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第43帳 油は重く、衣は軽い

 江戸滞在の最後の夜、義信一行には、また江戸の膳が並べられた。

 魚ずけ飯。

 江戸だれ揚げ。

 丸芋薄揚げ。

 南蛮芋蜜掛け。

 焼きイカ。

 鳥ジャガ。

 蕎麦切り。

 蘭丸は、膳を見て思った。

 うまい。

 うまいのだが、強い。

 味が強い。

 匂いが強い。

 油が強い。

 だれが強い。

 甘味も強い。

 それを最初に口にしたのは、嶺松院であった。

「どれも美味しゅうございます」

 料理番が、ほっとした顔をする。

 だが、嶺松院は続けた。

「ですが、少しクドいものばかりにございますね」

 場が静まった。

 蘭丸は、思わず頷きそうになって、慌てて止めた。

 義信は、膳を見渡した。

「ふむ」

 丸芋薄揚げを一枚取る。

 焼きイカを見る。

 魚の揚げ物を見る。

 鳥ジャガの汁を見る。

 そして、火元町の料理番へ言った。

「油は温まっておるな」

「はっ」

「麦粉、卵、水を持ってこい」

 蘭丸は顔を上げた。

「御屋形様、今度は何をなさるのでございますか」

「衣を作る」

「衣」

「具に薄くまとわせ、油で揚げる」

 料理番が戸惑った。

「粉をまぶすのではなく、でございますか」

「違う。溶く。重くするな。薄くつける」

 多米殿は、すでに筆を取っていた。

「天ぷら衣控え」

 蘭丸は眉を寄せた。

「天ぷら、でございますか」

 義信は短く頷いた。

「天ぷらでよい」

     ◇

 すぐに、麦粉、卵、水が運ばれた。

 義信は器の中で、それらを軽く合わせた。

「混ぜすぎるな」

「混ぜぬのですか」

「混ぜる。だが、練るな。重くなる」

 蘭丸には、その違いがよく分からなかった。

 だが、義信の手は迷わない。

 用意されたのは、江戸湾の白身魚。

 小さな海老。

 イカ。

 青菜。

 丸芋の薄切り。

 南蛮芋の細切り。

 料理番が恐る恐る魚を衣にくぐらせる。

 油へ入れる。

 じゅ、と音がした。

 江戸だれ揚げとは違う。

 色が淡い。

 匂いも重くない。

 衣がふわりと膨れ、油の中で軽く揺れる。

 長可が、廊下から顔を出した。

「また揚げておるな」

 蘭丸は振り向いた。

「兄上、また廊下に!」

 可隆が、長可の襟を掴んでいた。

「止めたが、匂いで来た」

「止まっておりませぬ!」

 可成も、その後ろにいた。

「静かに見よ」

「父上まで!」

 森家は、揚げ物の気配に弱かった。

     ◇

 最初に揚がった白身魚が、義信の前に置かれた。

 義信は、蕎麦つゆを少し薄めたものに先をつけ、口へ運んだ。

「よい」

 次に、塩を少し振って食べる。

「塩でもよい」

 料理番は、目を丸くしていた。

「だれに漬けずとも、油物になるのですね」

「だれは強い。これは軽く食わせる」

 嶺松院にも出された。

 嶺松院は、一口食べて、少し驚いた顔をした。

「これは、油物なのに軽うございます」

 義信は頷いた。

「衣が油を受け、具を守る。重くするか軽くするかは、衣次第だ」

 蘭丸は、天ぷらを見た。

 たしかに、江戸だれ揚げとは違う。

 あちらは、味で押してくる。

 こちらは、具の味を残している。

 信智が白身魚を食べ、静かに言った。

「膳向きにございますね」

 今川信親は、青菜の天ぷらを口にした。

「駿府でも作れましょうか」

「作れる」

 義信は答えた。

「だが、油と粉と火加減が要る。屋台へ出すのは、まだ早い」

 多米殿の筆が動く。

 高級膳向き。

 屋台向きは後日検討。

 油替え時、要確認。

 衣、練りすぎるべからず。

 蘭丸は、思わず言った。

「屋台に出さぬのですか」

 義信は頷いた。

「古い油で出せば、すぐ重くなる。火が乱れれば、ただの油玉だ。まず膳で覚えさせろ」

「なるほど」

 長可が、横から言った。

「俺は屋台でもよい」

 可隆が即座に言った。

「お前の胃で町を決めるな」

     ◇

 次々に揚げられた。

 イカの天ぷらは、焼きイカとはまるで違った。

 切れ目を入れた身に、薄い衣がまとわり、噛むと中から甘みが出る。

 丸芋は、外が軽く、中がほくりとした。

 南蛮芋は、甘いが、蜜掛けほど重くない。

 小さな海老は、楓が気に入った。

「母上、これは尾まで食べられますか」

「よく噛みなさい」

 楓は、そっと食べて笑った。

「軽いです」

 三郎丸は、丸芋の天ぷらを食べて言った。

「兄上、これはいくつでも食べられます」

 信智は冷静に答えた。

「だから危ない」

 朝比奈泰朝は、イカの天ぷらを眺めていた。

「昨日の焼きイカとは、別物にございますな」

 義信は頷く。

「同じイカでも、焼けば匂いで人を止める。揚げれば膳で人を驚かせる」

 泰朝は深く頷いた。

「品は、手を変えれば役も変わる」

 信親は、その言葉を聞いていた。

 今川の当主となったばかりの少年は、天ぷらの皿と義信の顔を交互に見る。

「父上」

「何だ」

「江戸は、一つの物を一つの売り方で終わらせませぬね」

 義信は、少しだけ笑った。

「終わらせるな。魚は焼ける。揚げられる。漬けられる。飯に乗る。土産になるものもあれば、その場で食うものもある。町とは、その分け方だ」

 多米殿は、嬉しそうではない顔で、嬉しそうな速さで書いていた。

 天ぷら種控え。

 蕎麦つゆ添え。

 塩添え。

 膳向き。

 奥向き向き。

 酒向き。

 屋台向き、後日。

 蘭丸は、帳面を見て呟いた。

「天ぷらだけで、こんなに分かれますか」

「分かれます」

「江戸は、分ける町ですね」

「はい」

     ◇

 夜が更ける頃には、一同の膳に、天ぷらが加わっていた。

 嶺松院は満足そうだった。

「これなら、重いものばかりではございませぬ」

 義信は頷いた。

「江戸の飯は強い。強いままでは、飽きる。軽いものを挟め」

「よきことにございます」

 楓は、小さな海老の天ぷらを名残惜しそうに見ていた。

「吉田へ持って帰れませぬか」

 多米殿が即座に答えた。

「揚げたてでなければ、軽さが落ちます」

「では、吉田でも作らねばなりませぬね」

 義信が言った。

「その通りだ」

 蘭丸は、ぎょっとした。

「御屋形様」

「何だ」

「また吉田へ作り方を」

「送る」

 多米殿は、すでに別帳を開いていた。

「吉田城天ぷら試作控え」

「早い!」

 朝比奈泰朝が苦笑した。

「駿府にも、いずれ入りましょうな」

 義信は、信親を見た。

「駿府では急ぐな。まず江戸と吉田で油を見ろ」

「承知いたしました」

 こうして、江戸の最後の夜に、また一つ新しい飯が増えた。

 蘭丸は、もう驚かないつもりだった。

 だが、それは甘かった。

     ◇

 翌朝、義信一行は江戸を発つことになった。

 荷駄は、昨日よりさらに増えていた。

 生地。

 南蛮物。

 蜜掛け。

 薄揚げ。

 魚ずけ用のだれ。

 天ぷら衣の控え。

 吉田城への土産。

 駿府への送り。

 古河への分。

 予備。

 蘭丸は、荷駄を見て思った。

 これはもう、土産ではない。

 小さな移動する市である。

 嶺松院は、出立の支度を整えていた。

 楓は、硝子の小瓶が割れぬよう何度も確認している。

 三郎丸は、焼きイカの屋台を名残惜しそうに見ている。

 信智は、道と護衛の並びを確認していた。

 信親は、朝比奈泰朝とともに江戸の荷道をもう一度見ていた。

 義信は、ふと火元町の方を見た。

「そうじゃ」

 蘭丸は、嫌な予感で振り返った。

「御屋形様?」

 義信は、何でもないことのように言った。

「イカと大根を、鳥ジャガの汁を調整したもので煮てみよ」

 場が止まった。

 嶺松院の目が、すっと義信へ向いた。

「……今、おっしゃいますか」

 楓が、少し頬を膨らませた。

「父上、食べられませぬ」

 三郎丸も声を上げた。

「帰る前に言ってくださればよかったのに」

 信智は、静かに言った。

「父上、これは恨まれます」

 信親も、少し困った顔をした。

「駿府へ戻ってからも気になってしまいます」

 朝比奈泰朝は、苦笑した。

「昨日の焼きイカに続き、またイカでございますか」

 義信は平然としていた。

「大根は味を受ける。イカは煮すぎるな。鳥ジャガの汁は、そのままでは濃い。薄めて甘辛を整えよ」

 随行の者たちの視線が、じわじわと義信に集まった。

 今になって言うか。

 その声が、言葉にならずに漂っていた。

 だが、江戸に残る森家だけは違った。

 長可の目が輝いた。

「イカと大根」

 可隆も、腕を組んだ。

「鳥ジャガの汁を薄めて、甘辛を整えるか」

 可成は、すでに手順を考えていた。

「大根は先に煮る。味を入れるには時間が要る。イカは後だ。煮すぎれば固くなる」

 蘭丸は思わず叫んだ。

「父上、もう作る気でございますか!」

 可成は当然のように答えた。

「江戸に残るのだ。試さぬ理由がない」

 長可は言った。

「すぐ作れ」

 可隆が長可を見た。

「お前は待て。大根はすぐには染みぬ」

「染みるまで待つ」

「珍しく正しい」

 多米殿は、静かに帳面を開いた。

「イカ大根試し煮控え。森家、試作役」

 蘭丸は、多米殿を見た。

「決まったのですか」

「決まりました」

「随行の方々は食べられませぬが」

 多米殿は、さらに一行書いた。

 随行衆、食えず。

「多米殿、それは要りますか」

「要ります」

「なぜです」

「帰り際に思いつかれると、誰が食えるかで揉めます。次からは、食える者と食えぬ者を分けねばなりませぬ」

 蘭丸は、何も言えなかった。

     ◇

 義信は、森家の反応を見て少し笑った。

「では、森家で試せ」

 長可は力強く頷いた。

「任せよ」

 可隆がすぐに言った。

「長可、お前は食う前に見る」

「分かっておる」

「分かっている者の顔ではない」

 可成は蘭丸へ言った。

「蘭丸、釜と大根の数を控えよ。イカは大きさを分ける。汁の濃さも三つ試す」

「父上まで控えを増やさないでください!」

 嶺松院は、その様子を見て、静かにため息をついた。

「江戸に残る方々は、楽しそうですね」

 義信は、ようやく少しだけ気まずそうにした。

「……吉田でも試させる」

「帰ってからでございますね」

「うむ」

 楓が言った。

「父上、次は先に教えてくださいませ」

「そうしよう」

 多米殿が、小さく書いた。

 御屋形様、次は先に教えると仰せ。

 蘭丸は、それを見て不安になった。

「多米殿」

「はい」

「守られますか」

「控えました」

「答えになっておりませぬ」

     ◇

 やがて、義信一行は江戸を発った。

 荷駄が動く。

 馬が進む。

 黒菱衆が道を開ける。

 嶺松院は、最後に江戸の店並みを振り返った。

 楓も、名残惜しそうに手を振った。

 三郎丸は焼きイカの匂いをもう一度嗅ごうとして、信智に戻された。

 信親は、江戸の荷道と蔵をじっと見ていた。

 朝比奈泰朝は、土俵と屋台を見て、小さく笑った。

 そして義信は、去り際まで江戸へ宿題を置いていった。

 天ぷら。

 イカ大根。

 江戸に残る者は、すぐに釜を出した。

 江戸を去る者は、振り返って釜を見た。

 長可は、すでに大根を覗き込んでいた。

「まだか」

 可隆が答える。

「まだだ」

「まだか」

「まだだ」

 可成が静かに言った。

「待つ飯もある」

 蘭丸は、釜の前で帳面を開いた。

 イカ大根試し煮。

 大根、先。

 イカ、後。

 鳥ジャガ汁、薄める。

 甘辛、三通り。

 森家、試作役。

 随行衆、食えず。

 御屋形様、帰り際に思いつく。

 蘭丸は最後の一行を見て、深く息を吐いた。

 江戸の飯は、見送り際まで油断ならぬ。

 そして、それを最初に食うのは、やはり森家なのであった。



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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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