第39帳 江戸屋敷は御所にあらず
江戸の町は、少し賑やかになりすぎていた。
江戸武田八幡では、奉納弓会が生まれた。
江戸諏訪社では、太鼓奉納が囃子奉納になった。
火元町では、丸芋薄揚げと南蛮芋蜜掛けが売れ始めた。
願生坊では、施し粥の釜が据えられた。
そして、足利義氏の江戸屋敷には、人がよく来るようになった。
「公方様へ、那須より御礼にございます」
「公方様へ、江戸諏訪社御額の件にて」
「公方様御賞味の南蛮芋蜜掛け、次の納めを」
「公方様へ、相撲場の席について」
森蘭丸は、屋敷の門前に並ぶ者たちを見て、眉を寄せた。
「多米殿」
「何でしょう」
「ここは、いつから政務所になったのでございますか」
「政務所ではございませぬ」
「では、この列は」
「便利なところに、人は並びます」
「便利すぎるのでは」
多米殿は、少しだけ黙った。
「そろそろ、古河より文が来る頃にございます」
「え」
蘭丸が聞き返した時、まさにその文が届いた。
◇
古河御所からの文であった。
差出は、古河に残る公方家の留守居衆である。
文面は、丁寧だった。
丁寧だったが、怒っていた。
江戸の屋敷は、あくまで公方様御逗留の屋敷にございます。
古河御所を差し置き、諸家の御礼、献上、願い出が江戸へ集まるは、外聞よろしくございませぬ。
公方家の御政務、御礼、御判、諸家の伺いは、古河御所にて行われるべきものにございます。
江戸屋敷を御所と呼ぶこと、固く慎まれたく候。
蘭丸は、読み終えて顔を上げた。
「……怒っております」
多米殿は頷いた。
「怒っておりますね」
「江戸で公方様を使いすぎましたか」
「使いすぎました」
奥から、義氏の声がした。
「わしは使われておったのか」
蘭丸は慌てて頭を下げた。
「公方様」
義氏は扇を手に、少し不機嫌そうに歩いてきた。
「江戸へ来れば、相撲を見せられ、競りを見せられ、囃子を聞かされ、芋を食わされる。楽ではあるが、使われておると言われると腹が立つ」
多米殿は、静かに頭を下げた。
「使ったのではございませぬ。座っていただいておりました」
「余計悪いわ」
義氏は文を受け取り、しばらく読んだ。
そして、ふっと息を吐いた。
「古河の者が騒ぐのも、もっともだ」
蘭丸は少し驚いた。
「公方様」
「古河が御所だ。江戸は屋敷にすぎぬ。そこを曖昧にすれば、家中が揉める」
義氏は、軽く扇を閉じた。
「面倒だが、正しい」
◇
そこへ、吉田城から義信の文も届いた。
まるで、古河から苦情が来ることを見越していたかのような早さであった。
蘭丸は文を開いた。
古河は御所。
江戸は屋敷。
ここを混ぜるな。
公方家の礼は、古河へ通せ。
江戸では、取次と滞在の便を受けるに留めよ。
義氏公は、関東の顔である。
だが、顔が手足を兼ねれば、家中が裂ける。
顔は公方。
手は武田。
足は江戸の商人と町人。
荷は菱屋。
弱き者は願生坊。
口を分けよ。
席を分けよ。
礼と用向きを混ぜるな。
江戸が古河を呑む形にしてはならぬ。
古河を立て、江戸を動かせ。
蘭丸は、文を閉じた。
「御屋形様も、混ぜるな、と」
多米殿は頷いた。
「では、分けましょう」
「また分けるのですね」
「政治は、混ぜると揉めます」
◇
その日、江戸屋敷の表では、さっそく呼び方が改められた。
これまで、町の者たちは好き勝手に呼んでいた。
公方御座所。
江戸御所。
公方様の御所。
江戸の公方所。
多米殿は、それを一つずつ消していった。
「江戸御所ではございませぬ」
「では、何と」
「古河公方江戸屋敷」
「長うございます」
「長くてよろしゅうございます。間違えるよりましです」
蘭丸は苦笑した。
「町の者は、略しますよ」
「略すなら、公方江戸屋敷まで」
「御所は」
「禁じます」
義氏が横から言った。
「古河の者がまたうるさいからな」
蘭丸は頭を下げた。
「承知いたしました」
多米殿は、江戸屋敷表記定めと書いた。
江戸屋敷を御所と呼ぶべからず。
公方家の御礼、御判、正式の伺いは古河御所へ回すべし。
江戸屋敷では、滞在、見物、取次、江戸に関わる用向きに限るべし。
御賞味、御覧、御額などの名を勝手に商いへ使うべからず。
蘭丸は最後の一行を見た。
「御賞味も禁じるのですか」
「勝手には、でございます」
「つまり、許しを取れば」
「控えます」
「やはり残すのですね」
多米殿は真面目に頷いた。
「名は銭になります。だからこそ、勝手に使わせませぬ」
◇
次に、献上が分けられた。
古河御所へ送るもの。
江戸屋敷で受けるもの。
その場で返すもの。
菱屋へ回すもの。
武田取次所へ送るもの。
那須の使いが困った顔をした。
「では、我らの御礼は古河へ」
「公方家への正式な御礼は、古河御所へ」
多米殿が答える。
「ですが、奉納弓会の件は」
「江戸武田八幡の行事にございます。そちらは江戸で控えます」
「同じ公方様に関わるのに」
「同じにすると揉めます」
那須の使いは、しばらく考えて頷いた。
「分けて持参いたします」
小笠原の使いも来た。
「小笠原家は、武田家への礼で参っております」
「であれば、武田取次口へ」
「公方様へは」
「江戸屋敷にて御挨拶まで。正式な御礼は不要にございます」
蘭丸は、横で感心していた。
「多米殿、相手ごとに違うのですね」
「違う相手を同じ口へ入れるから揉めます」
「口を分ければ、揉めぬ」
「揉めにくくなります」
「なくなりはしないのですね」
「人がいる限り、なくなりませぬ」
◇
上杉家の扱いも、少し難しかった。
景勝は、まだ江戸に逗留している。
公方家の家臣ではない。
武田の家臣でもない。
関東諸家とも違う。
義氏は言った。
「上杉殿を、諸家の列に並べるわけにはいかぬ」
景勝は黙っていた。
兼続が静かに言った。
「景勝様は、客礼でよいと仰せにございます」
蘭丸は小声で言った。
「今、景勝様は何も仰せでは」
「お顔で」
「はい」
多米殿は頷いた。
「上杉家は、江戸逗留の客礼として別帳にいたします」
「別帳」
「公方礼にも、武田取次にも、関東諸家席次にも入れませぬ」
義氏は満足そうに頷いた。
「それならよい」
景勝も、わずかに頷いた。
兼続が言った。
「景勝様も、よいと仰せにございます」
蘭丸は、もう突っ込まなかった。
◇
だが、騒ぎの根は、商人にもあった。
丸芋薄揚げの売り場で、こんな声が上がっていた。
「公方様も召し上がった江戸の味!」
南蛮芋蜜掛けの店では、
「公方奥方様御好み!」
さらに別の者が、
「江戸御所御用!」
と口にした瞬間、多米殿の目が細くなった。
「江戸御所ではございませぬ」
商人は凍りついた。
「も、申し訳ございませぬ」
「御用も、勝手に名乗ってはなりませぬ」
「では、何と」
「公方江戸屋敷納め、許しを得た品のみ」
「長い」
「長くてよろしゅうございます」
蘭丸は同じ言葉を聞いた気がした。
多米殿は、御賞味名使用控えを作った。
公方様御賞味。
奥方様御好み。
公方江戸屋敷納め。
これらは、許しなく商いに用いるべからず。
初例、蜜掛けで調子に乗った者。
蘭丸は、最後の一行を見た。
「調子に乗った者」
「名は、人を調子に乗せます」
「確かに」
◇
夕刻、江戸屋敷の表で、義氏は帰り支度をした。
古河へ戻るのである。
古河御所から苦情が来た以上、一度戻らねばならない。
義氏は、不満そうではあった。
だが、逃げるような顔ではなかった。
「蘭丸」
「はっ」
「江戸屋敷を御所と呼ぶな」
「承知いたしました」
「古河の者がうるさい」
「はい」
「だが、屋敷は屋敷だ」
義氏は、江戸の町を見た。
「わしの場所であろう」
蘭丸は、少しだけ迷った。
そして、頭を下げた。
「はい。公方様の江戸屋敷にございます」
義氏は満足そうに頷いた。
「彼岸が明ければ、また来る」
蘭丸は顔を上げた。
「また、でございますか」
「姫が蜜掛けを所望しておる。それに、次の相撲も見ねばならぬ。奉納弓会も、諏訪社囃子も、勝手に進められては困る」
「ずいぶん多うございますね」
「江戸は退屈せぬ」
多米殿が横で筆を取った。
「古河戻り控え。彼岸明け再訪控え」
蘭丸は思わず言った。
「まだ戻ってもおられぬのに、再訪を控えるのですか」
「公方様は、もう来ると仰せです」
義氏は笑った。
「控えておけ」
「はっ」
◇
義氏の一行が江戸を発つと、町は少しだけ静かになった。
だが、それは寂しさではなかった。
場所が、定まったのである。
古河は御所。
江戸は屋敷。
公方家の礼は古河へ。
江戸の用向きは江戸で受ける。
上杉は客礼の別帳。
武田の用向きは武田取次口。
荷と商いは菱屋。
弱き者は願生坊。
蘭丸は、整理された控えを見て、息を吐いた。
「江戸が、また一つ面倒になりました」
多米殿は首を振った。
「逆にございます」
「逆」
「面倒を分けたので、動かしやすくなりました」
蘭丸は、江戸の通りを見た。
荷が動いている。
町人が歩いている。
黒菱衆が番に立っている。
火元町からは揚げ物の匂いがする。
諏訪社の方からは、まだ誰かが小さく太鼓を叩く音が聞こえた。
そこへ、早馬が来た。
黒菱衆が道を開ける。
使者は、森可成の前にひざまずいた。
「吉田城より御報せにございます」
蘭丸の胸が、少し鳴った。
使者は顔を上げた。
「御屋形様、江戸を御視察なさるとのこと」
多米殿の筆が、止まった。
蘭丸も、思わず息を呑んだ。
義氏が去った江戸へ、入れ替わるように武田義信が来る。
江戸屋敷は御所ではない。
古河は古河。
江戸は江戸。
では、武田義信は、この江戸を何と見るのか。
蘭丸は、整理したばかりの控えを見下ろした。
「多米殿」
「何でしょう」
「片づけるものが、多すぎます」
多米殿は、静かに答えた。
「片づけませぬ」
「え」
「御屋形様には、江戸のままを見ていただきます」
蘭丸は、江戸の町を見た。
飯と荷と銭と祈りと音と席次。
騒ぎを重ねて、ようやく形になり始めた町。
その町を、御屋形様が見る。
江戸は、また一つ、大きな目に晒されることになったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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