第41帳 なぜ焼きイカがない
翌日、義信一行は江戸の屋台を見て回ることになった。
蘭丸は、朝から不安だった。
昨日は、ただ生地を見ただけで、吉田城土産控えが厚くなった。
夜の膳では、魚の江戸だれ漬けがそのまま飯に乗り、魚ずけという新しい品が生まれた。
今日は屋台である。
丸芋薄揚げ。
南蛮芋蜜掛け。
江戸だれ揚げ。
鳥ジャガ。
蕎麦切り。
魚ずけ飯。
すでに危ないものが並んでいる。
蘭丸は多米殿に言った。
「今日は、何も増えぬとよいのですが」
多米殿は筆を持ったまま答えた。
「増えます」
「せめて否定してください」
「御屋形様が屋台を御覧になります」
「はい」
「増えます」
蘭丸は、深く息を吐いた。
◇
義信一行がまず足を止めたのは、屋台ではなかった。
相撲場である。
土俵の周りでは、人足たちが稽古をしていた。
奉納弓会、諏訪社囃子と行事が増えたことで、相撲場もすっかり江戸の見物場になっていた。
三郎丸は、土俵を見るなり目を輝かせた。
「父上、あれは何でございますか」
「相撲だ」
「投げるのですか」
「投げる。倒す。押し出す」
三郎丸は即座に長可を見た。
「長可殿は強そうです」
蘭丸は嫌な予感がした。
その時にはもう、長可は土俵の上にいた。
そして、なぜか朝比奈泰朝も土俵に上がっていた。
「なぜでございますか!」
蘭丸の声が響いた。
泰朝は、静かに上衣を整えた。
「今川家臣として、江戸の相撲を拝見しておりましたところ、長可殿より、立ち合うかと問われましてな」
長可は腕を組んでいた。
「朝比奈殿も、なかなかの腕だ」
泰朝の目が、少し鋭くなった。
「朝比奈義秀公を祖とする我が力比べで、負けるわけにはいかぬ」
蘭丸は、多米殿を見た。
「朝比奈殿、やる気でございます」
「はい」
「止めますか」
「御屋形様が見ておられます」
義信は、面白そうに土俵を見ていた。
止める気はなさそうだった。
信親も、泰朝を見ている。
朝比奈泰朝は、今川の重臣である。
その泰朝が、武田の黒菱衆と力比べをする。
これはただの遊びではない。
だが、長可がいる時点で、ただの政治にもならない。
◇
立ち合いは、思いのほか激しかった。
長可が前へ出る。
泰朝は受けた。
受けて、流した。
長可の足が少し動く。
見物人が沸いた。
「おお!」
蘭丸は目を見開いた。
「朝比奈殿、強い」
可隆も腕を組んで頷いた。
「腰が重い。力だけではないな」
長可は笑った。
「よい!」
泰朝も、わずかに笑った。
「まだまだ」
二人は再び組んだ。
長可は力で押す。
泰朝は腰を落とし、足を運び、土俵際で粘る。
黒菱衆が声を上げる。
今川の者たちも息を呑む。
三郎丸は完全に夢中になっていた。
楓は、嶺松院の袖を掴みながら見ている。
信智は静かに言った。
「朝比奈殿、戦場の体にございますね」
義信は頷いた。
「泰朝は、ただの城持ちではない」
信親は、少し誇らしげに泰朝を見た。
今川の家臣が、江戸の土俵で武田の猛将と渡り合っている。
それは、信親にとって悪い光景ではなかった。
◇
三度目の立ち合いで、泰朝が仕掛けた。
長可の押しを受け、わずかに身を沈める。
そして、長可の脇へ入ろうとした。
蘭丸は思わず息を止めた。
「入った」
その瞬間である。
土俵の外で、義信が屋台の方を見て言った。
「なぜ焼きイカがないのだ」
空気が、妙に止まった。
蘭丸は義信を見た。
「御屋形様?」
義信は真顔だった。
「魚はある。丸芋もある。南蛮芋もある。鳥もある。なぜイカがない」
その言葉に、長可が反応した。
組み合っていた長可の顔が、ぐいと義信の方を向く。
泰朝は、隙と見た。
そこへ入る。
だが、長可が義信を見るために動いた肩と腰が、ちょうど泰朝の仕掛けを外す形になった。
泰朝の手が空を切る。
足が出る。
土俵の外へ、一歩。
見物人が、あっと声を上げた。
泰朝は土俵際で止まった。
長可は、義信の方を向いたまま言った。
「イカを持ってこい!」
蘭丸は叫んだ。
「兄上! 勝負の最中でございます!」
可隆が頭を押さえた。
「長可……」
泰朝は、土俵の外でしばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。
「これは、参りましたな」
長可が振り返る。
「む」
泰朝は深く頭を下げた。
「長可殿の勝ちにござる。いや、焼きイカの勝ちかもしれませぬ」
義信は少しだけ笑った。
「すまんな、泰朝」
「いえ。今の仕掛けを外されたのは、私の未熟にございます」
蘭丸は思った。
そういう話なのだろうか。
◇
だが、勝負の余韻はすぐに屋台へ移った。
長可が叫んだからである。
「イカだ! イカを焼け!」
屋台の者たちが慌てた。
「イカはありますが」
「どう焼けば」
「丸のままでよいのか」
義信が歩いてきた。
「切れ目を入れよ」
料理番が頭を下げる。
「切れ目にございますか」
「身に細かく切れ目を入れる。火が入りやすく、だれが絡む」
「だれは」
「江戸だれを薄くして塗れ。焼きながら、また塗れ」
長可が即座に言った。
「すぐ持ってこい」
蘭丸は頭を抱えた。
「兄上、まだ作っておりませぬ!」
多米殿は、もう屋台控えを開いていた。
「江戸だれ焼きイカ」
「まだ名前まで」
「御屋形様が、焼けと仰せです」
火元町の者が炭を持ってくる。
船着き場の者がイカを運ぶ。
鍛冶町の者が、急いで薄刃の包丁を研ぐ。
包丁が入る。
イカの身に、細かな切れ目が走る。
串を打ち、炭火にかざす。
じゅう、と音がした。
そこへ江戸だれを塗る。
香りが、一気に立った。
甘く、辛く、焦げた匂い。
丸芋薄揚げとも、南蛮芋蜜掛けとも違う。
魚の揚げ物とも違う。
匂いだけで、人が寄ってきた。
「何だ」
「イカだ」
「江戸だれか」
「焦げた匂いがたまらぬ」
蘭丸は驚いた。
「匂いで人が集まっております」
多米殿は頷いた。
「これは土産には向きませぬ」
「なぜです」
「冷めれば固くなります。匂いも落ちます」
「では」
「その場で食わせる品にございます」
義信も同じことを言った。
「これは持ち帰るものではない。その場で食わせろ。匂いで人を止める品だ」
多米殿の筆が止まらない。
焼き場控え。
イカ切れ目控え。
串打ち控え。
煙の向き。
屋台火元定め。
その場食い向き。
◇
最初の焼きイカが、義信へ出された。
義信は一口食べる。
頷く。
「よい」
長可が手を出す。
可隆が止める。
「待て」
「なぜだ」
「御屋形様の次だ」
「匂いがしておる」
「匂いで順を破るな」
嶺松院にも小さく切ったものが出された。
嶺松院は一口食べ、少しだけ目を細めた。
「香ばしゅうございますね。ただ、少し強い」
義信が頷いた。
「奥向きには小さく切れ。だれは薄めでよい」
楓は興味津々だったが、嶺松院が言った。
「楓には、もっと小さく」
三郎丸は一口食べて、目を輝かせた。
「これは強い!」
信智は静かに食べた。
「屋台向きにございますね」
信親も頷いた。
「匂いで人を止める。父上の仰せが分かります」
朝比奈泰朝は、土俵から戻り、焼きイカを受け取った。
一口食べる。
「これは……負けた後に食うには、少々悔しい味ですな」
長可が笑った。
「ならば、もう一番やるか」
泰朝は笑って首を振った。
「次は、焼きイカのない時に願いたい」
蘭丸は小声で言った。
「焼きイカに敗れたような話になっておりますね」
「実際、そう見えました」
多米殿は真面目に答えた。
◇
屋台通りでは、すぐに焼きイカを求める声が増えた。
だが、多米殿は売り場を絞った。
「炭火を使う。煙が出る。だれが焦げる。どこでも焼かせてはなりませぬ」
屋台の者が言う。
「人が集まりますぞ」
「だからこそ、場所を決めます」
「たくさん売れます」
「たくさん燃えます」
火元町の者が大きく頷いた。
焼きイカは、火元町に近い屋台列でのみ焼く。
煙は風下へ逃がす。
江戸だれは薄める。
焦げた串は捨てず、まとめる。
生のイカと焼いたイカの台は分ける。
夜は売らない。
蘭丸は首をかしげた。
「夜は売らないのですか」
「火と煙と酒が重なります」
「危ないですね」
「はい。長可様も寄ります」
「それが一番危ないですね」
長可が遠くから言った。
「聞こえておるぞ!」
可隆が答えた。
「聞こえるように言っておる」
◇
夕刻、屋台の控えが整えられた。
江戸だれ焼きイカ控え。
イカは切れ目を入れること。
江戸だれは薄め、焼きながら塗ること。
煙の向きを見ること。
屋台火元を分けること。
生の台と焼き台を混ぜるべからず。
夜売りは当面禁ず。
土産には向かず、その場で食わせる品とする。
初例、御屋形様の「なぜイカがない」。
相撲勝負、焼きイカにより中断。
蘭丸は最後の行を見た。
「それは書かなくてもよいのでは」
多米殿は真面目に答えた。
「後で、なぜ始まったか分からなくなります」
「分からなくてもよい始まりもございます」
「いいえ。江戸では、騒ぎの始まりほど残します」
少し離れた土俵では、朝比奈泰朝が信親に頭を下げていた。
「御当主、面目なく」
信親は首を振った。
「泰朝が弱かったのではない。長可殿が変だったのだと思う」
蘭丸は、思わず笑いそうになった。
長可は焼きイカを食べていた。
「飯にも合う」
可隆が言った。
「お前は何でも飯に合わせる」
「合うものは合う」
義信は屋台通りを見ていた。
「土産になる品もあれば、その場で食わせる品もある。どちらも町には要る」
嶺松院は、南蛮芋蜜掛けの包みを見ながら頷いた。
「持ち帰るものと、ここで食べるもの。分けておかねばなりませぬね」
多米殿の筆が、また動いた。
持ち帰り向き。
その場食い向き。
奥向き向き。
番飯向き。
蘭丸は、焼きイカの匂いの中で思った。
江戸の屋台は、ただ腹を満たすだけではない。
匂いで人を止める。
音で人を呼ぶ。
土産で道をつなぐ。
その場で食わせ、また来させる。
そして時には、今川の重臣と黒菱衆の勝負すら、イカ一つで止めてしまう。
江戸は今日も、奇妙な形で発展していくのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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