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第47帳 酒は町を夜にする

 上杉景勝が越後へ帰ると、江戸の夜は少し静かになるはずだった。

 少なくとも、蘭丸はそう思っていた。

 景勝は酒を飲む。

 長可も酒を飲む。

 二人が揃うと、酒樽が減る。

 その片方が越後へ戻ったのだ。

 江戸の酒は、少し落ち着く。

 そう思っていた。

 だが、江戸はそう簡単には落ち着かなかった。

「蘭丸殿」

 多米殿が、いつものように帳面を抱えて現れた。

「何でしょう」

「夜の屋台が増えております」

「夜の」

「はい。酒を出す店が、焼きイカと丸芋薄揚げの横に勝手に出ております」

 蘭丸は、少しだけ天を見た。

「また勝手に」

「はい」

「なぜ、夜に」

「酒が売れるからにございます」

「なぜ、酒が売れるのです」

「焼きイカがあるからにございます」

 蘭丸は何も言えなかった。

 焼きイカは、義信の一言から生まれた。

 匂いで人を止める品である。

 そこへ丸芋薄揚げがある。

 塩が効いている。

 さらにイカ大根の残り汁を使った飯まで出始めた。

 酒を出したくなるのは、分かる。

 分かるが、嫌な予感しかしない。

     ◇

 夜の屋台通りは、昼とは別物だった。

 焼きイカの煙が上がる。

 丸芋薄揚げの塩気が酒を呼ぶ。

 イカ大根の小鍋が湯気を出す。

 江戸だれ揚げを温め直す店もある。

 そして、その間に酒樽が置かれていた。

「一杯だ!」

「もう一杯!」

「つけにしておけ!」

「誰がつけるか!」

 蘭丸が着いた時には、すでに揉めていた。

 町番が二人の男を引き離す。

 一人は酒代を払っていない。

 もう一人は、自分の薄揚げを食われたと怒っている。

 長可は、その横で杯を持っていた。

「よい夜だ」

 蘭丸は叫んだ。

「兄上!」

 長可は平然としている。

「酒があり、飯があり、人がいる。町ではないか」

「町ではございますが、揉めております!」

「揉めるほど人がいる」

「喜ぶところではございませぬ!」

 可隆が長可の杯を見た。

「長可、何杯目だ」

「三」

 屋台の女将が小声で言った。

「五でございます」

 可隆は、長可を見た。

「五だそうだ」

「三と二だ」

「足すな」

 蘭丸は頭を抱えた。

 そこへ森可成が来た。

 夜の酒場に可成が立つと、黒菱衆が一斉に背を正す。

「酒はよい」

 可成は静かに言った。

「だが、酒に町を任せるな」

 その一言で、場が少し冷えた。

     ◇

 多米殿は、屋台の並びを見ていた。

「火元が近すぎます」

「酒と火ですか」

「酒、火、油、喧嘩。まとめて置くと、よく燃えます」

「嫌な言い方ですね」

「事実にございます」

 焼きイカの炭火。

 揚げ物の油。

 イカ大根の鍋。

 酒樽。

 酔った客。

 たしかに、危ないものが詰まっている。

 さらに問題は、勘定だった。

 酒は一杯ずつ出る。

 食い物も一皿ずつ出る。

 酔うと、誰が何を飲んだか分からなくなる。

「俺は二杯だ」

「四杯飲んだ!」

「薄揚げは頼んでおらぬ」

「食っただろう!」

「覚えておらぬ」

 蘭丸は、その声を聞いて顔をしかめた。

「これは、昼の屋台より面倒でございますね」

「酒が入ると、記憶が逃げます」

 多米殿は淡々と答えた。

「記憶が逃げる」

「ならば、店の側で逃がさぬようにします」

「どうやって」

「勘定を分けます」

 多米殿は、すぐに書き始めた。

 酒一杯ごと。

 肴一皿ごと。

 つけは名を控える。

 名を控えられぬ者につけを許すべからず。

 喧嘩した者は、次の夜、酒を出さぬ。

 蘭丸は頷いた。

「酒にも控えが要るのですね」

「酒にこそ要ります」

     ◇

 しかし、控えだけでは足りなかった。

 夜の屋台は、どんどん増えようとしていた。

 酒が売れると聞けば、別の酒屋も来る。

 肴が売れると聞けば、焼きイカ以外の店も来る。

 人が集まれば、見物も来る。

 道が詰まる。

 荷車が通れない。

 酔った者が荷車に寄りかかる。

 黒菱衆がどかす。

 どかされた者が怒る。

 また揉める。

 長可が言った。

「道の真ん中にいる者は、投げればよい」

 蘭丸は即座に言った。

「投げないでください」

「軽くなら」

「軽くも駄目です」

 可隆が頷いた。

「長可、酔い人を投げるな。受け身を取れぬ」

「ならば転がせばよい」

「なお悪い」

 可成は、通りを見ていた。

「酒を売る場所を分けよ」

 多米殿が頷く。

「江戸酒町を置きます」

 蘭丸は聞き返した。

「酒町」

「はい。夜に酒を出す店は、そこへ寄せます」

「屋台通りから離すのですか」

「近すぎず、遠すぎずにございます。肴は運べる。火元は分ける。宿町へ流れ込みすぎぬ場所」

「なるほど」

「酒は、町を夜にします。ならば、夜にする場所を決めねばなりませぬ」

 蘭丸は、その言葉に少し感心した。

 酒を禁じるのではない。

 酒が町を変えるなら、変える場所を決める。

 江戸らしいやり方だった。

     ◇

 酒町の場所は、火元町の外れと宿町の間に決まった。

 焼きイカや薄揚げの屋台から、肴を運べる距離。

 だが、油火のすぐ横ではない。

 宿町へ酔い人がなだれ込まぬよう、黒菱衆の夜番を置ける場所。

 願生坊へも運べる道を残す。

 蘭丸は首をかしげた。

「願生坊へ運ぶのですか」

 多米殿は頷いた。

「酔い潰れた者、怪我をした者、身元の分からぬ者が出ます」

「願生坊は酔い潰れ宿ではございませぬ」

「ですので、願生坊へ投げ込むのではなく、まず酒町の夜番が受けます。手に負えぬ者だけ、願生坊へ相談します」

「相談」

「坊も町の一部にございます」

 蘭丸は納得した。

 江戸は、飯だけでなく、酔った者まで流れを作るらしい。

 酒町には、夜番が置かれた。

 黒菱衆二人。

 町人番二人。

 酔い人運び役。

 勘定見届け役。

 火消し桶。

 砂桶。

 水桶。

 長可が、それを見て言った。

「酒を飲むだけで、陣立てだな」

 可成が答えた。

「夜の町は、陣に似る」

「敵は誰だ」

 可隆が言った。

「酔ったお前だ」

「兄上」

「違うか」

 長可は少し考えた。

「違わぬな」

 蘭丸は驚いた。

「認めました」

     ◇

 酒町の初夜は、試しとなった。

 酒屋は決められた場所に並ぶ。

 肴は、焼きイカ、丸芋薄揚げ、イカ大根の小鉢、江戸だれ揚げの温め直し。

 天ぷらは出さない。

 蘭丸が尋ねた。

「天ぷらは駄目なのですか」

 多米殿は答えた。

「油と酒と夜が重なります」

「危ないですね」

「はい。さらに長可様が寄ります」

「それはかなり危ないですね」

 酒は一杯ごとに木片を渡すことになった。

 飲んだ数が分かるようにするためである。

 蘭丸は木片を見た。

「これは札では」

「酒数木にございます」

「名前を変えましたね」

「札にすると、また何でも札になります」

「お気遣いありがとうございます」

 客は、一杯飲むごとに酒数木を受け取る。

 帰る時に数を見て払う。

 つけにする者は、名を控える。

 酔って数が分からなくなった者は、店と見届け役が数える。

 それでも揉める者は、翌夜の酒を止められる。

 長可が酒数木を手に取った。

「俺の数も控えるのか」

 多米殿は即答した。

「控えます」

「俺だぞ」

「だから控えます」

 可隆が頷いた。

「正しい」

     ◇

 酒町が始まると、夜の空気は変わった。

 屋台通りより少し落ち着いている。

 だが、静かではない。

 杯の音。

 焼きイカを運ぶ声。

 丸芋薄揚げを噛む音。

 笑い声。

 ときどき怒鳴り声。

 怒鳴り声が上がると、黒菱衆がすぐに近づく。

 だが、槍は向けない。

 酔った者の肩を取り、外へ出す。

 水を飲ませる。

 勘定を確認する。

 蘭丸は見ていて言った。

「酒町は、思ったより手がかかりますね」

「はい」

 多米殿は頷く。

「ですが、散らばるよりはよろしゅうございます」

「散らばると」

「宿町で揉め、火元町で燃え、屋台通りで道を塞ぎます」

「それは困ります」

「一つの町へ留めれば、番を置けます」

 その時、風魔小太郎が闇の中から現れた。

 蘭丸は少しだけ慣れてきたが、それでも驚いた。

「風魔殿」

「夜は、目が要る」

 風魔は酒町を見ていた。

「黒菱衆は表の番だ」

 多米殿が頷く。

「裏の目は、風魔殿にお願いしたく」

 蘭丸は、二人を見た。

「裏の目」

 風魔は静かに言った。

「酒は口を軽くする。銭の話、女の話、恨みの話、道の話。夜に出る」

「それを聞くのですか」

「聞こえる」

 蘭丸は、少し背筋が冷えた。

 酒町は、ただの飲み屋街ではない。

 人が酔い、口を滑らせる場所でもある。

 風魔は言った。

「見ぬふりをすると、裏へ落ちる」

 多米殿が答えた。

「表に置き、番を置き、目を置きます」

 蘭丸は、次に何かが来る気がした。

 酒が夜を作ったなら、夜には酒以外のものも寄ってくる。

     ◇

 初夜の終わり、酒町の控えがまとめられた。

 江戸酒町定め。

 夜に酒を出す店は、酒町へ寄せること。

 火元町、宿町、屋台通りに酒を散らすべからず。

 酒一杯ごとに酒数木を渡すこと。

 肴一皿ごとに勘定を分けること。

 つけは名を控えられる者のみ許すこと。

 酔い潰れは、酒町夜番へ渡すこと。

 願生坊へ勝手に運び込むべからず。

 喧嘩した者は、次の夜、酒を止めること。

 天ぷらは当面、夜酒には出さぬこと。

 黒菱衆は表を見、風魔は裏を見ること。

 初例、焼きイカに酒が寄ったこと。

 蘭丸は最後の一行を見て、苦笑した。

「焼きイカから酒町ができるとは」

 多米殿は真面目に答えた。

「匂いは、人を集めます。人が集まれば、酒が来ます。酒が来れば、夜になります」

「そして夜には、風魔殿が来る」

 風魔は、闇の中で小さく頷いた。

「夜は、隠すためにあるわけではない」

 蘭丸は、その言葉を聞いて、少し黙った。

 江戸は、昼だけの町ではなくなった。

 飯を売る町。

 荷を動かす町。

 祭を鳴らす町。

 武を整える町。

 そして、酒で夜を作る町。

 長可は、酒数木を五つ並べて言った。

「今日は三杯だ」

 可隆が即座に答えた。

「五つある」

「二つは木だ」

「全部木だ」

 蘭丸は笑った。

 江戸酒町は、こうして始まった。

 酒は町を夜にする。

 だから江戸は、夜にも番と控えを置くことになったのである。



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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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