第44帳 剣聖、江戸に立つ
義信一行が江戸を発ったあとも、町は落ち着かなかった。
天ぷら。
イカ大根。
吉田城土産荷駄。
奥向き土産控え。
魚ずけ。
焼きイカ。
御屋形様は、来て、見て、食べて、思いつき、そして去った。
残された江戸では、森家がさっそくイカ大根の試し煮を始めていた。
「まだか」
長可が釜を覗く。
可隆が言う。
「まだだ」
「大根は白いぞ」
「だからまだだ」
「イカは」
「後だ」
「後とはいつだ」
「大根に味が入ってからだ」
森可成は、そのやり取りを聞きながら、静かに大根の色を見ていた。
「煮炊きも、合戦も、急けば崩れる」
蘭丸は帳面に書いた。
イカ大根。
長可様、待てず。
そこへ、多米殿が顔を出した。
「蘭丸殿」
「何でしょう」
「剣術の方が参っております」
「剣術」
「上州より、上泉伊勢守信綱殿にございます」
蘭丸の筆が止まった。
「上泉伊勢守……」
名は聞いている。
新陰流の剣聖。
諸国の武芸者が、その名を重く見る人物である。
「そのような方が、江戸へ何用で」
「江戸に稽古所を置きたいとのことにございます」
蘭丸は、釜の前でまだ大根を睨んでいる長可を見た。
嫌な予感がした。
◇
上泉伊勢守信綱は、静かな男であった。
老いている。
だが、弱くは見えない。
むしろ、立っているだけで、周りの者が勝手に姿勢を正すような気配があった。
蘭丸は頭を下げた。
「遠路、ようこそ江戸へ」
「江戸は、面白き町になりつつあると聞きました」
上泉は、町の通りを見た。
「荷が動き、人が集まり、若き者が力を持て余している」
蘭丸は、なぜか長可の方を見た。
長可は、当然のようにこちらへ来ていた。
「誰が力を持て余しておる」
可隆がすぐに言った。
「お前だ」
「兄上」
「否定できまい」
上泉は、長可を見ても表情を変えなかった。
「森長可殿か」
「そうだ」
「よい体をしておられる」
長可は少し笑った。
「そなたも、ただ者ではないな」
蘭丸は慌てた。
「兄上、相手は上泉伊勢守殿でございます」
「知っておる」
「本当にご存じですか」
「強いのだろう」
「雑でございます!」
多米殿が、静かに事情を説明した。
「上泉殿は、江戸に新陰流の稽古所を置きたいとのことにございます。御自身が長く留まられるわけではなく、一門を置き、黒菱衆や町番、希望する武家の若者に稽古をつけたいと」
蘭丸は頷いた。
「江戸に道場ですか」
「道場があれば、若者の腕を整えられましょう」
上泉が言った。
「剣は、人を斬るためだけのものではありませぬ。斬らぬために、己を知るものでもあります」
その言葉に、森可成が目を細めた。
「面白い」
だが、長可は別のところで反応した。
「道場を開きたいだと」
「左様」
「ならば、わしに勝ったら許可しよう」
蘭丸は叫んだ。
「兄上! 許可するお立場ではございませぬ!」
長可は腕を組んだ。
「江戸で武芸を教えるなら、黒菱衆が見るべきだ」
「言葉だけなら筋が通っているのが困ります!」
可隆が長可の肩を掴んだ。
「長可、勝手に決めるな」
「兄上、負ければよいだけだ」
「誰が」
「俺が負けるわけがない」
蘭丸は頭を抱えた。
多米殿は、すでに筆を取っていた。
「新陰流稽古所立合控え」
「多米殿!」
「町の者に見せるなら、控えが要ります」
「見せる前提でございますか!」
◇
立合は、相撲場の横に作られた空き地で行われることになった。
真剣ではない。
上泉が持ってきたのは、袋竹刀であった。
竹を革で包んだ、稽古用のものだという。
長可は、それを見て眉を寄せた。
「軽そうだな」
「軽うございます」
上泉は答えた。
「だが、当たれば分かります」
長可は笑った。
「ならば、分からせてみよ」
見物人は、すぐに集まった。
黒菱衆。
町番。
人足。
屋台の者。
鍛冶町の者。
奉納弓会を見た者たち。
相撲場の権六までいる。
誰もが、長可が勝つと思っていた。
当然である。
長可は、江戸の者にとって、動く災いであり、動く武であり、動く飯であった。
その長可が負けるところなど、想像できない。
蘭丸でさえ、上泉がただ者ではないと分かっていても、長可が簡単に崩れるとは思えなかった。
可成は静かに見ていた。
可隆も黙っていた。
多米殿は、筆を構えていた。
◇
長可が構えた。
構えというより、襲いかかる前の獣である。
上泉は、自然に立った。
構えているようにも、構えていないようにも見える。
長可が言った。
「行くぞ」
「どうぞ」
次の瞬間、長可が踏み込んだ。
速い。
黒菱衆の何人かが、思わず息を呑んだ。
長可の踏み込みは、戦場で人を割る踏み込みである。
受ければ崩れる。
避け遅れれば、終わる。
だが、上泉はそこにいなかった。
長可の袋竹刀が空を切った。
同時に、上泉の竹刀の先が、長可の喉元に止まっていた。
ぴたりと。
触れてはいない。
だが、あと少しで終わりだと、誰の目にも分かった。
場が静まり返った。
長可も、動かなかった。
蘭丸は声が出なかった。
町人の一人が呟いた。
「……見えたか」
別の者が首を振った。
「見えぬ」
「長可様が」
「何もできなかった」
その言葉が、少しずつ広がった。
◇
長可は、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「もう一度」
可隆が言った。
「長可、負けだ」
「分かっておる」
「ならば」
「だから、もう一度だ」
上泉は、わずかに頷いた。
「よろしい」
二度目。
長可は、今度はすぐに飛び込まなかった。
間を測る。
足を動かす。
右へ出ると見せ、左へ踏む。
その動きは、先ほどよりもずっと慎重だった。
だが、上泉は崩れない。
長可が打つ。
上泉の竹刀が、長可の手首を軽く押さえた。
強く叩いたわけではない。
ただ、そこに置いた。
それだけで、長可の打ちは止まった。
次の瞬間、上泉は半歩入り、長可の胸元に竹刀を添えていた。
二度目も、終わった。
町人たちは、もう騒げなかった。
信じられないものを見る時、人は声を失う。
長可は、今度は笑わなかった。
ただ、低く言った。
「……何だ、それは」
上泉は答えた。
「先に動く気が、見えました」
「見えた?」
「強き者ほど、先に動きたがる。先に動けば、読まれます」
長可の顔から、少しだけ血の気が引いた。
怒りではない。
考えている顔であった。
可隆が静かに言った。
「長可」
「兄上」
「よい負けだ」
長可は、少しだけ悔しそうにした。
「負けに、よいも悪いもあるか」
「ある」
可成が頷いた。
「あるな」
◇
森可成が前へ出た。
「上泉殿」
「はい」
「今のもの、町番にも要る」
蘭丸は驚いた。
「父上」
「長可のような者だけではない。町番も、若い黒菱衆も、腕を振る前に己を止める術を知らねばならぬ」
上泉は頭を下げた。
「それこそ、道場で教えるべきことにございます」
多米殿の筆が動いた。
江戸新陰流稽古所。
入門控え。
稽古日控え。
袋竹刀控え。
木刀貸し出し控え。
怪我人運び役。
見物禁制日。
黒菱衆稽古番。
町人稽古口。
蘭丸は、帳面を覗き込んだ。
「町人稽古口まで作るのですか」
「木刀を持たせるわけではございませぬ。身のこなし、棒、避け方、揉め事から逃げる術にございます」
「逃げる術」
上泉が言った。
「勝つばかりが兵法ではありませぬ。生き残ることも兵法です」
権六が、相撲場の方から言った。
「それなら、俺も習えるか」
長可が振り向いた。
「権六、お前は相撲をやれ」
権六は笑った。
「長可様も負けたではありませぬか」
場が凍った。
蘭丸は、権六の命を心配した。
だが、長可は怒らなかった。
「だから習うのだ」
江戸の者たちが、また驚いた。
長可が、負けを認めた。
そして、習うと言った。
それは、上泉が長可を倒したことと同じくらい、信じられない光景であった。
◇
道場の場所は、すぐに問題になった。
武田八幡に近すぎれば、神前が騒がしくなる。
相撲場に近すぎれば、見物人が混ざる。
鍛冶町に近すぎれば、音と火が重なる。
宿町に近すぎれば、酒を飲んだ者が挑みに来る。
多米殿は絵図を広げた。
「道場は、黒菱衆本陣から近く、宿町から少し離し、願生坊へも人を運べる場所に置きます」
「願生坊へ」
「怪我人が出ます」
「出る前提ですか」
「出ます」
上泉は静かに頷いた。
「出さぬよう教えます。されど、最初は出ましょう」
蘭丸は深く息を吐いた。
「剣術道場とは、思ったより町の手間が要りますね」
多米殿は答えた。
「人が集まり、棒を振れば、必ず手間になります」
可隆が言った。
「長可がいるなら、なおさらだ」
長可は反論しなかった。
ただ、上泉を見ていた。
「いつからだ」
「何がでございましょう」
「稽古だ」
上泉は、少し笑った。
「明朝より」
「よい」
蘭丸は、また驚いた。
「兄上が、待っている」
可隆が言った。
「負けた相手が本物なら、長可は素直だ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
◇
夕刻、相撲場の横には、まだ見物人が残っていた。
皆、同じ話をしていた。
「長可様が止められた」
「喉元だ」
「二度目は手首だった」
「見えたか」
「見えぬ」
「では、道場へ行くか」
「分かるようになるのか」
「ならぬかもしれん」
「だが、見たい」
蘭丸は、その声を聞いた。
多米殿も聞いていた。
「良い宣伝になりました」
「多米殿、兄上が負けたのですよ」
「だからです」
「だから?」
「長可様が簡単に勝てば、誰も驚きませぬ。長可様が負けたから、人が来ます」
蘭丸は、少し複雑な顔をした。
「兄上の負けが、道場の宣伝になるとは」
多米殿は静かに答えた。
「江戸では、騒ぎも負けも、使い道がございます」
そこへ長可が来た。
「分からぬ者は、道場へ来い」
蘭丸は振り向いた。
「兄上が宣伝してしまった!」
長可は真顔だった。
「見えぬなら、見えるようになればよい」
上泉は、その言葉を聞いて、静かに頷いた。
「よき心がけにございます」
長可は、少しだけ胸を張った。
可隆が言った。
「褒められて調子に乗るな」
「乗っておらぬ」
「顔に出ている」
森可成は、江戸の町を見ていた。
「道場は、武を整える場になる。江戸には要る」
蘭丸は、帳面を閉じた。
飯から鍛冶町が生まれた。
弓から奉納弓会が生まれた。
太鼓から囃子が生まれた。
そして今度は、長可の負けから道場が生まれようとしている。
江戸は、勝った者だけでできる町ではない。
負けた者が、もう一度と立つ場所も要る。
こうして江戸には、上泉伊勢守信綱の名のもと、新陰流の稽古所が置かれることになった。
その始まりは、長可が勝手に許可を賭け、あっさり負けたことであった。
多米殿は最後に、控えへ一行を加えた。
初例、森長可様、見えず。
蘭丸はそれを見て、慌てて言った。
「多米殿、それは消した方が」
背後から長可の声がした。
「消すな」
蘭丸は驚いて振り向いた。
長可は、上泉の立っていた場所を見ていた。
「見えぬものを、見えるようにする」
その顔は、悔しそうで、少しだけ楽しそうだった。
江戸の者たちは、その顔を見て思った。
長可様が負けた。
だが、長可様は折れていない。
それならば、この道場は、きっと面白いものになる。
江戸の武は、また一つ、形を変えようとしていた。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
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『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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