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別帳 御屋形様、よかれと思う

 三郎丸は、江戸が気に入っていた。

 丸芋薄揚げは、軽かった。

 南蛮芋蜜掛けは、甘かった。

 焼きイカは、強かった。

 天ぷらは、油物なのに軽かった。

 そして、父上はすごかった。

 魚を揚げる前に食べて、魚ずけにした。

 屋台を見て、なぜイカがないのだと言った。

 油が温まっていると見るや、麦粉と卵と水で天ぷらを作った。

 帰り際には、イカと大根を鳥ジャガの汁で煮よと言った。

 三郎丸は思った。

 父上は、飯を見る目がある。

 いや、飯だけではない。

 父上は、店を見る目もあった。

 楓が言っていた。

「父上、町を見るとは、店を見ることなのですね」

 父上は頷いた。

「そうだ。店を見れば、その町が何を欲し、何を作り、何を運べるかが分かる」

 三郎丸には、少し難しかった。

 だが、店を見るのは楽しかった。

 買うのはもっと楽しそうだった。

 嶺松院と楓は、江戸の店でたくさん買った。

 生地。

 更紗。

 硝子の小瓶。

 南蛮鏡。

 香。

 針。

 鋏。

 小箱。

 南蛮芋蜜掛け。

 丸芋薄揚げ。

 魚ずけ用のだれ。

 焼きイカ用のだれ。

 天ぷら衣の控え。

 荷駄は、どんどん増えた。

 三郎丸は、それを見て思った。

 吉田城の奥も、きっと喜ぶ。

     ◇

 吉田城へ戻ると、土産の荷駄は奥へ運ばれた。

 三郎丸も、こっそりついていった。

 別に悪いことをするつもりはない。

 ただ、南蛮芋蜜掛けがどうなるか見たかっただけである。

 奥では、三条の方、濃乃、灯が待っていた。

 三条の方は、義信の母である。

 濃乃は、静かに笑う人だった。

 灯は、越後の気配を持つ人だった。上杉景勝の妹であると、三郎丸は聞いている。

 そこへ、嶺松院が入った。

 楓も一緒である。

 まず開かれたのは、生地だった。

 三条の方が、深い藍の布を手に取った。

「まあ。よい色ですね」

 濃乃は、更紗めいた布を広げた。

「これは、江戸のものですか」

 嶺松院が頷く。

「江戸で見つけました。堺を通った南蛮風の柄だそうです」

 灯は、越後の青苧を使った布に目を留めた。

「青苧まで江戸に入っているのですか」

「上杉家の荷も、江戸へ来ておりました」

 灯は少しだけ目を細めた。

「兄上が、江戸で酒を飲んでいるだけではなかったのですね」

 三郎丸は、灯が少し嬉しそうに見えた。

 次に、硝子の小瓶が出た。

 楓が嬉しそうに言う。

「これは私のです。母上が選んでくださいました」

 三条の方が微笑んだ。

「透けておりますね。水を入れても、花を挿してもよさそうです」

 南蛮鏡も出た。

 香も出た。

 針と鋏も出た。

 奥の空気は、明るかった。

 三郎丸は安心した。

 やはり喜んでいる。

 父上の土産は、正しかった。

     ◇

 だが、途中から空気が変わった。

 最初に少し声を低くしたのは、三条の方である。

「嶺松院」

「はい」

「このような品が、江戸には揃っているのですか」

「はい。すべてではございませぬが、菱屋にかなり集まっておりました」

 濃乃が小箱を手にしたまま言った。

「南蛮物まで」

 灯も青苧の布を見た。

「越後の品も、江戸で選べるのですね」

 嶺松院は、静かに頷いた。

「選べます」

 三郎丸は、少し不思議に思った。

 よい品が選べる。

 ならば、嬉しいはずである。

 だが、三条の方の目が、少し細くなった。

「義信は、この店を見たのですね」

「はい」

「嶺松院も、楓も」

「はい」

「三郎丸も」

 三郎丸は、急に名前を呼ばれて背筋を伸ばした。

「はい。見ました」

「楽しかったですか」

「はい!」

 答えた瞬間、部屋の空気が、少し冷えた気がした。

 濃乃が、柔らかく笑った。

 柔らかいのに、なぜか怖かった。

「そのような店があるとは、聞いておりませぬでしたね」

 灯も静かに言った。

「越後の青苧まであるなら、私も見とうございました」

 三条の方は、義信の方を見た。

 父上は、土産の包みを見て満足そうにしていた。

「土産を買ってきた」

 父上は、そう言った。

 三郎丸は、それで十分だと思った。

 だが、三条の方は静かに言った。

「土産を買えば済む話ではございませぬ」

 父上が、少し黙った。

 三郎丸は、初めて見た。

 戦場でも、政でも、飯でも、店でも、父上はたいてい迷わない。

 だが今、父上は迷っている。

     ◇

 三条の方は、楓を見た。

「楓」

「はい」

「父は、江戸で何と言っておりましたか」

 楓は、何も疑わず答えた。

「町を見るということは、店を見ることだと、おっしゃいました」

 父上の顔が、少し固まった。

 楓は、さらに笑顔で続けた。

「店を見れば、その町が何を欲し、何を作り、何を運べるかが分かると。楽しかったです」

 その時、三郎丸には聞こえた気がした。

 ぴきり。

 何かが鳴った。

 実際に何かが割れたわけではない。

 硝子の小瓶は無事だった。

 南蛮鏡も割れていない。

 だが、部屋の空気が確かに鳴った。

 三条の方は微笑んでいた。

 濃乃も微笑んでいた。

 灯も、静かにしていた。

 だからこそ、三郎丸は怖かった。

 父上は、少しだけ咳払いをした。

「町を見るためだ」

 三条の方が頷いた。

「ええ。町を見るため」

 濃乃も言った。

「店を見るため」

 灯も言った。

「選ぶため」

 父上は、また黙った。

 三郎丸は思った。

 父上は、飯では負けない。

 戦でもたぶん負けない。

 だが、これは勝てない。

     ◇

 嶺松院は、静かに土産を分けていた。

 三条の方には、南蛮鏡と藍の布。

 濃乃には、小箱と更紗。

 灯には、青苧の布と香。

 奥向きには針と鋏。

 侍女たちには端切れ。

 楓には硝子の小瓶。

 三郎丸には、丸芋薄揚げが少し。

 三郎丸は、少し嬉しかった。

 だが、今は食べる空気ではなかった。

 そこへ、土産荷駄とともに運ばれてきた控えが広げられた。

 多米殿が江戸で書いたものだった。

 吉田城土産荷駄控え。

 嶺松院様御選び分。

 楓姫様御選び分。

 三条の方様分。

 濃乃殿分。

 灯殿分。

 吉田奥向き分。

 駿府送り分。

 古河御所送り分。

 今川信親様元服祝い返し候補。

 侍女衆分。

 予備。

 三条の方は、それを見て言った。

「予備まで」

 嶺松院が答えた。

「奥向きに予備は要る、と」

「それは正しいですね」

 三郎丸は、少し驚いた。

 三条の方は怒っているのに、予備は正しいらしい。

 奥向きは難しい。

 さらに控えの端に、小さな一行があった。

 御屋形様、よかれと思う。

 三条の方の目が、その一行で止まった。

「この一行を書いた者は、分かっておりますね」

 父上が低く言った。

「……多米か」

 濃乃が、くすりと笑った。

「分かっておられるのに、止めなかったのですね」

 灯が静かに言った。

「止まらぬと見たのでしょう」

 三郎丸は、多米殿を少し尊敬した。

 江戸にいながら、吉田の空気まで読んでいたのである。

     ◇

 その後、土産は無事に分けられた。

 無事かどうかは、三郎丸には分からない。

 少なくとも、硝子は割れなかった。

 鏡も割れなかった。

 南蛮芋蜜掛けも、きちんと箱に収まっていた。

 ただ、父上はずっと静かだった。

 三郎丸は、そっと父上の近くへ寄った。

「父上」

「何だ」

「土産は、よいものだと思います」

 父上は、三郎丸を見た。

「そうか」

「はい。ですが」

「ですが?」

 三郎丸は、少し考えた。

 そして、自分なりに言った。

「次は、先にお知らせした方がよいと思います」

 父上は、しばらく黙った。

 それから、小さく頷いた。

「そうだな」

 三郎丸は安心した。

 父上は、やはりすごい。

 負けても、分かる人である。

 ただし、奥向きには先に知らせるべきだった。

     ◇

 その夜、三郎丸は丸芋薄揚げを少しだけ食べた。

 塩が効いていて、やはりうまかった。

 だが、江戸で食べた時より少し静かな味がした。

 江戸は、匂いも音も強かった。

 屋台の声がして、長可が叫び、蘭丸が止め、多米殿が控え、父上が何かを思いつく。

 吉田城の奥は、静かだった。

 静かだが、怖かった。

 三郎丸は学んだ。

 町を見るとは、店を見ること。

 店を見るとは、買うことでもある。

 買うと、土産になる。

 土産が増えると、荷駄になる。

 荷駄が奥へ入ると、空気が鳴る。

 父上は、よかれと思った。

 それは、きっと本当だった。

 だが、よかれと思っただけでは足りないこともある。

 三郎丸は、最後の丸芋薄揚げを口に入れた。

 ぱり、と鳴った。

 その音に、昼間の空気がぴきりと鳴ったことを思い出し、三郎丸は少しだけ背筋を伸ばした。

 江戸の土産は、吉田城でも騒ぎを起こした。

 そして三郎丸は、父上にも勝てない相手がいることを知ったのである。



――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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