↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
52/60

第51帳 蹴鞠は蹴り飛ばさぬ

 公家宿が置かれると、江戸の空気が少し変わった。

 酒町の声は相変わらず大きい。

 湯屋町の湯気も上がる。

 鍛冶町では金槌が鳴る。

 焼きイカの煙も、風向き次第で通りへ流れる。

 だが、公家宿の近くでは、人の足が少し遅くなった。

 烏帽子の者が歩く。

 香の匂いがする。

 声が低くなる。

 誰かが慌てて道を譲る。

 森蘭丸は、それを見て思った。

 江戸に、速くない場所ができた。

 その翌日、今川氏真が言った。

「せっかくです。鞠を蹴りましょう」

 蘭丸は、すぐには意味が分からなかった。

「鞠、でございますか」

「はい。公家の方々もおられます。江戸の者にも、少し見せておくのがよろしゅうございましょう」

 多米殿が帳面を開いた。

「鞠会にございますね」

「ええ」

「場所が要ります」

 氏真は微笑んだ。

「そうでございます。鞠は、ただ蹴るものではございませぬ。場が要ります」

 蘭丸は、嫌な予感がした。

「また、場ですか」

「礼には、場がつきものです」

     ◇

 鞠庭は、公家宿の近くに設けられることになった。

 広すぎてもいけない。

 狭すぎてもいけない。

 人が踏み荒らした泥道でもいけない。

 酒町の騒ぎが近すぎてもいけない。

 風月町の音が届きすぎてもいけない。

 長可は、絵図を見て言った。

「蹴るだけなら、相撲場でよいだろう」

 氏真は穏やかに答えた。

「相撲場では、鞠が逃げます」

「追えばよい」

「追うものではございませぬ」

「では、何をする」

「落とさぬように、次へ送ります」

 長可は眉をひそめた。

「蹴るのに、蹴り飛ばさぬのか」

「はい」

「なぜだ」

「戻って来ぬからでございます」

 蘭丸は思わず呟いた。

「当たり前のことを、上品に言われました」

 可隆が長可の横に立った。

「長可、お前は見物だ」

「なぜだ」

「蹴り飛ばす顔をしている」

「顔で分かるのか」

「分かる」

 長可は少し不満そうだった。

「一度くらい蹴らせろ」

 氏真は笑った。

「後ほど、試していただきましょう」

 蘭丸は心の中で、やめてほしいと思った。

     ◇

 鞠会の日、江戸の者たちは物珍しそうに集まった。

 黒菱衆。

 町番。

 菱屋の者。

 宿町の女将。

 湯屋町の湯番。

 風月町の女衆。

 道場帰りの若者。

 そして、公家たち。

 多米殿は、すでに見物の口を分けていた。

 公家席。

 武家見物席。

 町人見物口。

 女衆見物口。

 鞠庭へ近づきすぎぬ縄。

 鞠を拾う小者。

 雨天控え。

 装束控え。

 蘭丸はそれを見て言った。

「鞠一つで、ここまで要りますか」

 多米殿は答えた。

「人が集まれば要ります」

「何をしても、結局それですね」

「はい」

 氏真は、鞠庭へ入った。

 公家たちも続く。

 装束は軽やかで、歩き方まで違った。

 武者の足ではない。

 商人の足でもない。

 まるで、庭の上に音を置かぬように進んでいる。

 長可が小声で言った。

「遅い」

 可隆が返す。

「黙って見ろ」

「見ている」

「口が見ていない」

     ◇

 鞠が上がった。

 思ったより高くない。

 氏真が、軽く蹴る。

 強くない。

 派手でもない。

 だが、鞠はふわりと次の者の前へ落ちる。

 次の者がまた蹴る。

 鞠は落ちない。

 公家が蹴る。

 氏真が受ける。

 別の者へ送る。

 また戻る。

 江戸の者たちは、最初、何を見ればよいのか分からなかった。

 誰も勝たない。

 誰も倒れない。

 誰も叫ばない。

 鞠はただ、落ちずに回っている。

 長可が言った。

「弱い蹴りだ」

 氏真の耳に届いたらしい。

 氏真は鞠を受け、次へ送りながら、こちらを見ずに言った。

「強く蹴れば、次の者が困ります」

 長可は黙った。

 鞠は落ちない。

 蘭丸は、じっと見ていた。

 蹴りは弱い。

 だが、雑ではない。

 高すぎない。

 低すぎない。

 遠すぎない。

 近すぎない。

 次の者が受けやすい場所へ、鞠が行く。

 自分が目立つ蹴りではない。

 次の者を困らせぬ蹴りであった。

 蘭丸は、ようやく少し分かった。

 これは、戦とは逆だ。

 相手を崩すのではない。

 相手が崩れぬように送る。

 場を切らさぬための技である。

     ◇

 鞠が続くほど、見物の声は小さくなった。

 酒町の男たちまで、黙って見ている。

 風月町の女衆は、目を細めていた。

 湯屋の子供たちは、首を上げたまま鞠を追っている。

 長可だけが、まだ不満そうだった。

「落とさぬのは分かった。だが、勝ちはどこだ」

 氏真は、鞠を受け、柔らかく蹴った。

「続くことが、まず勝ちでございます」

「敵を倒さぬのに」

「敵ではございませぬので」

「では、何だ」

「ともに場を作る相手にございます」

 長可は、腕を組んだ。

「分からぬ」

 可成が静かに言った。

「隊も同じだ」

 長可が振り向いた。

「父上」

「己だけ前へ出れば、後ろが崩れる。強く出すぎれば、次の者が受けられぬ。続かぬ隊は、勝てぬ」

 長可は、鞠庭を見た。

「……隊か」

 氏真は、鞠を落とさず続けながら言った。

「江戸は、人を動かす町。駿府は、場を崩さぬ町。蹴鞠は、その稽古にございます」

 蘭丸は、その言葉に深く頷いた。

 江戸は強い。

 匂いが強い。

 味が強い。

 酒も強い。

 湯気も強い。

 商いも強い。

 だが、駿府の強さは違う。

 落とさない。

 崩さない。

 強くしすぎない。

 次へ渡す。

 それは、江戸にはまだ少ない技であった。

     ◇

 鞠会が終わると、見物の者たちは妙な顔をしていた。

「何だか、静かに疲れた」

「見ているだけなのに、肩がこった」

「でも、もう一度見たい」

 多米殿は、それを聞いてすぐ書いた。

 鞠会、見物需要あり。

 蘭丸はため息をついた。

「すぐ商いにしないでください」

「商いではなく、場の確認にございます」

「言い方を変えましたね」

「はい」

 公家たちは満足そうだった。

 江戸の者が、少しだけ静かに見た。

 それだけで、鞠会を開いた意味があったらしい。

 氏真は、長可の方を見た。

「森殿。少し蹴ってみますか」

 長可の顔が輝いた。

「よいのか」

 蘭丸は慌てた。

「氏真殿、本当に?」

「一度は、蹴ってみねば分からぬこともございます」

 可隆が長可に言った。

「蹴り飛ばすな」

「分かっておる」

「本当に分かっているか」

「落とさねばよいのだろう」

 蘭丸は思った。

 分かっていない。

     ◇

 鞠が長可へ送られた。

 長可は構えた。

 その構えだけで、鞠庭の空気が変わった。

 氏真が静かに言った。

「森殿、力を抜いて」

「抜いておる」

 可隆が小声で言った。

「抜いていない」

 鞠が落ちてくる。

 長可が蹴った。

 音がした。

 鞠は、見事な勢いで空へ上がった。

 上がりすぎた。

 公家たちが一斉に顔を上げる。

 黒菱衆も顔を上げる。

 町人たちも顔を上げる。

 鞠は鞠庭を越え、公家宿の屋根の端をかすめた。

「おお」

 長可は満足そうに言った。

「高い」

 蘭丸は叫んだ。

「高ければよいものではございませぬ!」

 小者が慌てて走った。

 鞠は屋根から転がり落ち、藁束の上で止まった。

 幸い、破れてはいない。

 氏真は、怒らなかった。

 ただ、にこやかに言った。

「森殿」

「何だ」

「強い蹴りは、上手ではございませぬ」

 長可は眉をひそめた。

「では、何が上手い」

「次の者が、よき姿で受けられる蹴りにございます」

 長可は、しばらく黙った。

 そして、可成を見た。

 可成は頷いた。

「隊も同じだ」

 長可は腕を組んだ。

「……つまり、飯で言えば、次の者が食いやすいように置くのか」

 蘭丸は目を閉じた。

「なぜ飯になるのですか」

 氏真は楽しそうに笑った。

「分かりやすくて、よろしゅうございます」

     ◇

 その後、長可はもう一度だけ蹴った。

 今度は、少しだけ弱かった。

 まだ強い。

 だが、鞠は屋根へは行かなかった。

 氏真がそれを受け、次へ送る。

 公家の一人が受け、さらに送る。

 鞠は、何とか続いた。

 長可は、それを見て少し笑った。

「続くな」

 氏真が頷いた。

「続けるために蹴ります」

「倒すためではなく」

「はい」

「面倒だが、面白い」

 蘭丸は驚いた。

「兄上が、面白いと」

 可隆が言った。

「珍しいな」

 長可は氏真を見た。

「今川殿。これは、弱い遊びではないな」

 氏真は穏やかに答えた。

「弱く見せる遊びにございます」

「なお面倒だ」

「それが礼でございます」

 長可は、妙に納得した顔をした。

     ◇

 夕刻、多米殿は鞠会控えをまとめた。

 江戸鞠庭控え。

 公家宿近くに鞠庭を置く。

 酒町、風月町より音の届きすぎぬ場所とする。

 公家席、武家見物席、町人見物口を分ける。

 鞠庭へ近づきすぎぬよう縄を張る。

 鞠を拾う小者を置く。

 雨天控えを作る。

 装束蔵とつなげる。

 鞠会は、江戸の者に礼と間を見せる場とする。

 蹴鞠は、蹴り飛ばすものにあらず。

 次へ渡すものなり。

 強く蹴るより、受けやすく送るを上とする。

 初例、森長可様、屋根を打つ。

 蘭丸は最後の一行を見た。

「やはり入りますか」

 多米殿は真面目に頷いた。

「後のために」

「後とは」

「長可様が、また蹴る時のためにございます」

 長可は不満そうに言った。

「屋根を壊しておらぬ」

 可隆が即座に答えた。

「壊さなかったことを誇るな」

 氏真は、鞠を手に取っていた。

「森殿は、二度目で少し弱くなりました」

 長可は胸を張った。

「そうだろう」

 蘭丸は小声で言った。

「褒められておりますかね」

 氏真は聞こえていたらしい。

「褒めております」

     ◇

 鞠会のあと、江戸の町では妙な言葉が流行った。

「蹴り飛ばすな、次へ渡せ」

 酒町の勘定で使われた。

 湯屋の刻限で使われた。

 鍛冶町の仕事渡しで使われた。

 菱屋の荷受けで使われた。

 長可まで、飯を皿に盛りながら言った。

「次が取りやすいように置け」

 蘭丸は、少し感心した。

 蹴鞠は、思ったより江戸に効いていた。

 江戸は、動かす町である。

 だが、動かすだけでは、人も荷も場も乱れる。

 次へ渡す。

 落とさず続ける。

 強すぎぬよう整える。

 それは、駿府から来た礼の技だった。

 蘭丸は、鞠庭の土を見た。

 そこには、派手な跡はない。

 ただ、人の足が円を描くように残っている。

 江戸に、また一つ、速くない場所ができた。

 氏真は、静かに言った。

「江戸は、よく動きます」

「はい」

「ならば、時には落とさぬ稽古も要りましょう」

 蘭丸は頷いた。

 飯も、酒も、湯も、荷も、礼も。

 蹴り飛ばすのではない。

 次へ渡す。

 それができれば、江戸はただ速いだけの町ではなくなる。

 そう思ったところで、長可が言った。

「次は、打つ方を見せてもらおう」

 蘭丸は、嫌な予感がして氏真を見た。

 氏真は、穏やかに笑っていた。

「よろしゅうございます」

 蘭丸は、心の中で叫んだ。

 礼は、まだ終わっていなかった。



――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


――――――――――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。