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第46帳 帰り荷は酒に偏る

 江戸の雪は、もう消えかけていた。

 屋根の北側に残っていた白も、昼には水になった。

 荷道の泥はまだ重いが、凍ることは少なくなった。

 井戸端の桶にも、薄氷は張らない。

 春が近い。

 それは、上杉景勝が越後へ戻るということでもあった。

 蘭丸は、上杉家の逗留所へ向かった。

 上杉の者たちは、荷造りをしていた。

 越後へ帰る荷である。

 青苧。

 紙。

 漆。

 塩引き。

 越後酒。

 江戸へ来る時は、そうした越後の荷が多かった。

 ならば、帰り荷には、江戸の品が積まれるはずである。

 蘭丸は、そう思っていた。

 だが、荷を見た瞬間、足が止まった。

「……多米殿」

「はい」

「酒樽が、多くございませぬか」

 多米殿は、静かに荷を見た。

「多うございますね」

 酒樽。

 酒樽。

 酒樽。

 さらに酒樽。

 その横に、きれいに包まれた箱が並んでいる。

 硝子の小瓶。

 更紗。

 南蛮鏡。

 香。

 小箱。

 針と鋏。

 南蛮芋蜜掛け。

 丸芋薄揚げ。

 江戸だれの小壺。

 蘭丸は、少し黙った。

「これは」

 直江兼続が、にこやかに頭を下げた。

「景勝様の御酒と、奥向きへの土産にございます」

「御酒と、土産」

「はい」

 景勝は黙っていた。

 だが、酒樽の前に立っていた。

 蘭丸はおそるおそる聞いた。

「景勝様、これほどの酒を道中で」

 景勝が、ぽつりと言った。

「足りぬ」

 兼続が即座に頭を下げた。

「景勝様は、道中のみならず、越後へ戻ってから江戸の酒を比べるためにも必要であると仰せにございます」

 蘭丸は目を細めた。

「今の一言から、そこまで」

「分かります」

 多米殿は、すでに帳面を開いていた。

「上杉帰り荷控え」

     ◇

 荷の偏りは、思ったより深刻だった。

 酒は多い。

 奥向きの土産も多い。

 だが、商いとして越後へ戻る品が少ない。

 丸芋薄揚げはある。

 南蛮芋蜜掛けもある。

 江戸だれの小壺もある。

 しかし、量は土産の域を出ない。

 菱屋の者が困った顔をした。

「越後へ向かうなら、江戸の品をもう少し積めます」

 上杉の荷方が言った。

「酒樽が重くて」

 別の者が言った。

「奥への箱物も、揺らせませぬ」

 蘭丸は、頭を押さえた。

「帰り荷が、酒と奥向きに負けております」

 多米殿は頷いた。

「よくあることにございます」

「よくあるのですか」

「偉い方の荷は、商いの荷を押しのけます」

 直江兼続は、少し困ったように笑った。

「面目ない」

 景勝は、黙って酒樽を見ていた。

 蘭丸には、景勝が面目ないと思っているのか、酒樽が少ないと思っているのか、分からなかった。

 兼続は言った。

「景勝様は、面目ないとお考えにございます」

「本当でございますか」

「少しだけ」

「少しだけ」

     ◇

 そこへ森長可が来た。

「景勝殿、帰るのか」

 景勝は頷いた。

「帰る」

 長可は、少しつまらなそうだった。

「酒勝負は、まだ決着しておらぬ」

 景勝は、酒樽を見た。

「次だ」

 兼続が頭を下げる。

「景勝様は、次に江戸へ参られた折、改めて酒を比べたいと仰せにございます」

 長可は笑った。

「よい。ならば、その酒は俺も飲む」

 可隆がすぐに言った。

「長可、帰り荷に手を出すな」

「少しだけだ」

「少しだけで樽が軽くなる」

「樽が軽くなれば、馬が楽だ」

「理屈を作るな」

 森可成も荷を見た。

「戻り荷が偏っておるな」

 多米殿が頭を下げる。

「はい」

「酒と土産は悪くない。だが、道を太くする荷ではない」

 可成の声は静かだった。

「戻り荷が軽い道は、細る」

 蘭丸は、その言葉を聞いて頷いた。

 行きだけ荷があっても、帰りが空なら道は続かない。

 帰りが酒と土産だけなら、商いの道にはなりにくい。

 江戸から越後へ何を戻すか。

 それを決めねばならない。

     ◇

 多米殿は、荷を四つに分け始めた。

「まず、公荷」

 蘭丸が聞き返す。

「公荷」

「上杉家として持ち帰るものにございます」

 江戸の町割り控え。

 火元町の定め。

 鍛冶町の取立控え。

 魚ずけ控え。

 丸芋薄揚げ控え。

 江戸だれの製法控え。

 天ぷら衣控えの写し。

「次に、私荷」

 蘭丸は酒樽を見た。

「酒ですね」

「はい」

 景勝が言った。

「酒」

 兼続が頷いた。

「景勝様も認めておられます」

「認めるも何も、見れば分かります」

「次に、奥荷」

 更紗。

 硝子の小瓶。

 香。

 小箱。

 針と鋏。

 南蛮芋蜜掛け。

「最後に、商荷」

 多米殿の筆が止まらない。

 丸芋薄揚げ、塩違い。

 江戸だれ小壺。

 魚ずけ用の薄だれ。

 焼きイカ用のだれ。

 鍛冶町の薄刃包丁見本。

 生地見本帳。

 江戸染め見本。

 南蛮芋蜜掛けの包み見本。

 蘭丸は、目を見張った。

「土産と商荷を分けるのですね」

「はい。土産は喜ばせるもの。商荷は次の注文を取るものにございます」

 兼続が深く頷いた。

「これは、越後でも役に立ちます」

 景勝は、黙っていた。

 多米殿は尋ねた。

「景勝様、商荷を増やしてもよろしゅうございますか」

 景勝は、しばらく黙った。

 そして言った。

「酒は減らすな」

 兼続が即座に言った。

「景勝様は、商荷を増やすことに異存はないが、酒樽を減らすことは認めぬと仰せにございます」

 蘭丸は小声で言った。

「それはそのままですね」

     ◇

 問題は、積み方だった。

 酒樽は重い。

 小瓶は割れる。

 蜜掛けは揺らせない。

 薄揚げは湿気に弱い。

 江戸だれは漏れると他の荷を汚す。

 紙の控えは濡らしてはならない。

 蘭丸は言った。

「荷とは、ただ積めばよいものではないのですね」

 多米殿は頷いた。

「越後まで戻る荷にございます。山道もあります。雪解けの泥もあります」

 兼続が言った。

「越後口は、春が一番楽に見えて、油断すればぬかるみに取られます」

 多米殿は、積み方を分けた。

 酒樽は下。

 割れ物は藁で包み、箱へ。

 蜜掛けは揺れぬよう小箱を重ねぬ。

 薄揚げは湿気除けの包みへ。

 だれ壺は口を封じ、別籠へ。

 控え類は油紙で包む。

 蘭丸は、思わず笑った。

「土産にここまで」

 兼続は真面目に答えた。

「奥向きの土産が割れれば、越後で戦になります」

 蘭丸は頷いた。

「吉田でも聞いた話でございます」

 多米殿も頷いた。

「予備を入れましょう」

「やはり」

「奥荷に予備は要ります」

 景勝が、ぽつりと言った。

「灯にも」

 蘭丸は顔を上げた。

 灯。

 上杉景勝の妹であり、義信の側室である。

 兼続が頭を下げた。

「景勝様は、吉田におられる灯様へも、越後より別に品を送るべきとお考えにございます」

 多米殿は即座に書いた。

 灯様宛、越後返礼荷、後日。

 蘭丸は感心した。

「景勝様、そこまで」

 景勝は黙っていた。

 兼続が少しだけ笑った。

「酒だけではございませぬ」

     ◇

 出立前、江戸諏訪社で道中安全の祈願が行われた。

 上杉家の者たちは、整えられた帰り荷を前に頭を下げた。

 酒樽は減っていない。

 だが、商荷は増えた。

 奥荷も、きちんと分けられた。

 公荷も、濡れぬよう包まれている。

 景勝は、江戸諏訪社の前で静かに手を合わせた。

 兼続が言った。

「景勝様は、江戸の冬は悪くなかったとお考えにございます」

 蘭丸は少し笑った。

「それは、酒があったからでは」

 景勝が言った。

「飯も」

 兼続が頷く。

「景勝様は、酒だけでなく、江戸の飯も悪くなかったと仰せにございます」

 長可が、横から言った。

「イカ大根を食ってから帰れ」

 可隆が即座に言う。

「もう出立だ」

「少しなら」

「煮る時間が要る」

「大根は待て、イカは待つな」

 蘭丸は驚いた。

「兄上が覚えております」

 可成が頷いた。

「食い物は覚える」

 景勝は、少しだけ長可を見た。

「次だ」

 長可は笑った。

「次だな」

     ◇

 上杉家の一行が江戸を発った。

 荷は、来た時よりも種類が多い。

 越後へ戻る酒。

 奥向きの土産。

 江戸の味。

 江戸のだれ。

 江戸の包み。

 江戸の控え。

 そして、次の商いの種。

 蘭丸は、道を進む荷を見ながら呟いた。

「最初は、酒と土産ばかりでしたのに」

 多米殿は答えた。

「それでも、悪い始まりではございませぬ」

「そうなのですか」

「人はまず、自分が欲しいものを積みます。そこから、何を積ませるかを考えるのが、取次の役にございます」

 蘭丸は、少し納得した。

 景勝は酒を積んだ。

 奥への土産も積んだ。

 そこへ江戸は、商いの荷を挟み込んだ。

 帰り荷は、ただの帰り支度ではなかった。

 道を次へつなぐ、最初の返しだった。

     ◇

 夕刻、多米殿は上杉帰り荷控えを閉じた。

 公荷。

 私荷。

 奥荷。

 商荷。

 酒樽、減らさず。

 奥荷、予備あり。

 商荷、見本多し。

 灯様宛返礼荷、後日。

 景勝様、酒と飯を覚える。

 長可様、次の酒勝負を望む。

 蘭丸は最後の二行を見た。

「景勝様と長可兄上が、ずいぶん近くなっておりますね」

「酒と飯は、人を近づけます」

「それは、少し危ない近づき方では」

「はい」

 多米殿は、真面目に頷いた。

「だから控えます」

 蘭丸は、遠くなっていく上杉の荷列を見た。

 冬の間、江戸に留まっていた越後の客は、春とともに帰っていった。

 だが、何も持たずに帰ったわけではない。

 酒と土産だけでもない。

 江戸の味と、江戸の仕組みと、次の注文を積んで帰った。

 江戸と越後の道は、また少し太くなったのである。




――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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