第51帳 蹴鞠は蹴り飛ばさぬ
公家宿が置かれると、江戸の空気が少し変わった。
酒町の声は相変わらず大きい。
湯屋町の湯気も上がる。
鍛冶町では金槌が鳴る。
焼きイカの煙も、風向き次第で通りへ流れる。
だが、公家宿の近くでは、人の足が少し遅くなった。
烏帽子の者が歩く。
香の匂いがする。
声が低くなる。
誰かが慌てて道を譲る。
森蘭丸は、それを見て思った。
江戸に、速くない場所ができた。
その翌日、今川氏真が言った。
「せっかくです。鞠を蹴りましょう」
蘭丸は、すぐには意味が分からなかった。
「鞠、でございますか」
「はい。公家の方々もおられます。江戸の者にも、少し見せておくのがよろしゅうございましょう」
多米殿が帳面を開いた。
「鞠会にございますね」
「ええ」
「場所が要ります」
氏真は微笑んだ。
「そうでございます。鞠は、ただ蹴るものではございませぬ。場が要ります」
蘭丸は、嫌な予感がした。
「また、場ですか」
「礼には、場がつきものです」
◇
鞠庭は、公家宿の近くに設けられることになった。
広すぎてもいけない。
狭すぎてもいけない。
人が踏み荒らした泥道でもいけない。
酒町の騒ぎが近すぎてもいけない。
風月町の音が届きすぎてもいけない。
長可は、絵図を見て言った。
「蹴るだけなら、相撲場でよいだろう」
氏真は穏やかに答えた。
「相撲場では、鞠が逃げます」
「追えばよい」
「追うものではございませぬ」
「では、何をする」
「落とさぬように、次へ送ります」
長可は眉をひそめた。
「蹴るのに、蹴り飛ばさぬのか」
「はい」
「なぜだ」
「戻って来ぬからでございます」
蘭丸は思わず呟いた。
「当たり前のことを、上品に言われました」
可隆が長可の横に立った。
「長可、お前は見物だ」
「なぜだ」
「蹴り飛ばす顔をしている」
「顔で分かるのか」
「分かる」
長可は少し不満そうだった。
「一度くらい蹴らせろ」
氏真は笑った。
「後ほど、試していただきましょう」
蘭丸は心の中で、やめてほしいと思った。
◇
鞠会の日、江戸の者たちは物珍しそうに集まった。
黒菱衆。
町番。
菱屋の者。
宿町の女将。
湯屋町の湯番。
風月町の女衆。
道場帰りの若者。
そして、公家たち。
多米殿は、すでに見物の口を分けていた。
公家席。
武家見物席。
町人見物口。
女衆見物口。
鞠庭へ近づきすぎぬ縄。
鞠を拾う小者。
雨天控え。
装束控え。
蘭丸はそれを見て言った。
「鞠一つで、ここまで要りますか」
多米殿は答えた。
「人が集まれば要ります」
「何をしても、結局それですね」
「はい」
氏真は、鞠庭へ入った。
公家たちも続く。
装束は軽やかで、歩き方まで違った。
武者の足ではない。
商人の足でもない。
まるで、庭の上に音を置かぬように進んでいる。
長可が小声で言った。
「遅い」
可隆が返す。
「黙って見ろ」
「見ている」
「口が見ていない」
◇
鞠が上がった。
思ったより高くない。
氏真が、軽く蹴る。
強くない。
派手でもない。
だが、鞠はふわりと次の者の前へ落ちる。
次の者がまた蹴る。
鞠は落ちない。
公家が蹴る。
氏真が受ける。
別の者へ送る。
また戻る。
江戸の者たちは、最初、何を見ればよいのか分からなかった。
誰も勝たない。
誰も倒れない。
誰も叫ばない。
鞠はただ、落ちずに回っている。
長可が言った。
「弱い蹴りだ」
氏真の耳に届いたらしい。
氏真は鞠を受け、次へ送りながら、こちらを見ずに言った。
「強く蹴れば、次の者が困ります」
長可は黙った。
鞠は落ちない。
蘭丸は、じっと見ていた。
蹴りは弱い。
だが、雑ではない。
高すぎない。
低すぎない。
遠すぎない。
近すぎない。
次の者が受けやすい場所へ、鞠が行く。
自分が目立つ蹴りではない。
次の者を困らせぬ蹴りであった。
蘭丸は、ようやく少し分かった。
これは、戦とは逆だ。
相手を崩すのではない。
相手が崩れぬように送る。
場を切らさぬための技である。
◇
鞠が続くほど、見物の声は小さくなった。
酒町の男たちまで、黙って見ている。
風月町の女衆は、目を細めていた。
湯屋の子供たちは、首を上げたまま鞠を追っている。
長可だけが、まだ不満そうだった。
「落とさぬのは分かった。だが、勝ちはどこだ」
氏真は、鞠を受け、柔らかく蹴った。
「続くことが、まず勝ちでございます」
「敵を倒さぬのに」
「敵ではございませぬので」
「では、何だ」
「ともに場を作る相手にございます」
長可は、腕を組んだ。
「分からぬ」
可成が静かに言った。
「隊も同じだ」
長可が振り向いた。
「父上」
「己だけ前へ出れば、後ろが崩れる。強く出すぎれば、次の者が受けられぬ。続かぬ隊は、勝てぬ」
長可は、鞠庭を見た。
「……隊か」
氏真は、鞠を落とさず続けながら言った。
「江戸は、人を動かす町。駿府は、場を崩さぬ町。蹴鞠は、その稽古にございます」
蘭丸は、その言葉に深く頷いた。
江戸は強い。
匂いが強い。
味が強い。
酒も強い。
湯気も強い。
商いも強い。
だが、駿府の強さは違う。
落とさない。
崩さない。
強くしすぎない。
次へ渡す。
それは、江戸にはまだ少ない技であった。
◇
鞠会が終わると、見物の者たちは妙な顔をしていた。
「何だか、静かに疲れた」
「見ているだけなのに、肩がこった」
「でも、もう一度見たい」
多米殿は、それを聞いてすぐ書いた。
鞠会、見物需要あり。
蘭丸はため息をついた。
「すぐ商いにしないでください」
「商いではなく、場の確認にございます」
「言い方を変えましたね」
「はい」
公家たちは満足そうだった。
江戸の者が、少しだけ静かに見た。
それだけで、鞠会を開いた意味があったらしい。
氏真は、長可の方を見た。
「森殿。少し蹴ってみますか」
長可の顔が輝いた。
「よいのか」
蘭丸は慌てた。
「氏真殿、本当に?」
「一度は、蹴ってみねば分からぬこともございます」
可隆が長可に言った。
「蹴り飛ばすな」
「分かっておる」
「本当に分かっているか」
「落とさねばよいのだろう」
蘭丸は思った。
分かっていない。
◇
鞠が長可へ送られた。
長可は構えた。
その構えだけで、鞠庭の空気が変わった。
氏真が静かに言った。
「森殿、力を抜いて」
「抜いておる」
可隆が小声で言った。
「抜いていない」
鞠が落ちてくる。
長可が蹴った。
音がした。
鞠は、見事な勢いで空へ上がった。
上がりすぎた。
公家たちが一斉に顔を上げる。
黒菱衆も顔を上げる。
町人たちも顔を上げる。
鞠は鞠庭を越え、公家宿の屋根の端をかすめた。
「おお」
長可は満足そうに言った。
「高い」
蘭丸は叫んだ。
「高ければよいものではございませぬ!」
小者が慌てて走った。
鞠は屋根から転がり落ち、藁束の上で止まった。
幸い、破れてはいない。
氏真は、怒らなかった。
ただ、にこやかに言った。
「森殿」
「何だ」
「強い蹴りは、上手ではございませぬ」
長可は眉をひそめた。
「では、何が上手い」
「次の者が、よき姿で受けられる蹴りにございます」
長可は、しばらく黙った。
そして、可成を見た。
可成は頷いた。
「隊も同じだ」
長可は腕を組んだ。
「……つまり、飯で言えば、次の者が食いやすいように置くのか」
蘭丸は目を閉じた。
「なぜ飯になるのですか」
氏真は楽しそうに笑った。
「分かりやすくて、よろしゅうございます」
◇
その後、長可はもう一度だけ蹴った。
今度は、少しだけ弱かった。
まだ強い。
だが、鞠は屋根へは行かなかった。
氏真がそれを受け、次へ送る。
公家の一人が受け、さらに送る。
鞠は、何とか続いた。
長可は、それを見て少し笑った。
「続くな」
氏真が頷いた。
「続けるために蹴ります」
「倒すためではなく」
「はい」
「面倒だが、面白い」
蘭丸は驚いた。
「兄上が、面白いと」
可隆が言った。
「珍しいな」
長可は氏真を見た。
「今川殿。これは、弱い遊びではないな」
氏真は穏やかに答えた。
「弱く見せる遊びにございます」
「なお面倒だ」
「それが礼でございます」
長可は、妙に納得した顔をした。
◇
夕刻、多米殿は鞠会控えをまとめた。
江戸鞠庭控え。
公家宿近くに鞠庭を置く。
酒町、風月町より音の届きすぎぬ場所とする。
公家席、武家見物席、町人見物口を分ける。
鞠庭へ近づきすぎぬよう縄を張る。
鞠を拾う小者を置く。
雨天控えを作る。
装束蔵とつなげる。
鞠会は、江戸の者に礼と間を見せる場とする。
蹴鞠は、蹴り飛ばすものにあらず。
次へ渡すものなり。
強く蹴るより、受けやすく送るを上とする。
初例、森長可様、屋根を打つ。
蘭丸は最後の一行を見た。
「やはり入りますか」
多米殿は真面目に頷いた。
「後のために」
「後とは」
「長可様が、また蹴る時のためにございます」
長可は不満そうに言った。
「屋根を壊しておらぬ」
可隆が即座に答えた。
「壊さなかったことを誇るな」
氏真は、鞠を手に取っていた。
「森殿は、二度目で少し弱くなりました」
長可は胸を張った。
「そうだろう」
蘭丸は小声で言った。
「褒められておりますかね」
氏真は聞こえていたらしい。
「褒めております」
◇
鞠会のあと、江戸の町では妙な言葉が流行った。
「蹴り飛ばすな、次へ渡せ」
酒町の勘定で使われた。
湯屋の刻限で使われた。
鍛冶町の仕事渡しで使われた。
菱屋の荷受けで使われた。
長可まで、飯を皿に盛りながら言った。
「次が取りやすいように置け」
蘭丸は、少し感心した。
蹴鞠は、思ったより江戸に効いていた。
江戸は、動かす町である。
だが、動かすだけでは、人も荷も場も乱れる。
次へ渡す。
落とさず続ける。
強すぎぬよう整える。
それは、駿府から来た礼の技だった。
蘭丸は、鞠庭の土を見た。
そこには、派手な跡はない。
ただ、人の足が円を描くように残っている。
江戸に、また一つ、速くない場所ができた。
氏真は、静かに言った。
「江戸は、よく動きます」
「はい」
「ならば、時には落とさぬ稽古も要りましょう」
蘭丸は頷いた。
飯も、酒も、湯も、荷も、礼も。
蹴り飛ばすのではない。
次へ渡す。
それができれば、江戸はただ速いだけの町ではなくなる。
そう思ったところで、長可が言った。
「次は、打つ方を見せてもらおう」
蘭丸は、嫌な予感がして氏真を見た。
氏真は、穏やかに笑っていた。
「よろしゅうございます」
蘭丸は、心の中で叫んだ。
礼は、まだ終わっていなかった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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