第42帳 母娘、江戸を買う
焼きイカの匂いは、翌朝まで残っていた。
江戸だれの焦げた甘辛い匂い。
炭の匂い。
丸芋薄揚げの塩気。
南蛮芋蜜掛けの甘さ。
蘭丸は、朝から少し胸やけがしていた。
「多米殿」
「何でしょう」
「江戸の屋台は、少し強すぎませぬか」
「強いから人が止まります」
「止まりすぎております」
火元町の屋台通りには、すでに人が並んでいた。
義信一行が江戸へ来てから、店の者たちは張り切っていた。
昨日は土俵で朝比奈泰朝と森長可が立ち合い、その横で焼きイカが生まれた。
今日は、少し落ち着いて町を見るはずであった。
蘭丸は、そう願っていた。
だが、その願いは、嶺松院と楓の一言で崩れた。
「今日は、昨日見られなかった店を見ましょう」
「はい、母上!」
楓の声は、朝から弾んでいた。
蘭丸は、少し遠い目になった。
「多米殿」
「はい」
「これは、見物でございますよね」
「表向きは」
「表向き」
「奥向きの方々が店を見る時、それは買い付けに近うございます」
多米殿は、すでに帳面を開いていた。
奥向き土産控え。
蘭丸は、まだ何も始まっていないのに、疲れた。
◇
最初は、生地であった。
昨日も見たはずである。
だが、嶺松院は昨日より真剣だった。
信濃の厚手の布。
越後の青苧。
江戸で染め直した藍。
黒菱衆の羽織に使う黒地。
赤い武田菱の裂。
京物の細い絹。
堺を通った更紗めいた布。
楓は、更紗の小布を手にして目を輝かせた。
「母上、これは花が散っております」
「散っているのではなく、散らしているのです」
「きれいです」
「では、楓の小袖の袖裏に使いましょう」
蘭丸は、菱屋の者がほっとするのを見た。
だが、次の瞬間、嶺松院は別の布も手に取った。
「こちらは、三条の方様へ」
多米殿の筆が動いた。
三条の方様分。
「こちらは、濃乃殿に合いそうですね」
濃乃殿分。
「灯殿は越後の御縁もありますから、青苧のものを」
灯殿分。
蘭丸は、多米殿の帳面を覗いた。
「もう三方分に分かれております」
「奥向きの土産は、相手を間違えると揉めます」
「土産で揉めるのですか」
「土産だから揉めます」
嶺松院は、さらに侍女たちの分も選び始めた。
「これは吉田城の奥へ。これは駿府へ。これは信親殿の祝い返しに使えますね」
今川信親は、少し驚いたように言った。
「私の祝い返しにも、江戸の布を使うのですか」
義信が答えた。
「使える。駿府で元服した今川当主が、江戸の品を返す。道がつながる」
朝比奈泰朝が、静かに頷いた。
「今川の祝いに、江戸の品。面白き流れにございます」
多米殿は、新しい行を加えた。
今川信親様元服祝い返し候補。
蘭丸は言った。
「土産ではなく、政になっておりませぬか」
「奥向きの土産は、よく政になります」
◇
次は、南蛮物であった。
硝子の小瓶。
南蛮鏡。
色のついた玉。
香料。
小箱。
針。
鋏。
異国の文様が入った布。
小さな器。
砂糖を入れるための蓋付きの壺。
楓は、硝子の小瓶を両手で持った。
「母上、透けております」
「落としてはなりませんよ」
「水を入れたら、きれいでしょうか」
「花を一輪挿してもよいですね」
嶺松院の声は穏やかだった。
だが、選ぶ速さは穏やかではなかった。
「小瓶を三つ。いえ、五つ」
多米殿の筆が走る。
「鏡は、三条の方様へ。濃乃殿には小箱。灯殿には香を」
「はい」
「楓には、この小瓶を一つ」
「はい!」
「侍女たちには、針と小さな鋏を」
「はい」
蘭丸は、思わず声を上げた。
「多米殿、これは土産の量ではございませぬ」
「荷でございます」
「はっきり言いましたね」
「すでに荷でございます」
義信は、南蛮鏡を手に取っていた。
「鏡は、奥向きで喜ばれるか」
嶺松院が答えた。
「喜ばれます。ですが、一つだけでは揉めます」
義信は少し考えた。
「では、三つ買え」
蘭丸は頭を押さえた。
「御屋形様」
「何だ」
「増やせば揉めぬのでございますか」
嶺松院が静かに言った。
「増やしても揉めます。ですが、少ないよりはよろしゅうございます」
多米殿は、真顔で頷いた。
「奥向きの真理にございます」
蘭丸は、反論できなかった。
◇
三郎丸は、南蛮物より食べ物に興味があった。
丸芋薄揚げを食べ、南蛮芋蜜掛けを食べ、焼きイカを見つけて走りかけ、信智に止められた。
「三郎丸、走るな」
「兄上、焼きイカです」
「昨日食べた」
「今日も食べます」
信智は、表情を変えずに言った。
「まず母上の買い物が終わってからだ」
三郎丸は、少しだけ絶望した顔をした。
「終わるのでございますか」
蘭丸は小声で言った。
「よく分かっておられますね」
その間にも、楓は南蛮芋蜜掛けの包みを見ていた。
「母上、これは吉田へ持って帰れますか」
「持って帰れるように包ませましょう」
多米殿が即座に言った。
「蜜掛けは冷めると固くなります。包みを分け、箱に詰め、揺らさぬようにせねばなりませぬ」
「では、そのように」
「数は」
嶺松院は少し考えた。
「吉田城へ。駿府へ。古河へも」
蘭丸が聞き返した。
「古河へも、でございますか」
「公方奥方様がお好きなのでしょう」
「はい」
「ならば、江戸から古河へ送る分も要ります」
多米殿の筆が、また速くなった。
吉田城送り。
駿府送り。
古河公方江戸屋敷経由、古河御所送り。
蘭丸は、思わず言った。
「土産が、道を増やしております」
義信がそれを聞いて頷いた。
「そうだ。土産は道を通る。道を通れば、次の荷が生まれる」
「土産とは、そのようなものですか」
「よい土産は、次の注文になる」
多米殿が、嬉しそうではない顔で、嬉しそうな速さで書き加えた。
次注文見込み。
◇
やがて、店の前には荷が積み上がり始めた。
生地。
更紗。
小瓶。
鏡。
香。
針。
鋏。
小箱。
南蛮芋蜜掛け。
丸芋薄揚げ。
魚ずけ用の江戸だれ。
焼きイカ用の串とだれの試し包み。
蘭丸は、数を見て青くなった。
「これは、どう運ぶのですか」
多米殿は即答した。
「荷駄を組みます」
「お土産では」
「土産が増えると、荷駄になります」
「昨日も聞きました」
「本日は本当に荷駄にございます」
楓は、義信の袖を引いた。
「父上、町を見るとは、店を見ることなのですね」
義信は頷いた。
「そうだ」
「店を見るとは、買うことでもあるのですね」
義信は、少しだけ考えた。
「買わねば、店の力は分からぬ」
楓は満足そうに笑った。
「楽しいです」
蘭丸は、その言葉を聞いて、多米殿を見た。
「多米殿」
「はい」
「このお言葉、どこかで危なくなりませぬか」
「なります」
「やはり」
「御屋形様は、よかれと思っておられます」
「よかれが怖くなってきました」
◇
朝比奈泰朝は、積み上がった荷を眺めていた。
「駿府へ戻れば、奥の方々が驚きましょうな」
嶺松院は穏やかに笑った。
「驚くだけならよいのですが」
義信は、軽く首をかしげた。
「土産を買ったのだ。喜ぶであろう」
多米殿の筆が、一瞬だけ止まった。
蘭丸も止まった。
嶺松院は、少しだけ義信を見た。
「喜ばれましょう」
「ならばよい」
「ただし」
「ただし?」
「このような店があると先に聞いておりませぬ、と言われるやもしれませぬ」
義信は、少し黙った。
「……土産がある」
嶺松院は、それ以上何も言わなかった。
多米殿は、静かに帳面へ一行を加えた。
御屋形様、よかれと思う。
蘭丸は、それを見て、そっと目を逸らした。
◇
夕刻、吉田城へ送る荷駄が組まれた。
吉田城土産荷駄控え。
嶺松院様御選び分。
楓姫様御選び分。
三条の方様分。
濃乃殿分。
灯殿分。
吉田奥向き分。
駿府送り分。
古河御所送り分。
今川信親様元服祝い返し候補。
侍女衆分。
予備。
蘭丸は、最後の二文字を見た。
「予備」
多米殿は頷いた。
「奥向きに予備は要ります」
「なぜです」
「誰かの分だけ足りぬ時、国が傾くことがございます」
「大げさでは」
嶺松院が、遠くから静かに言った。
「大げさではありません」
蘭丸は、即座に頭を下げた。
「承知いたしました」
義信は、荷駄を見て満足げだった。
「よい。江戸の物が吉田へ入り、吉田の者が江戸を知る。次は吉田から何を返すかだ」
信親が言った。
「土産は、道を戻すのですね」
「そうだ。片道の荷は弱い。戻り荷があって、道は太くなる」
朝比奈泰朝は、深く頷いた。
「今川も、この道を見ねばなりませぬな」
蘭丸は、荷駄と帳面を見比べた。
母娘の買い物は、ただの買い物ではなかった。
生地は、好みを運ぶ。
南蛮物は、奥向きの話題を作る。
甘味は、古河へも駿府へも届く。
鏡や小箱は、次の注文を生む。
そして予備は、国を守る。
いや、最後は本当か分からない。
だが、嶺松院が言うなら、きっと本当なのだろう。
その夜、蘭丸は帳面を閉じながら呟いた。
「江戸は、また荷を増やしましたね」
多米殿は静かに答えた。
「はい。しかも、強い荷にございます」
「強い荷」
「奥向きが欲しがる荷です」
蘭丸は、吉田城へ向かう荷駄を想像した。
そして、それを受け取る三条の方、濃乃、灯の顔を想像しかけて、やめた。
考えない方がよいこともある。
江戸の店を見た母娘は、江戸を楽しんだ。
義信は、町を見るとは店を見ることだと教えた。
楓は、それを素直に覚えた。
それが後に、どのような言葉となって義信へ返るのか。
蘭丸は知らない。
ただ、多米殿の帳面に残された一行だけが、妙に不吉であった。
御屋形様、よかれと思う。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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