第59帳 諏訪の柱は静かに進まぬ
夏の江戸は、うるさかった。
蝉が鳴く。
酒町が鳴る。
風月町の囃子が鳴る。
湯屋町では、湯上がりの者が暑い暑いと騒ぐ。
冷やし胡瓜は売れていた。
だが、胡瓜だけで夏は済まない。
暑さが続けば、人はだれる。
水を取り合う。
酒が増える。
喧嘩も増える。
荷道も重くなる。
そこで多米殿が言った。
「江戸諏訪社で夏祭りをいたしましょう」
森蘭丸は、少しだけ明るい顔になった。
「よろしゅうございますね。水鎮め、道中安全、疫除け、荷道の無事。夏には合います」
「はい」
「穏やかな祭にいたしましょう」
多米殿は、少し黙った。
蘭丸は、その沈黙に嫌な予感を覚えた。
「多米殿?」
「信濃より、奉納の丸太が届きます」
「丸太」
「はい。江戸諏訪柱曳きにいたします」
蘭丸は、まだ楽観していた。
「柱を曳いて、諏訪社へ納めるのですね。よいではありませぬか」
その時、森長可が丸太を見に来た。
太い丸太である。
信濃から下り、幾つもの荷綱で縛られ、江戸へ届いた。
長可は、その丸太を見た瞬間、目を輝かせた。
「強いな」
蘭丸は肩を落とした。
「丸太に強い弱いがあるのですか」
「ある」
長可は丸太を叩いた。
「これは、ただ曳くだけではつまらぬ」
可隆がすぐに言った。
「長可、余計なことを言うな」
「町ごとに曳かせよ」
「言ったな」
「祭だろう」
蘭丸は多米殿を見た。
「止めますよね」
多米殿は筆を取った。
「競わせるなら、道と番を分けます」
「止めないのですか!」
「止めれば、勝手にやります。ならば、定めます」
蘭丸は天を仰いだ。
江戸諏訪社の夏祭りは、穏やかには済まないらしい。
◇
祭の名は、江戸諏訪夏祭。
昼は、江戸諏訪柱曳き。
夕は、荒神輿合わせ。
多米殿は、すぐに口を分けた。
祭礼口。
柱曳き口。
担ぎ手控え。
囃子番。
水桶番。
迷子控え。
酔い人控え。
屋台火元控え。
怪我人運び口。
御旅所。
祭り道。
見物口。
公方席。
公家席。
女衆見物口。
風月町囃子口。
江戸絵所祭絵控え。
蘭丸は、並ぶ文字を見て言った。
「祭は、楽しむものではなかったのですか」
多米殿は答えた。
「楽しむために、先に控えます」
「そうでしたね」
氏真も呼ばれた。
公家宿の者たちとともに、式次第を整えるためである。
氏真は丸太を見て、少しだけ眉を上げた。
「これは、荒ぶりますな」
蘭丸は聞いた。
「氏真殿でも、そう見えますか」
「見えます。柱というものは、静かに置かれるだけでは済みませぬ」
長可は満足そうだった。
「分かっておるな、今川殿」
氏真は微笑んだ。
「ただし、荒ぶりにも礼が要ります」
長可は嫌そうな顔をした。
「荒ぶるのに礼がいるのか」
「礼がなければ、ただの乱暴にございます」
蘭丸はすぐに言った。
「兄上、今のは覚えてください」
「嫌だ」
「覚えてください!」
◇
祭の準備だけで、江戸は騒がしくなった。
黒菱衆は担ぎ手を出す。
酒町は勢いだけはある者を出す。
湯屋町は、裸に近い格好で出ようとして止められる。
風月町は囃子と舞を出す。
菱屋は水桶と縄を出す。
江戸絵所では、土岐頼高が祭の絵を描き始めた。
頼高は、丸太をじっと見ていた。
「この柱は、鷹より描きにくい」
蘭丸は聞いた。
「なぜでございますか」
「鷹は目があります。柱には目がありませぬ」
長可が横から言った。
「あるぞ」
頼高が驚いた。
「どこに」
「強い丸太には、目がある」
蘭丸は言った。
「兄上、また感覚だけで」
だが、頼高は丸太を見直した。
節。
割れ。
木目。
縄の食い込み。
しばらくして、頼高は言った。
「……あるかもしれませぬ」
蘭丸は頭を抱えた。
「頼高殿まで」
多米殿は、すでに書いていた。
祭絵、柱の目を描くべし。
「多米殿、それは本当に要りますか」
「人を止める絵にございます」
◇
祭当日、江戸諏訪社の前には人があふれた。
冷やし胡瓜の露天。
焼きイカ。
丸芋薄揚げ。
甘味噌胡瓜。
南蛮芋蜜掛け。
雨除けに使った油紙の団扇まで売られている。
義氏も来ていた。
古河公方江戸屋敷から、公方席へ入る。
「よいな。祭はよい」
御台様も一緒である。
蘭丸は、少し警戒した。
御台様は、すでに祭土産の店を見ている。
義氏が小声で言った。
「蘭丸」
「はい」
「御台が、祭の土産を見ておる」
「見ておられますね」
「止まるか」
「止まらぬと思います」
義氏は、祭の始まる前から少し弱っていた。
多米殿は、すでに別帳を開いている。
御台様御選び、祭口。
蘭丸は見なかったことにした。
◇
昼、江戸諏訪柱曳きが始まった。
柱は太い縄で巻かれた。
前に黒菱衆。
その横に酒町。
後ろに湯屋町。
囃子は風月町と諏訪社囃子番。
水桶番が左右を走る。
怪我人運び口が控える。
蘭丸は、柱の横に立って叫んだ。
「走ってはなりませぬ! 綱を急に引くべからず! 倒れた者がいれば止めること!」
長可は前にいた。
もちろんである。
「進めえ!」
柱が動いた。
思ったより速い。
蘭丸は叫んだ。
「速い! 速すぎます!」
可隆が長可の横で怒鳴った。
「長可、柱は突撃ではない!」
「敵陣に入るように曳け!」
「敵陣ではございませぬ! 諏訪社でございます!」
囃子が追いつかない。
風月町の囃子方が必死に調子を上げる。
水桶番が走る。
酒町の者が叫ぶ。
湯屋町の者がなぜか笑う。
公方席の義氏は、大喜びだった。
「荒い! よい!」
氏真は静かに言った。
「荒いだけでは困ります」
その瞬間、柱の前で一人が足を取られた。
黒菱衆がすぐに止める。
可隆が長可の肩を掴んだ。
「止まれ!」
長可は歯を食いしばったが、止まった。
柱も止まった。
倒れた者は、水桶番と怪我人運び口に引かれた。
大事はない。
蘭丸は、心底ほっとした。
氏真が言った。
「よろしゅうございます。荒ぶって、止まれる」
長可は振り向いた。
「止まるのも祭か」
「はい。止まれぬ荒ぶりは、乱暴にございます」
長可は少し考えた。
「面倒だが、分かった」
蘭丸は驚いた。
「兄上が、また分かりました」
可隆が言った。
「祭のたびに、少しずつ賢くなればよいがな」
◇
柱は、何度か荒れた。
酒町が横へ引きすぎる。
湯屋町が調子に乗って押す。
黒菱衆が止める。
囃子が乱れる。
水桶番が怒る。
だが、そのたびに止めた。
止めて、整え直した。
氏真は公家席から頷いていた。
「江戸の祭ですな」
蘭丸は、汗だくになりながら言った。
「これが江戸の祭でよろしいのですか」
「静かではございませぬ。ですが、通しております」
「通す」
「柱を社へ通す。人を道へ通す。荒ぶりを祭へ通す」
蘭丸は、少しだけ分かった。
祭は、ただ騒ぐものではない。
騒ぎを、道に通すものなのだ。
◇
柱が江戸諏訪社へ納まると、歓声が上がった。
水が撒かれた。
胡瓜が売れた。
焼きイカが売れた。
酒町は、まだ昼だというのに浮かれた。
多米殿は即座に言った。
「酒は夕まで控えます」
「祭なのにか!」
酒町の者が叫ぶ。
多米殿は淡々と答えた。
「夕の荒神輿合わせまでに酔えば、神輿ではなく人が倒れます」
長可が頷いた。
「それは困る」
蘭丸は、すかさず言った。
「兄上が同意するほどです。控えてください」
酒町の者たちは渋々従った。
そのかわり、冷やし胡瓜と甘味噌胡瓜が飛ぶように売れた。
多米殿は満足そうだった。
「夏祭りは、水気が強い」
「また商いの話に」
「祭は、町の大市にございます」
◇
夕方、荒神輿合わせが始まった。
これは、神輿をぶつけ合うものではない。
少なくとも、建前ではそうである。
町ごとに神輿を出す。
黒菱衆神輿。
酒町神輿。
湯屋町神輿。
菱屋神輿。
風月町は神輿ではなく、囃子と舞で加わる。
神輿同士を近づける。
押し合う。
ぶつかる寸前で止める。
囃子を合わせる。
どの町が荒々しく、しかし怪我人を出さずに担げるかを見る。
蘭丸は、開始前に何度も言った。
「壊してはなりませぬ! 人を潰してはなりませぬ! 神輿を敵陣と思ってはなりませぬ!」
長可は黒菱衆神輿の前に立っていた。
「分かっておる」
可隆が横で言った。
「分かっていない顔だ」
「分かっておる。ぶつける寸前で止める」
「止まれよ」
「止まる」
蘭丸は、神に祈りたくなった。
ここは諏訪社なので、ちょうどよい。
◇
荒神輿合わせは、凄まじかった。
黒菱衆神輿が進む。
酒町神輿が迎える。
囃子が鳴る。
見物が叫ぶ。
神輿が迫る。
ぶつかる。
と思った瞬間、止まった。
風が起きる。
見物がどっと沸く。
義氏が立ち上がった。
「よい! 今のはよい!」
御台様は涼しい顔で言った。
「止まれたのがよろしゅうございました」
義氏は座り直した。
「そうであった」
氏真も頷く。
「荒ぶりにも、型が見えます」
だが、酒町神輿は次で少し崩れた。
担ぎ手が浮かれ、前へ出すぎたのである。
長可がそれを見て叫んだ。
「下がれ! 足が乱れておる!」
蘭丸は驚いた。
「兄上が、祭で指揮を」
可成が静かに言った。
「隊を見る目だ」
長可は、自分が暴れるだけではなかった。
荒ぶる中で、崩れる足を見ていた。
酒町神輿は止まり、立て直した。
風月町の囃子が、調子を落として合わせた。
それで場が戻る。
蘭丸は、少し感動した。
祭が、町を一つの隊にしている。
◇
最後は、黒菱衆神輿と湯屋町神輿であった。
湯屋町の者たちは、妙に勢いがある。
湯で体が軽い、と言い張っている。
蘭丸には意味が分からない。
神輿が近づく。
長可が笑う。
「来い!」
可隆が叫ぶ。
「受けるな! 止めろ!」
黒菱衆神輿が踏む。
湯屋町神輿が押す。
ぎりぎりで止まる。
だが、長可が半歩前へ出た。
蘭丸は叫んだ。
「兄上!」
その瞬間、可隆が長可の帯を掴んだ。
長可は止まった。
神輿も止まった。
場が一瞬、静まる。
そして、大きな歓声が上がった。
長可は振り向いた。
「兄上、今のは」
可隆は言った。
「止めた」
「俺をか」
「お前をだ」
長可は少し考えた。
「よい止めだ」
蘭丸は、その場に座り込みそうになった。
氏真は、楽しそうに言った。
「森家の礼でございますな」
「どのあたりが礼でございますか」
「止まれぬ者を、止めるところです」
◇
祭が終わるころ、江戸絵所では頼高が必死に筆を動かしていた。
柱曳き。
黒菱衆神輿。
酒町神輿。
水桶番。
胡瓜売り。
公方席で喜ぶ義氏。
帯を掴まれる長可。
蘭丸は最後を見て言った。
「それも描くのですか」
頼高は真面目に答えた。
「一番、動きがありました」
長可は絵を見た。
「俺が止められておる」
可隆が言った。
「事実だ」
長可は少し考えた。
「強そうに描け」
蘭丸は叫んだ。
「止められているのにですか!」
頼高は、少し笑って筆を入れた。
止められているが、強い。
そんな妙な長可の絵ができた。
多米殿はすぐに書いた。
祭絵、後日売れる見込み。
「売るのですか」
「売れます」
義氏が、遠くから言った。
「わしの見物姿は上品に描かせよ」
御台様が続けた。
「祭土産の絵も欲しいですね」
義氏は、また肩を落とした。
◇
夜、江戸諏訪社の前には灯が入った。
柱は社のそばに納まっている。
神輿は片づけられた。
怪我人は少ない。
迷子は全員戻った。
酔い人は酒町夜番へ渡された。
水桶は空になった。
胡瓜は売り切れた。
蘭丸は、それを聞いてようやく息を吐いた。
「終わりましたね」
多米殿は頷いた。
「はい。大きな乱れはございませぬ」
「十分乱れていた気もいたしますが」
「控えられる乱れにございます」
氏真も言った。
「祭として、よろしゅうございました」
長可は満足げだった。
「柱は強かった」
可隆が言った。
「神輿も止まった」
「次はもっと荒くできる」
蘭丸は即座に言った。
「しなくてよろしい!」
◇
多米殿は、江戸諏訪夏祭控えをまとめた。
江戸諏訪夏祭定め。
夏祭は、江戸諏訪社にて行うべし。
水鎮め、道中安全、疫除け、荷道無事を祈るべし。
信濃より奉納の丸太を、江戸諏訪柱として曳くべし。
柱曳きは、道を定め、縄を定め、水桶番を置くべし。
走りすぎるべからず。
倒れた者あれば、柱を止めるべし。
荒神輿合わせは、壊し合いにあらず。
ぶつかる寸前で止め、囃子を合わせるべし。
酒は夕まで控えるべし。
冷やし胡瓜、甘味噌胡瓜、水桶を多く出すべし。
屋台火元を届けるべし。
迷子、酔い人、怪我人を控えるべし。
江戸絵所は祭絵を描くべし。
森長可様、神輿を突撃させるべからず。
森可隆様、長可様を止める役にございます。
蘭丸は最後を見て言った。
「可隆兄上まで定めに入りましたね」
多米殿は真面目に頷いた。
「必要にございます」
可隆は笑った。
「まあ、必要だな」
長可は不満そうだった。
「俺だけでは駄目か」
蘭丸と可隆は同時に言った。
「駄目です」
◇
江戸の夏は、こうして本格的に始まった。
冷やし胡瓜で口を冷やし、
諏訪の柱で町を荒ぶらせ、
神輿で人を集め、
囃子で足を合わせ、
水桶で熱を冷ました。
祭は、町を乱す。
だが、乱れを道に通せば、町は強くなる。
蘭丸は、諏訪社の柱を見上げた。
信濃から来た丸太は、江戸の真ん中で静かに立っている。
あれほど荒ぶって進んだものが、今は動かない。
氏真が、横で静かに言った。
「よき祭でしたな」
「はい。疲れましたが」
「祭は、疲れるものにございます」
「礼も、祭も、疲れるものばかりですね」
「人を集めるとは、そういうことにございます」
蘭丸は、少し笑った。
長可が遠くで叫んでいる。
「来年は、もっと太い柱だ!」
蘭丸は即座に叫び返した。
「やめてください!」
多米殿は、もう筆を取っていた。
来年、柱太さ要検討。
蘭丸は叫んだ。
「検討しなくてよろしい!」
江戸諏訪社の夏祭は、こうして初めての年を終えた。
諏訪の柱は、やはり静かには進まなかったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
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『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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