礼で、でございますか」
「礼で。文で。座で。時には、鞠と剣で」
蘭丸は頭を下げた。
「氏真殿が駿府におられる意味、少し分かった気がいたします」
氏真は笑った。
「少しで十分にございます。礼は、一度で分かるものではございませぬ」
蘭丸は苦笑した。
「それもまた、面倒でございますね」
「はい」
氏真は、実に晴れやかに頷いた。
「面倒を引き受けるのが、高家の務めにございます」
◇
その夜、長可は焼きイカを食いながら、木刀を横に置いていた。
蘭丸は警戒した。
「兄上、まさかまた稽古を」
「せぬ」
「本当に?」
「今日は止められた」
可隆が笑った。
「珍しく、止まることを覚えたか」
長可は、焼きイカを噛みながら言った。
「今川殿は、軽い」
「はい」
「だが、届かぬ」
「はい」
「軽いのに、重い」
蘭丸は少し驚いた。
長可の言葉は粗い。
だが、分かっている。
氏真の剣は、力では長可に勝たない。
だが、間を取れば長可を止められる。
それを長可は感じ取ったらしい。
「兄上、氏真殿を認めたのですね」
長可は当然のように言った。
「弱くないからな」
可隆が言った。
「それはもう聞いた」
長可は焼きイカをもう一口食った。
「次は、俺が当てる」
蘭丸はため息をついた。
「やはり、終わっておりませんね」
多米殿は、横で静かに帳面へ書き足した。
森長可様、再戦を望む。
今川氏真殿、笑って受け流す。
剣術稽古、江戸に礼の間を教える。
蘭丸はそれを見て、少しだけ笑った。
蹴鞠は、次へ渡すことを教えた。
剣は、当たらぬところへ立つことを教えた。
江戸は速い。
江戸は強い。
だが、速さと強さだけでは、町も人もぶつかる。
今川氏真は、それを蹴鞠と剣で見せた。
武田の高家。
その役目は、文と式だけではない。
強すぎる武田の力を、朝廷へ、公家へ、町へ、人へ、当たりすぎぬよう通すこと。
蘭丸は、帳面を閉じた。
「今川殿、蹴るだけにあらず、でございますね」
多米殿は頷いた。
「はい。打つだけにもあらず」
その頃、氏真は公家宿で、静かに鞠を拭いていた。
江戸の夜は、相変わらず騒がしい。
酒の声。
湯屋の湯気。
鍛冶の音。
風月町の歌。
だが、その騒がしさの中に、ほんの少しだけ、間が生まれていた。
駿府から来た男は、江戸に勝ったわけではない。
ただ、江戸がぶつからぬよう、半歩ずらして見せたのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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