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第50帳 礼にも口が要る

 湯屋町ができたころ、駿府から一行が江戸へ入った。

 武者の列ではない。

 荷駄もある。

 供もいる。

 だが、槍の音より、衣擦れの音が目立つ。

 先頭近くにいたのは、今川氏真だった。

 かつての今川家当主。

 今は違う。

 武田に降った後、氏真は今川家の家督から離れた。

 駿府に留まり、武田家の高家として、朝廷、公家、式典、文書、礼法の実務を担っている。

 武ではない。

 だが、武田に足りぬものを扱う男であった。

 氏真の後ろには、駿府に下向していた公家たちがいた。

 烏帽子。

 直衣。

 香の匂い。

 柔らかな声。

 ゆっくりした足取り。

 江戸の町人たちは、物珍しそうに見た。

 酒町の者も見る。

 湯屋帰りの者も見る。

 鍛冶町の者も、煤のついた顔で見る。

 風月町の女衆まで、遠くからそっと見ていた。

 森蘭丸は、多米殿と並んで出迎えた。

「氏真殿、お久しゅうございます」

 氏真は、柔らかく笑った。

「森殿、江戸は変わりましたな」

「変わりすぎて、こちらが追いついておりませぬ」

 氏真は、町を見渡した。

 荷が動く。

 人が動く。

 煙が上がる。

 湯気が上がる。

 酒の匂い、焼きイカの匂い、薪の匂いが混ざっている。

 氏真は、感心したように頷いた。

「速い町です」

 蘭丸は首をかしげた。

「速い、でございますか」

「はい。江戸は速い」

 その後ろで、公家の一人が小さく言った。

「にぎやかではある」

 別の公家が続けた。

「物もある」

 さらに別の公家が、少し眉を寄せた。

「だが、座がない」

 蘭丸は、すぐに言った。

「座なら、酒町にも湯屋にも相撲場にもございますが」

 氏真が笑った。

「その座ではございませぬ」

     ◇

 公家たちが言う座とは、腰を下ろす場所のことではなかった。

 誰が上座に座るか。

 誰が先に文を見るか。

 誰の名を先に書くか。

 誰へ先に返礼するか。

 献上品をどの包みにするか。

 どの口から朝廷へ通すか。

 そういう座であった。

 蘭丸は、話を聞くほど頭が痛くなった。

「つまり、物を置く前に、格を置くのですね」

 氏真は嬉しそうに頷いた。

「まさに、その通りにございます」

「まったく嬉しくございませぬ」

 多米殿は、すでに帳面を開いていた。

「座次控えが要りますね」

「また控えが増えますか」

「礼を間違えると、槍より長く恨まれます」

 公家の一人が、静かに頷いた。

「その通りです」

 蘭丸は、かえって怖くなった。

 槍なら、誰が敵か分かる。

 だが、礼の間違いは、すぐには血が出ない。

 そのかわり、文が飛ぶ。

 噂が広がる。

 家の面目が傷つく。

 しかも、後から効くらしい。

 そこへ森長可が現れた。

「座る順で揉めるのか」

 蘭丸は嫌な予感がした。

「兄上、今は黙っていてください」

 長可は公家たちを見た。

「強い者から座ればよい」

 場が静まり返った。

 可隆が即座に長可の襟を掴んだ。

「長可、黙れ。都が燃える」

「文で済むのではないのか」

 氏真が、にこやかに答えた。

「済まぬこともございます」

 長可は少し考えた。

「面倒だな」

「面倒でございます」

 氏真は、実に穏やかに言った。

「ですので、我らがおります」

     ◇

 公家たちは、江戸の品を見た。

 江戸だれ。

 焼きイカ。

 南蛮芋蜜掛け。

 丸芋薄揚げ。

 那須白粉。

 江戸染め。

 鍛冶町の薄刃包丁。

 湯屋で出る灰。

 風月町の歌舞。

 諏訪社の囃子。

 物はある。

 どれも面白い。

 どれも新しい。

 どれも人を動かす力がある。

 だが、公家の一人が、包みを見て言った。

「強い」

 蘭丸は聞き返した。

「強い?」

「包みが強いのです」

「包みに強い弱いがあるのですか」

 氏真が、笑いをこらえるように言った。

「ございます」

 公家は、南蛮芋蜜掛けの包みを手に取った。

「これは町で売るにはよい。だが、禁裏へ上げるには、少し商いの匂いが強い」

 別の公家は、薄刃包丁を見た。

「これはよき品。されど、刃物を誰に、いかなる名目で贈るかは慎まねばならぬ」

 また別の公家は、江戸だれの壺を見た。

「味はよい。だが、壺が普段使いに見えます」

 蘭丸は、頭を抱えた。

「壺まで」

 氏真は静かに言った。

「森殿、うまい物を、うまいと言わせるにも順がございます」

 長可が言った。

「腹が減っていれば食う」

 氏真は笑った。

「腹が減っておらぬ相手にも、食わせるのが礼でございます」

 蘭丸は思わず言った。

「急に恐ろしいことを申されました」

     ◇

 多米殿は、効率の人であった。

 だから当然、こう言った。

「ならば、江戸に礼式口を置きましょう。江戸で品を見て、江戸で包み、江戸から返礼すれば早うございます」

 蘭丸は頷きかけた。

 江戸で生まれた品なのだ。

 江戸で整えて出せば、早い。

 だが、氏真は首を振った。

「それをすれば、駿府と江戸が同じ顔になります」

 多米殿の筆が止まった。

「同じ顔」

「はい。同じ顔の町は、いずれ争います」

 蘭丸は、氏真を見た。

 氏真の声は柔らかい。

 だが、言っていることは鋭かった。

「江戸は速い。物が生まれる。人が集まる。銭が動く。飯が生まれ、酒が夜を作り、湯が人を留める」

「はい」

「駿府は遅い。ですが、遅さの中に形がある」

「形」

「文の形。包みの形。座の形。返礼の形。朝廷へ通す形。公家へ見せる形」

 氏真は、少し江戸の町を見た。

「武田殿は、江戸で世を動かす。されど、朝廷へ見せる形は、駿府で整えねばなりませぬ」

 公家たちが、静かに頷いた。

 多米殿は、しばらく考えてから言った。

「では、江戸には取次だけを置きます」

 氏真が頷いた。

「それがよろしゅうございます」

     ◇

 決まったのは、二つの口であった。

 駿府には、駿府高家所を置く。

 朝廷、公家、式典、正式文書、献上、返礼の本口である。

 江戸には、江戸礼式取次を置く。

 江戸で生まれた品を見て、控え、仮に包み、誰へ通すべきかを駿府へ送る口である。

 多米殿は、帳面を作った。

 江戸献上候補控え。

 返礼候補控え。

 座次仮控え。

 公家宿控え。

 式台控え。

 装束蔵控え。

 駿府高家所送り控え。

 蘭丸は、その文字を見て言った。

「また、ずいぶん増えましたね」

 多米殿は答えた。

「礼は、荷より軽く見えて、帳面は重うございます」

 氏真が微笑んだ。

「荷は道を塞ぎます。礼は、間違えれば家を塞ぎます」

「家を」

「はい。出入りが止まります」

 蘭丸は、ぞっとした。

 江戸では、荷が詰まれば道を広げる。

 酒が荒れれば酒町を作る。

 薪が余れば湯屋を作る。

 だが、礼が詰まった時は、道を広げても解けない。

 誰に頭を下げるか。

 誰を先に通すか。

 どの名で呼ぶか。

 それを間違えれば、荷よりも厄介な詰まりになる。

     ◇

 公家宿も設けられた。

 宿町の中ではない。

 酒町に近すぎてもいけない。

 風月町の音が届きすぎてもいけない。

 湯屋には通える。

 江戸諏訪社にも、江戸武田八幡にも、古河公方江戸屋敷にも通じる。

 静かで、清く、しかし孤立しない場所。

 蘭丸は絵図を見て言った。

「公家宿は、難しい場所に置きますね」

 氏真は頷いた。

「公家は、近すぎても遠すぎても揉めます」

「それは、誰でもそうでは」

「公家は、それを文にします」

「困ります」

 装束蔵も必要になった。

 公家の衣を置く。

 式に使う道具を置く。

 香を置く。

 紙を置く。

 筆を置く。

 江戸の湿気と埃を避けねばならない。

 多米殿は、すぐに言った。

「湯屋町の近くは避けます」

「湯気でございますか」

「はい。装束に湿りが移ります」

 公家の一人が、深く頷いた。

「分かっておられる」

 多米殿は真面目に答えた。

「荷と同じにございます」

 蘭丸は少し笑った。

 多米殿にとっては、公家の装束も荷であるらしい。

     ◇

 その日の夕刻、試しの礼席が設けられた。

 大きな式ではない。

 公家たちを迎え、江戸の品を見せ、今後の取次を確認するだけである。

 それでも、蘭丸には十分に面倒だった。

 誰がどこに座るか。

 今川氏真はどこか。

 公家はどこか。

 森可成はどこか。

 多米殿はどこに控えるか。

 長可は座らせるべきか、遠ざけるべきか。

 蘭丸は最後で悩んだ。

「兄上は」

 可隆が即答した。

「端だ」

 長可が不満を言う。

「なぜだ」

「中央に置くと、口を挟む」

「端でも挟むぞ」

「なら外だ」

「端でよい」

 氏真が笑った。

「森長可殿は、端でも目立ちますな」

 長可は腕を組んだ。

「強いからな」

 可隆が小声で言った。

「だから端なのだ」

 礼席では、江戸の品が並べられた。

 南蛮芋蜜掛け。

 丸芋薄揚げ。

 江戸だれ。

 薄刃包丁。

 江戸染め。

 湯屋の灰を使った試し染め。

 公家たちは、一つ一つ見た。

 すぐに褒めない。

 すぐにけなさない。

 じっと見て、名を考える。

「これは、江戸蜜芋とでも申すか」

「丸芋薄揚げは、名が少し直截に過ぎる」

「江戸だれは、だれという響きが町向きですな。献上には別名が要りましょう」

 蘭丸は小声で言った。

「名前まで変えるのですか」

 氏真も小声で答えた。

「町で売る名と、上へ出す名は違ってよいのです」

「面倒です」

「それが礼です」

     ◇

 長可は、南蛮芋蜜掛けを一つ食べた。

「うまい」

 公家の一人が微笑んだ。

「実に分かりやすい評にございます」

 長可は胸を張った。

「うまいものは、うまい」

 氏真が頷いた。

「その強さは、江戸の強さです」

 蘭丸は氏真を見た。

「江戸の強さ」

「はい。江戸は、まず人を動かす。匂いで止め、味で座らせ、銭で回す」

 氏真は、蜜掛けを小さく切った。

「ですが、駿府は違います」

「駿府は」

「名を整え、包みを整え、文を整え、誰へ出してよいかを整える」

 氏真は、静かに言った。

「江戸は、物を生む町。駿府は、物に名と格を与える町」

 蘭丸は、その言葉を聞いて、ようやく分かった気がした。

 江戸と駿府は、同じになる必要がない。

 江戸は動く。

 駿府は整える。

 江戸が速く、駿府が遅いなら、それでよい。

 速いものを整える場所があるから、武田の国は粗くならずに済む。

     ◇

 夜になり、氏真は公家宿へ入った。

 蘭丸は、多米殿とともに控えをまとめた。

 江戸礼式取次定め。

 江戸で生まれた献上候補は、まず江戸礼式取次へ控えるべし。

 正式な献上、返礼、朝廷向け文書は、駿府高家所にて整えるべし。

 江戸は見本を生む町。

 駿府は形を整える町。

 この二つを混ぜるべからず。

 公家宿を置くべし。

 式台を整えるべし。

 装束蔵を置くべし。

 座次仮控えを作るべし。

 献上品は、町売りの名と礼式の名を分けるべし。

 包み、壺、箱、文の口を改めるべし。

 森長可様、座次を力で決めるべからず。

 蘭丸は、最後の一行を見た。

「やはり入りますか」

 多米殿は頷いた。

「礼式の平穏に必要にございます」

 長可は不満そうだった。

「強い者が上座ではないのか」

 氏真が、横から穏やかに言った。

「強い者が下座に座れると、さらに強く見えることもございます」

 長可は、ぴたりと黙った。

「……そうなのか」

「そうでございます」

 可隆が小声で言った。

「うまい」

 蘭丸も思った。

 今川氏真は、武では長可に勝てない。

 だが、長可を黙らせる術は持っていた。

     ◇

 江戸は、また一つ変わった。

 飯で人を集めた。

 酒で夜を作った。

 湯で人を留めた。

 風月町で闇を表に出した。

 そして今、礼で人を座らせようとしている。

 だが、その礼の本口は江戸には置かない。

 駿府に置く。

 江戸は、動かす町。

 駿府は、整える町。

 その二つが分かれた時、武田の国は、ただ広いだけではなくなった。

 荷道だけでは届かぬ場所がある。

 銭だけでは開かぬ門がある。

 飯だけでは座れぬ席がある。

 そこへ通すために、礼にも口が要る。

 蘭丸は、帳面を閉じた。

「また、江戸が大きくなりましたね」

 多米殿は静かに答えた。

「はい。ただし、少しだけ上品に」

 その時、長可が蜜掛けをもう一つ取った。

「これは上品か」

 氏真が笑った。

「食べ方次第にございます」

 長可は蜜掛けを一口で食べた。

 蘭丸は、深くため息をついた。

「駿府で整えていただきましょう」

 氏真は、実に楽しそうに頷いた。

「承りましょう」



――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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