第45帳 大根は待て、イカは待つな
イカ大根は、伸びに伸びていた。
義信が江戸を発つ朝に言い残した。
イカと大根を、鳥ジャガの汁を調整したもので煮てみよ。
その一言で、森家は目を輝かせた。
だが、天ぷらの控えが増え、土産荷駄が出て、上泉伊勢守信綱が江戸に現れ、長可が負け、新陰流の稽古所まで生まれた。
気づけば、イカ大根は後回しである。
蘭丸は、火元町の釜の前で帳面を開いた。
「ようやくでございますね」
多米殿が頷いた。
「はい。御屋形様の置き土産にございます」
「置き土産というより、置き飯でございます」
「江戸ではよくあることにございます」
釜の横では、長可が腕を組んでいた。
「まだか」
可隆が答える。
「まだ始まっておらぬ」
「ならば始めよ」
「大根を切っている」
「切ったら入れよ」
「その前に下茹でだ」
長可は顔をしかめた。
「大根は面倒だな」
森可成が静かに言った。
「大根は待つ飯だ」
「父上まで、それを言うか」
「待てぬ者に、味は入らぬ」
蘭丸は、上泉に負けたあとの長可の顔を思い出した。
見えぬものを、見えるようにする。
あの時の長可は、珍しく真面目だった。
だが今は、釜の前で大根を睨んでいる。
人は、そう簡単には変わらない。
◇
大根は太く切られた。
厚めの輪切り。
面を取る者もいる。
隠し包丁を入れる者もいる。
蘭丸は首をかしげた。
「大根にまで切れ目を入れるのですか」
可成が答えた。
「味を入れるためだ」
「イカにも切れ目を入れましたね」
「焼きイカは、火とだれを入れるため。大根は、汁を入れるため」
多米殿の筆が動く。
大根切り方控え。
厚切り。
隠し包丁。
下茹で。
長可は不満そうだった。
「早くイカを入れろ」
可隆が言った。
「まだだ」
「御屋形様は、イカと大根を煮ろと言った」
「父上も言った。大根が先だ」
「イカは後か」
「後だ」
「どのくらい後だ」
「大根に味が入り始めてからだ」
長可は黙った。
そして、釜を睨んだ。
蘭丸は小声で言った。
「上泉殿との稽古より苦しそうですね」
可隆が頷いた。
「長可には、待つ方が強敵だ」
◇
汁も一つでは済まなかった。
鳥ジャガの汁をそのまま使うと、濃い。
大根に入れば重くなる。
イカに絡めば強すぎる。
義信の言葉どおり、調整が必要だった。
多米殿は、汁を三つに分けた。
一つ目は、鳥ジャガ汁を薄めたもの。
二つ目は、江戸薄だれを足して甘辛を整えたもの。
三つ目は、干し魚の出汁を少し加えたもの。
蘭丸は、三つの椀を見た。
「また三通りでございますか」
「味を決める時は、逃げ道が要ります」
「逃げ道」
「一つだけ試して外せば、揉めます。三つ試せば、選べます」
長可が言った。
「全部煮ればよい」
「兄上、それでは比べられませぬ」
「全部食えば分かる」
可隆が即座に言った。
「量で分かろうとするな」
森可成は三つの汁を舐めた。
「一つ目は番飯向き。二つ目は屋台向き。三つ目は膳向きだな」
多米殿の筆が止まらない。
「森可成様御評。番飯向き、屋台向き、膳向き」
蘭丸は感心した。
「父上、味の分け方まで」
「兵に食わせる飯と、客に出す飯は違う」
長可が言った。
「俺はどれだ」
可隆が答えた。
「全部と言いたいのだろう」
「分かっておるではないか」
「言わせぬために先に言った」
◇
大根が下茹でされる。
白かった大根が、少し透き通る。
湯気が上がる。
青臭さが抜ける。
長可は、何度も釜を覗いた。
「まだか」
「まだだ」
「もう透けておるぞ」
「味は入っておらぬ」
「見えるのか」
可成が言った。
「見える」
長可は少し黙った。
「……見えぬ」
上泉に負けた時と同じ言葉だった。
可隆が、少しだけ笑った。
「ならば、見えるようになれ」
長可は不満そうにしながらも、釜から一歩下がった。
大根が、調整した汁へ入れられる。
弱く煮る。
ぐらぐら煮立てない。
汁が、少しずつ大根へ染みていく。
そこへ、イカが運ばれてきた。
江戸湾から上がったイカである。
胴に切れ目を入れ、足は食べやすく分ける。
長可の目が輝いた。
「来たか」
可隆が言った。
「まだ入れるな」
「なぜだ」
「イカは煮すぎると固くなる」
「固くても食える」
「うまく食え」
蘭丸は、小さく頷いた。
「可隆兄上、今日も助かります」
多米殿は書いた。
イカ投入、最後。
煮すぎ禁制。
長可様、早入れ禁制。
長可が振り向いた。
「それは要るか」
「要ります」
多米殿は即答した。
◇
最初の失敗は、火加減だった。
一つ目の釜が強く煮立った。
汁が濁り、大根の角が崩れた。
長可はそれでも食べようとした。
可隆が止めた。
「試しだ。先に見ろ」
「崩れても味はある」
「見ろ」
蘭丸は、その大根を小皿に取った。
崩れている。
味は入っているが、姿が悪い。
多米殿は書いた。
強火、大根崩れる。番飯なら可。膳には不可。
二つ目は、汁が濃すぎた。
大根が黒くなり、味が強い。
長可は食べて頷いた。
「飯が進む」
可成は首を振った。
「これは濃い。兵にはよいが、毎日は重い」
多米殿が書く。
濃口、飯向き。日々には重し。
三つ目は、ゆっくり煮た。
大根の形が残り、汁が中まで入る。
そこで、ようやくイカを入れた。
白い身が、くるりと縮む。
切れ目が開く。
汁をまとって、艶が出る。
火を止める。
余熱で少し置く。
長可が言った。
「なぜ止める」
可隆が答える。
「ここで待つ」
「また待つのか」
「イカは待たせすぎても駄目だ。だが、汁を落ち着かせる」
「面倒だ」
可成が言った。
「だから飯は兵法に似る」
蘭丸は思わず言った。
「父上、何でも兵法にしないでください」
◇
試食となった。
まず可成。
大根を食べる。
頷く。
「よい。中まで入っておる」
次にイカ。
「固くない」
可隆も食べた。
「飯にも合うが、酒にも合う」
多米殿の筆が動く。
飯向き。酒向き。冬向き。
長可は、待ちきれず大きく口へ入れた。
大根。
イカ。
汁。
しばらく黙った。
蘭丸は、長可の顔を見た。
「兄上?」
長可は、低く言った。
「飯だ」
「それは分かります」
「飯が要る」
可隆が即座に飯椀を渡した。
「言うと思った」
長可は飯と一緒に食べた。
そして頷く。
「鳥ジャガとは違う。だが飯が進む」
蘭丸も食べた。
大根は、柔らかい。
鳥ジャガの名残のある甘辛い汁が染みている。
イカは強く噛むほど味が出る。
重すぎない。
だが、腹に残る。
「これは……宿飯にも向きますね」
多米殿が頷いた。
「はい。大根で量が出ます。イカは少なくとも匂いと味が立ちます」
「安くできますか」
「イカ次第にございます」
「やはり」
「ですが、魚ずけや天ぷらよりは、広く出せましょう」
森可成が言った。
「冬の番飯にもよい。汁があれば、体が温まる」
長可はすでに二杯目に入っていた。
「もっと煮ろ」
可隆が止めた。
「試しだ」
「試しで分かった。もっと煮ろ」
「分かったのは、お前の腹だ」
◇
問題は、匂いだった。
イカ大根の匂いは、焼きイカほど派手ではない。
だが、じわじわと広がる。
宿町の者が顔を出す。
「何を煮ております」
町番が覗く。
「飯の匂いがする」
上泉の門人まで稽古帰りに足を止めた。
「これは、稽古の後に効きそうですな」
長可が言った。
「稽古した者に食わせよ」
蘭丸は首を振った。
「兄上、勝手に道場飯を作らないでください」
多米殿は、少し考えてから書いた。
稽古後飯、要検討。
「多米殿!」
「要検討にございます」
「だいたい決まるやつです」
可成は真面目に言った。
「稽古後に重すぎる飯はよくない。だが、汁物ならよい」
上泉の門人も頷く。
「体が冷えた時には、ありがたく」
長可は得意げだった。
「ほら見ろ」
可隆が言った。
「お前が考えたわけではない」
「食えば分かる」
「それも、お前だけの手柄ではない」
◇
夕刻、イカ大根の控えが整えられた。
イカ大根試し煮控え。
大根は厚く切り、下茹ですること。
隠し包丁を入れれば、味入りよし。
鳥ジャガ汁は、そのまま使わず薄めること。
江戸薄だれ、または干し魚の出汁にて調整すること。
大根を先に煮ること。
イカは後に入れること。
煮すぎれば固くなるため、火を止める時を見誤るべからず。
強火、大根崩れる。
濃口、飯は進むが日々には重し。
薄口、膳向き。
中口、宿飯、番飯、稽古後飯に向く。
初例、御屋形様、帰り際に思いつく。
随行衆、食えず。
森家、食う。
蘭丸は、最後の三行を見て言った。
「随行衆、食えず、まだ残すのですか」
「はい」
「森家、食う、も要りますか」
「要ります」
「なぜです」
「事実にございます」
長可が横から言った。
「消すな」
蘭丸は長可を見た。
「兄上まで」
「食った」
「それはそうですが」
「また食う」
可隆が頷いた。
「これは残してよい。御屋形様が戻られた時、出せる」
可成も言った。
「吉田へも、駿府へも、いずれ送ることになる。江戸で手順を固めておけ」
蘭丸は、ようやく納得した。
義信が帰り際に置いていった思いつきは、ただの飯では終わらなかった。
大根の切り方。
汁の濃さ。
イカを入れる刻限。
火を止める間。
宿飯、番飯、稽古後飯。
また一つ、江戸の食が手順になった。
◇
夜、釜の底には少しだけ汁が残った。
長可がそれを見た。
「飯を入れろ」
蘭丸は即座に言った。
「兄上!」
可隆が止めようとした。
だが、可成が少し考えて言った。
「いや、少しだけ試せ」
蘭丸は驚いた。
「父上まで」
「残り汁の使い道も要る」
多米殿の筆が、また動いた。
残り汁飯、試し。
長可は満足そうに飯を入れた。
汁を吸った飯を食べる。
黙る。
「よい」
可隆も一口食べた。
「……これは、翌朝向きだな」
蘭丸は、もう笑うしかなかった。
「イカ大根から、また増えました」
多米殿は静かに言った。
「煮物は、終わったあとも仕事をします」
釜の湯気が、夜の江戸へ上がっていく。
江戸は今日も、ひとつの思いつきを、町の手順に変えていた。
大根は待て。
イカは待つな。
残り汁も捨てるな。
義信が置いていった一言は、ようやく森家の腹に収まり、江戸の帳面に収まったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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