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第49帳 薪が余れば、湯が沸く

 江戸には、薪が増えた。

 信濃から来る。

 上野からも来る。

 甲斐炭とは別に、枝薪、割薪、太薪、細薪が荷として入ってくる。

 初めは足りなかった。

 鍛冶町で使う。

 火元町で使う。

 酒町で使う。

 宿町で使う。

 焼きイカの台でも使う。

 イカ大根の釜でも使う。

 だから多米殿は、早いうちから薪の口を広げていた。

 ところが、春が近づくと、少し様子が変わった。

 乾きの悪い薪。

 太すぎて屋台では扱いづらい薪。

 細すぎて鍛冶には向かない薪。

 運ばれてきたはよいが、置き場を食う薪。

 薪蔵の前に、薪が積み上がる。

 森蘭丸は、それを見て言った。

「多米殿」

「何でしょう」

「薪が余っております」

「余っておりますね」

「よろしいのですか」

「よろしくありません」

「では、売りますか」

「売るだけでは、値が崩れます」

「では、どうします」

 多米殿は、薪の山を見て、静かに言った。

「湯に変えます」

 蘭丸は、しばらく黙った。

「湯」

「はい」

「薪を、湯に」

「江戸に湯屋を作ります」

     ◇

 湯屋と聞いて、最初に反応したのは長可だった。

「湯か」

 目が輝いている。

 蘭丸は、即座に身構えた。

「兄上、何かよからぬことを考えておられますね」

「湯は広い方がよい」

「それだけですか」

「広い方がよい」

「目が正直でございます」

 可隆が長可の後ろから現れた。

「長可」

「何だ、兄上」

「黙れ」

「まだ何も言っておらぬ」

「言う前から分かる」

 長可は不満そうだった。

「湯は皆で入ればよいではないか」

 蘭丸は即座に言った。

「男女は分けます」

 長可の顔が露骨に曇った。

「なぜだ」

「なぜでもございます!」

 そこへ多米殿が、真面目な顔で言った。

「私は、当初は一つでもよいかと考えておりました」

 蘭丸は振り向いた。

「多米殿まで!」

「湯殿を二つ作れば、薪も湯番も桶も倍にございます」

「理由が銭でございますね」

「銭と人手にございます」

「言っていることは正しいのに、味方が兄上なのが嫌でございます」

 長可が頷いた。

「多米は分かっておる」

 可隆が言った。

「長可、お前が味方になった時点で、案は弱くなる」

「兄上」

     ◇

 湯屋の話は、すぐに森可成のところへ持ち込まれた。

 可成は、薪の山と、酒町と、風月町と、道場の方を見た。

「湯は要るな」

 蘭丸は少し驚いた。

「父上も、そう思われますか」

「黒菱衆は汗をかく。道場の者も汗をかく。鍛冶町は煤をかぶる。酒町の者は酒臭い。風月町も、身を清める場が要る」

 多米殿が頷いた。

「薪を湯に変えれば、余り薪も減ります」

「湯屋は火を使う。火番は要る」

「置きます」

「水も食う」

「井戸番と分けます」

「灰も出る」

「灰も控えます」

 蘭丸は思わず言った。

「灰まで」

 多米殿は当然のように答えた。

「灰は染めにも、洗いにも、畑にも使えます」

「湯屋から、また荷が生まれるのですか」

「生まれます」

 可成は、少しだけ笑った。

「よい。だが、湯は揉めるぞ」

 蘭丸は深く頷いた。

「すでに揉めております」

     ◇

 揉めたのは、やはり男女の別であった。

 多米殿は、費えを考える。

「湯殿を二つ作るのは重うございます。初めは一つにして、刻限で分けるのがよろしゅうございます」

 蘭丸は言う。

「男女は分けねばなりませぬ。酒町と風月町を分けたばかりでございます。湯でまた混ぜてどうするのですか」

 長可は言う。

「皆で入れば早い」

 蘭丸は叫ぶ。

「兄上は黙っていてください!」

 可隆が長可を見た。

「お前は男刻限だ」

「なぜだ」

「お前がいるだけで混浴が混乱になる」

「俺は何もせぬ」

「目がする」

 長可は少し考えた。

「目なら仕方ないか」

 蘭丸は驚いた。

「そこは認めるのですね」

 多米殿は、筆を取った。

「では、刻限で分けましょう」

 湯屋は一つ。

 湯殿は広く作る。

 だが、入る刻限を分ける。

 朝早くは、黒菱衆、町番、職人、人足。

 昼は、女衆、子供、宿町、風月町の女衆。

 夕は、町人、旅人、道場帰り。

 夜は、酒町帰りを制限する。

 酔い人は入れない。

 風月町の女衆には、別の落ち着いた刻限を置く。

 蘭丸は、控えを見た。

「刻限で分けるなら、費えも抑えられますね」

「はい」

「風紀も守れますね」

「おおむね」

「おおむね」

「完全には守れませぬ」

 蘭丸は、長可を見た。

 長可は、聞いていないふりをしていた。

     ◇

 湯屋町の場所は、井戸場から遠すぎず、火元町から近すぎず、酒町から離しすぎぬところに決まった。

 風月町からも、願生坊からも、道を通せる。

 薪を運び込める裏口を作る。

 水を運ぶ道を分ける。

 灰を出す口を別にする。

 男衆と女衆が同じ口で揉めぬよう、入る口も刻限で変える。

 蘭丸は、絵図を見て言った。

「湯屋一つに、これほど道が要るのですか」

 多米殿は頷いた。

「湯は人を集めます。裸になります。銭も払います。荷物も預けます。揉めぬはずがございませぬ」

「湯に入るだけなのに」

「湯に入るだけだから、気が緩みます」

 森可成が言った。

「気が緩む場所ほど、番が要る」

 風魔小太郎が、いつの間にか横にいた。

「湯は、話も漏れる」

 蘭丸は少し身構えた。

「風魔殿、湯屋まで見るのですか」

「見るのではない。聞こえる」

「恐ろしいことを言わないでください」

 多米殿は、真面目に言った。

「湯屋にも、表の番と裏の目が要ります」

 蘭丸は深く息を吐いた。

「江戸は、どこにでも番と目が要りますね」

「人が集まる町にございますから」

     ◇

 湯屋の普請は、早かった。

 職人が多い。

 鍛冶町が釜金具を作る。

 桶屋が湯桶を作る。

 木地師が腰掛けを作る。

 井戸番が水の流れを決める。

 薪蔵が薪を運ぶ。

 問題は、釜だった。

 大きな湯を沸かすには、大きな釜が要る。

 鍛冶屋は言った。

「湯を沸かす釜は、飯炊きとは違います。厚みが要ります」

 長可が即座に言った。

「大きければよい」

 可隆が返す。

「大きいだけでは割れる」

「厚くすればよい」

「重くなる」

「ならば人を増やせ」

「お前はすぐ人で押す」

 鍛冶屋は苦笑した。

 多米殿は書いた。

 湯釜、厚み要。

 重すぎると据え付け難し。

 長可様、大きければよいと仰せ。

 長可が見た。

「最後は要るか」

「要ります」

 蘭丸は頷いた。

「要りますね」

     ◇

 初湯の日、湯屋町には朝から人が集まった。

 最初は黒菱衆と職人の刻限である。

 長可は当然のように一番に入ろうとした。

 可隆が止めた。

「長可、お前は三番目だ」

「なぜだ」

「一番に入ると、湯加減を見ずに飛び込む」

「湯に飛び込んで何が悪い」

「湯があふれる」

 蘭丸は頷いた。

「それは困ります」

 湯番が、湯加減を見る。

 熱すぎる。

 水を足す。

 ぬるすぎる。

 薪をくべる。

 薪にも向き不向きがあった。

 太薪は長く持つ。

 細薪は火が早い。

 湿った薪は煙が出る。

 よく乾いた薪は、湯が早く沸く。

 多米殿は、薪口控えを作っていた。

「湯屋に向く薪、向かぬ薪を分けます」

「薪にも向き不向き」

「はい。余った薪を何でも入れれば、煙で湯屋がつらくなります」

 蘭丸は、薪の山を思い出した。

 余った薪を湯に変えるとは言ったが、薪なら何でもよいわけではないらしい。

 湯屋は、思ったより繊細だった。

     ◇

 長可が湯に入った。

 湯屋の中から声が響く。

「熱い!」

 蘭丸は外で固まった。

「兄上が熱いと言った」

 可隆が言った。

「湯が本当に熱いのだろう」

 湯番が慌てて水を足した。

 しばらくして、長可の声がまた響く。

「よい!」

 職人たちが笑った。

 黒菱衆も笑った。

 湯に入ると、顔つきがゆるむ。

 鍛冶町の者は、煤を落とした。

 道場帰りの若者は、汗を流した。

 町番は、足を伸ばして呻いた。

 蘭丸は、湯屋の外でその声を聞いた。

「これは、流行りますね」

 多米殿が頷く。

「流行ります」

「湯銭は」

「取ります」

「やはり」

「薪、水、湯番、灰取り、掃除。銭を取らねば続きませぬ」

 蘭丸は、湯屋の暖簾を見た。

 湯銭控え。

 湯番控え。

 薪口控え。

 灰取り控え。

 桶貸し控え。

 忘れ物控え。

「忘れ物まで」

「湯屋では、忘れます」

「なぜです」

「気が緩むからにございます」

     ◇

 昼の刻限には、女衆と子供が入った。

 宿町の女将たち。

 風月町の女衆。

 侍女たち。

 子供を連れた町人。

 入口には女湯番を置いた。

 蘭丸は少し離れていた。

 風紀を主張した以上、近くでうろうろするわけにはいかない。

 多米殿も、帳面を持って少し離れた場所にいる。

「多米殿」

「はい」

「男女を刻限で分けて正解でしたね」

「はい。費えも抑え、揉め事も減ります」

「では、私の勝ちでございますか」

「いえ」

「いえ?」

「多米案と蘭丸殿案の折衷にございます」

「長可兄上案は」

「不採用にございます」

 蘭丸は心底ほっとした。

 そこへ可隆が来た。

「長可が、自分も昼に入ると言い出した」

 蘭丸は叫んだ。

「なぜですか!」

「湯は広い方がよい、と」

「まだ言っておりますか!」

 可隆は淡々と言った。

「止めた」

「ありがとうございます」

「拳で」

「ありがとうございます」

 多米殿は書いた。

 森長可様、女衆刻限に入るべからず。

 蘭丸は頷いた。

「これは要ります」

「要ります」

     ◇

 夕刻には、旅人と町人が入った。

 酒町へ行く前に入る者。

 道場帰りに入る者。

 宿へ戻る前に入る者。

 湯屋の前には、焼きイカの匂いが届いていた。

 長可が言った。

「湯上がりに焼きイカはよいな」

 蘭丸は少し考えた。

「確かに、売れそうです」

 多米殿はすぐに書く。

 湯上がり肴候補。

 焼きイカ。丸芋薄揚げ。薄い汁物。

 可成が言った。

「酒は、湯上がりすぐには危うい」

 多米殿が頷いた。

「酔客入湯禁制に加え、湯上がりすぐの強酒売りも控えましょう」

 長可が不満そうにした。

「湯上がりの酒はうまいぞ」

 可隆が言った。

「お前のうまいは、定めの敵だ」

 蘭丸は笑ってしまった。

     ◇

 夜になると、問題が起きた。

 酒町で飲んだ男が、湯へ入ろうとしたのである。

「湯に入れば酔いが抜ける!」

 湯番が止める。

「酔っている者は入れませぬ」

「銭は払う!」

 黒菱衆が近づく。

 男はまだ騒ぐ。

 すると長可が立ち上がった。

「投げるか」

 可隆が止めた。

「運べ」

「どこへ」

「酒町夜番へ戻す」

「面倒だ」

「湯に沈むよりましだ」

 男は、黒菱衆と町人番によって酒町へ戻された。

 多米殿は、酔客入湯禁制を大きく書いた。

 蘭丸は頷いた。

「これは絶対に要ります」

「はい」

「酒町、風月町、湯屋。夜の町は、つながりますね」

「つながります。だから、口を分けます」

 風魔が、湯屋の裏口の影から言った。

「湯屋の裏にも目が要る」

 蘭丸は、もう驚かなかった。

「でしょうね」

     ◇

 初湯の終わり、湯屋町の定めがまとめられた。

 江戸湯屋町定め。

 信濃、上野より入る薪のうち、湯屋向きのものを薪口へ回すべし。

 湿り薪は煙多し。乾き薪を選ぶべし。

 湯釜、湯番、火番、水番を置くべし。

 湯殿は一つより始め、刻限にて分けるべし。

 朝は、黒菱衆、町番、職人、人足。

 昼は、女衆、子供、宿町、風月町女衆。

 夕は、町人、旅人、道場帰り。

 夜は、酔客を入れるべからず。

 湯銭を取るべし。

 桶貸し、忘れ物、灰取りを控えるべし。

 灰は染め、洗い、畑へ回すべし。

 湯上がり肴は軽きものを選ぶべし。

 湯上がりすぐの強酒は控えるべし。

 森長可様、女衆刻限に入るべからず。

 森長可様、湯へ飛び込むべからず。

 蘭丸は最後の二行を見た。

「兄上の名が二つも」

 多米殿は真面目に答えた。

「湯屋の平穏に必要にございます」

 長可は湯上がりで、髪から湯気を出していた。

「湯はよい」

 可隆が言った。

「定めを守ればな」

「守る」

「女衆刻限は」

「入らぬ」

「飛び込むのは」

「……入るだけだ」

「よし」

 森可成は、湯屋町から上がる湯気を見ていた。

「薪が湯になり、人が緩む。悪くない」

 蘭丸も湯気を見た。

 薪が余った。

 余れば値が崩れる。

 ならば、湯に変える。

 湯は汗を落とす。

 煤を落とす。

 酒の匂いを落とす。

 女衆の身を休める。

 道場帰りの若者を緩める。

 そして、また新しい銭を生む。

 江戸は、薪まで町に変えるようになった。

 湯屋町の湯気は、夜の江戸へ白く上がっていた。

 その湯気を見ながら、蘭丸は小さく呟いた。

「また、町が増えましたね」

 多米殿は静かに頷いた。

「はい。江戸は、湯でも人を留めます」

 長可が、湯上がりに焼きイカをかじりながら言った。

「次は、湯に入りながら食えるものを考えよ」

 蘭丸は即座に叫んだ。

「絶対に駄目です!」

 湯屋町の初日は、そうして無事に終わった。

 無事だったことに、蘭丸は心から安堵したのである。



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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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