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第40帳 今川信親、江戸へ入る

 古河公方義氏が江戸を発ったあと、町は少しだけ静かになった。

 だが、その静けさは長く続かなかった。

 吉田城からではない。

 駿府からの知らせである。

 駿府にて、武田義信の次男、次郎丸が元服した。

 今川氏親公の「親」の字を受け、今川家当主として、今川信親を名乗る。

 その報せを受けた時、森蘭丸はしばらく黙った。

「今川信親様」

 隣で多米殿が頷いた。

「はい。今川家の新しき御当主にございます」

「次郎丸様ではなく」

「今は、今川信親様にございます」

 蘭丸は、少しだけ背筋を伸ばした。

 武田義信の子である。

 だが、今は今川の名を背負う。

 その重さを、まだ幼い顔に載せて、江戸へ来るという。

 しかも、ひとりではない。

 義信。

 正室の嶺松院。

 嫡男の武田信智。

 三男の三郎丸。

 長女の楓。

 そして今川家臣、朝比奈泰朝。

 駿府で元服を終えた一行が、そのまま江戸へ向かっている。

 蘭丸は、江戸の控えを見た。

 菱屋。

 火元町。

 鍛冶町。

 宿町。

 江戸武田八幡。

 江戸諏訪社。

 願生坊。

 公方江戸屋敷。

 上杉家御逗留所。

 丸芋薄揚げ。

 南蛮芋蜜掛け。

 江戸諏訪社囃子。

「多米殿」

「何でしょう」

「片づけるものが、多すぎます」

「片づけませぬ」

「またそれでございますか」

「御屋形様には、江戸のままを見ていただきます」

 蘭丸は深く息を吐いた。

 江戸のまま。

 それは、つまり、騒がしいままということである。

     ◇

 義信一行が江戸へ入った時、黒菱衆は道を整え、町人は道端に下がった。

 武田信智は、まっすぐ前を見ていた。

 嫡男らしく、顔に余計な色がない。

 ただ、道、蔵、町番、荷の流れを見ている。

 三郎丸は、すぐに火元町から漂う匂いに反応した。

「兄上、何か揚げております」

 今川信親は、少しだけ笑った。

「江戸は、匂いが多いのですね」

 楓は、さらに別のものを見ていた。

 色である。

 店先に吊られた布。

 染められた端切れ。

 黒菱衆の黒い羽織。

 赤い武田菱。

 信濃から来た厚手の布。

 越後の青苧。

 京物の細い絹。

 堺を通った更紗めいた生地。

 楓の目が輝いた。

「母上、布がたくさんございます」

 嶺松院も、馬上から店先を見ていた。

「駿府とも、吉田とも違いますね」

 義信が頷く。

「江戸は、混ざる町だ」

 蘭丸は、その言葉を聞いて胸が鳴った。

 駿府は、積み重ねた町。

 吉田は、東海道と三河の口。

 江戸は、集め、混ぜ、流す町。

 朝比奈泰朝も、店並みを見ていた。

「駿府は、品の由緒が見えます。江戸は、品の行き先が見えますな」

 義信は、少しだけ笑った。

「だから、今川にも見せる」

 信親は、父を見た。

「今川に、でございますか」

「そうだ。駿府だけを見ていては、道は古くなる。駿府から江戸へ流し、江戸から駿府へ戻す。その流れを見よ」

 信親は静かに頭を下げた。

「承知いたしました」

     ◇

 最初に足を止めたのは、菱屋の生地見本であった。

 嶺松院が手に取ったのは、深い藍の布である。

「これは、どちらの」

 菱屋の者が頭を下げた。

「信濃より入った布を、江戸で染め直したものにございます」

「染め直し」

 嶺松院の目が少し細くなる。

「元の色を潰しているのではなく、深くしておりますね」

 菱屋の者が驚いた顔をした。

「お分かりにございますか」

「布は、見れば分かります」

 楓は更紗めいた小さな布に手を伸ばした。

「これは花がある」

「南蛮風の柄にございます」

「吉田へ持って帰れますか」

 蘭丸は、思わず多米殿を見た。

 多米殿は、もう帳面を開いていた。

「吉田城土産控え」

「早いですね」

「姫様が欲しいと仰せです」

 楓は義信を見た。

「父上、町を見るとは、店を見ることなのですね」

 義信は頷いた。

「そうだ。店を見れば、その町が何を欲し、何を作り、何を運べるかが分かる」

 楓は、ぱっと笑った。

「では、もっと見とうございます」

「見ておけ」

 蘭丸は、そのやり取りを聞いて、なぜか少し不安になった。

 多米殿が、小さく言った。

「御屋形様は、よかれと思っておられます」

「よかれ?」

「はい」

「何か不穏でございますね」

「よかれほど、後で揉めます」

 蘭丸は、その意味をまだ知らなかった。

     ◇

 生地見本は、見るだけでは済まなかった。

 嶺松院は、奥向きに使えるものを選ぶ。

 楓は、色の美しいものを選ぶ。

 侍女たちは、端切れに目を輝かせる。

 義信は止めなかった。

「買え」

 蘭丸は驚いた。

「よろしいのでございますか」

「町を見るのだ。買わねば、どの品が動くか分からぬ」

「なるほど」

「吉田へ持ち帰れば、吉田の奥が何を欲しがるかも分かる」

 多米殿は静かに筆を走らせた。

 生地見本帳。

 染め控え。

 仕立て待ち控え。

 吉田城土産控え。

 奥向き好み控え。

 朝比奈泰朝が、その控えを見て言った。

「これは、土産ではなく、商いの種にございますな」

 義信が頷いた。

「その通りだ」

 信親は、選ばれた布を見ていた。

「駿府にも染めと織りはございます」

「ある」

「では、江戸の布を駿府で売るのですか」

「違う。江戸で何が選ばれたかを、駿府へ持ち帰る。駿府の職人が、それを見て何を作るかだ」

 信親は、少し考えた。

「物だけでなく、好みを運ぶ」

 義信は目を細めた。

「分かってきたな」

 朝比奈泰朝は、深く頭を下げた。

「今川の町づくりにも、要りましょう」

     ◇

 その夜、義信一行には、江戸の膳が出された。

 魚の江戸だれ揚げ。

 鳥ジャガ。

 丸芋薄揚げ。

 南蛮芋蜜掛け。

 蕎麦切り。

 江戸だれ寄せ鍋。

 蘭丸は、膳を見て思った。

 江戸は、ずいぶん飯の多い町になった。

 義信は、魚の江戸だれ揚げを一口食べた。

 止まった。

 料理番の背筋が伸びる。

 義信は、静かに言った。

「良い魚じゃな」

 料理番はほっとした。

 だが、次の言葉で顔を固めた。

「揚げる前の、漬けたものを持ってこい」

「揚げる前にございますか」

「そうだ」

 蘭丸も思わず声を出した。

「御屋形様、揚げる前でございますぞ」

「持ってこい」

 やがて、魚を江戸だれに漬けたものが小皿で運ばれた。

 揚げる前である。

 火は通っていない。

 義信は、それを箸で取り、そのまま食べた。

 蘭丸の目が見開かれる。

「御屋形様?!」

 義信は、少し噛み、頷いた。

「ふむ。ずけだ」

「ずけ」

「飯に合う」

「御屋形様?! あう?」

「飯が進むということだ」

 その時、廊下の方から声がした。

「飯が進む」

 蘭丸は振り向いた。

「長可兄上、なぜ廊下に!」

 長可は、当然のように立っていた。

「匂いがした」

 可隆がその後ろから現れ、長可の肩を掴んだ。

「長可、膳の場を覗くな」

「飯が進むと言われた」

「言われてから来たのではない。来ていたのだ」

「……匂いがした」

 蘭丸は頭を抱えた。

 嶺松院は、少し笑っていた。

 信智は表情を変えず、しかし魚ずけを見ている。

 信親は、小皿の魚を見て言った。

「揚げる前にも、膳になるのですね」

 義信は頷いた。

「魚が良ければな。だが、何でもよいわけではない」

 多米殿は、すでに筆を取っていた。

 魚ずけ控え。

 生魚扱い控え。

 揚げ用と膳用を分けること。

 鮮度の良きもののみ用いること。

 江戸だれを濃くしすぎぬこと。

 飯と合わせること。

 蘭丸は、それを見て言った。

「また新しい飯が」

 多米殿は頷いた。

「御屋形様が食べられましたので」

「そこが初例なのですね」

「はい」

 長可が廊下から言った。

「俺にも出せ」

 可隆の拳が軽く長可の背に入った。

「後だ」

「兄上」

「後だ」

 義信は、魚ずけを飯に乗せた。

 そして、もう一口食べる。

「江戸湾の魚を、江戸の飯にする。悪くない」

 朝比奈泰朝が、静かに言った。

「駿府にも魚はございます。されど、江戸はまた違う魚を持ちますな」

「そうだ」

 義信は、信親を見た。

「駿府の魚、江戸の魚。駿府の布、江戸の布。違いを見ろ。違いを混ぜるな。だが、道でつなげ」

 信親は、深く頭を下げた。

「承知いたしました」

     ◇

 夜が更ける頃、蘭丸はその日の控えを見ていた。

 今川信親江戸入り。

 生地見本帳。

 吉田城土産控え。

 奥向き好み控え。

 魚ずけ控え。

 生魚扱い控え。

 到着した初日だけで、これである。

 蘭丸は、静かに呟いた。

「三日もいれば、荷駄になりますね」

 多米殿は、否定しなかった。

「なります」

「土産でございますよね」

「土産が増えると、荷になります」

「また名言のように言わないでください」

 外では、火元町の灯りがまだ揺れていた。

 明日は、屋台を見て回るという。

 義信は町を見るつもりでいる。

 嶺松院と楓は、店を見るつもりでいる。

 三郎丸は、食べるつもりでいる。

 長可は、なぜかすでに屋台の匂いを嗅いでいる。

 そして多米殿は、帳面を増やすつもりでいる。

 蘭丸は、深く息を吐いた。

 江戸はまた、御屋形様に見られながら、新しい騒ぎを生むことになりそうであった。




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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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