第38帳 太鼓だけとは言っておらぬ
江戸諏訪社の社殿も、ようやく形になった。
武田八幡が、兵と町番の誓いの社ならば、江戸諏訪社は、道と水と荷の無事を祈る社である。
井戸番。
馬子。
飛脚。
荷運び。
船着き場の者。
相撲場の者。
箱根駆け改めに関わる者。
その誰もが、ここで手を合わせることになった。
蘭丸は、社前に立ち、深く息を吸った。
「今度こそ、静かに済ませます」
多米殿が横で筆を止めた。
「武田八幡の奉納弓を思い出されましたか」
「忘れられるはずがございませぬ」
小笠原の奉納弓に、那須が名乗り出た。
さらに大島小四郎が出た。
長可が三番勝負と言い出した。
そして、奉納弓会が年中行事になった。
蘭丸は、同じ過ちを繰り返すつもりはなかった。
「今回は、あらかじめ参加する者を募ります」
「よろしいかと」
「太鼓奉納です。太鼓を打つ者だけです」
「はい」
「当日の乱入は禁じます」
「はい」
「兄上にも、絶対に余計なことを言わせませぬ」
多米殿は、少し間を置いた。
「そこが一番難しゅうございます」
◇
蘭丸は、太鼓奉納の参加を前もって募った。
甲斐衆の陣太鼓。
信濃衆の山太鼓。
越後衆の雪太鼓。
江戸宿町の桶太鼓。
船着き場の拍子太鼓。
相撲場の触れ太鼓。
参加する者の名を控える。
太鼓の大きさを控える。
打つ順を決める。
酒屋の屋台は遠ざける。
火を使う店は、諏訪社の境内へ入れない。
見物人の立つ場所も分ける。
そして、社前に大きく掲げた。
江戸諏訪社太鼓奉納。
当日乱入、固く禁ず。
太鼓以外、神前にて勝手に鳴らすべからず。
初例、武田八幡奉納弓の騒ぎ。
蘭丸は、最後の一行を見て頷いた。
「これでよし」
長可が横から読んだ。
「俺の名がない」
「兄上の名を入れると、逆に喜ぶでしょう」
「分かってきたではないか」
「褒められている気がしませぬ」
可隆が長可の襟を軽く掴んだ。
「長可。当日は見るだけだ」
「分かっておる」
「分かっている者は、その顔をしない」
◇
当日、江戸諏訪社の前は、人で埋まった。
太鼓奉納は、弓とは違う。
矢は飛ばない。
馬も走らない。
だから危なくない。
蘭丸は、そう思っていた。
最初は、よかった。
甲斐衆の陣太鼓が鳴る。
重い。
低い。
戦の始まりを思わせる音である。
次に、信濃衆の山太鼓。
こちらは拍子が跳ねる。
山道を歩く足のように、強く、短い。
越後衆の雪太鼓は、妙に間があった。
音と音の間が長い。
だが、その隙間に、雪の重さがある。
景勝は黙って聞いていた。
兼続が言った。
「景勝様は、間がよいと仰せにございます」
蘭丸は小声で答えた。
「まだ何も仰せではございませぬ」
「お顔で分かります」
「いつもながら、すごいですね」
ここまでは、予定通りであった。
◇
江戸宿町の桶太鼓が始まった時である。
桶を叩く音に、どこからか笛が混じった。
ぴい、と細い音が伸びる。
蘭丸の眉が動いた。
「笛?」
多米殿が控えを見た。
「参加控えには、笛はございませぬ」
「では、乱入ではありませぬか!」
蘭丸が声を上げる前に、宿町の女将が言った。
「太鼓だけでは、足が寂しゅうございまして」
「足が?」
「人が拍子を取れませぬ」
すると、別の場所から、また笛が鳴った。
船着き場の者が、荷運びの掛け声に合わせて手を叩く。
相撲場の者が、どん、と太鼓に合わせて足を踏む。
蘭丸は慌てた。
「止めますか」
多米殿は、じっと聞いていた。
「まだ、止めませぬ」
「なぜです」
「揉めておりませぬ」
「乱れてはおります!」
「乱れと賑わいの境を見ます」
蘭丸は嫌な汗をかいた。
その境は、たいてい長可が踏み越える。
◇
案の定、次に余計な音が混じった。
べん、と低い音がした。
蘭丸が振り向く。
見慣れぬ三弦の楽器を抱えた男が、宿町の端で音を出していた。
「今度は何でございますか!」
男は悪びれもせず言った。
「三味線めいたものにございます」
「めいたもの?」
「堺から流れてきた者が持っておりまして」
「参加控えにはございませぬ!」
「太鼓では足りぬかと」
べん。
べん。
笛が乗る。
太鼓が受ける。
手拍子が増える。
神官が青くなった。
「蘭丸殿、これは太鼓奉納では」
「分かっております!」
だが、見物人は喜んでいる。
子供が跳ねる。
馬子が足で拍子を取る。
飛脚が笑う。
上杉の者まで、静かに肩を揺らしている。
義氏は扇で拍子を取っていた。
「なかなかよいではないか」
蘭丸は絶望した。
「公方様まで」
◇
そして、最悪の時が来た。
長可が前へ出た。
太鼓を聞き、笛を聞き、三弦を聞き、腕を組む。
そして、大きく息を吸った。
「江戸の芋は、塩で鳴るううう!」
歌った。
神前で。
大声で。
一瞬、すべての音が止まった。
蘭丸は、目を閉じた。
「終わった」
次の瞬間、可隆の拳が長可の頭に落ちた。
ごん、という音がした。
太鼓より、よく響いた。
「痛え!」
「長可」
可隆の声は低かった。
「神前だ」
「歌っただけだ」
「奉納を壊した」
「俺も奉納した」
「歌を奉納する顔ではなかった」
森可成が、静かに立ち上がった。
長可の首根っこを掴む。
「父上」
「退くぞ」
「まだ終わっておりませぬ」
「お前は終わりだ」
そのまま、長可は可成に引きずられて退場した。
黒菱衆が道を開ける。
見物人は、必死に笑いをこらえた。
蘭丸は、深く頭を下げた。
「お騒がせいたしました」
神官は震える声で言った。
「い、いえ……今のも、神威にて収まりました」
「神威でしょうか」
「森可成様の威にございます」
「それはそうです」
◇
長可が退場すると、不思議なことに、音は整い始めた。
太鼓が拍子を戻す。
笛が短く入る。
三弦は、太鼓を邪魔せぬよう、間で鳴る。
宿町の者が手を叩く。
船着き場の者が掛け声を入れる。
相撲場の触れ太鼓が、最後に大きく鳴る。
景勝が、ぽつりと言った。
「よい」
兼続が深く頷いた。
「景勝様は、越後の雪太鼓だけでなく、江戸の拍子もまたよいと仰せにございます」
義氏は笑った。
「太鼓奉納ではなく、囃子ではないか」
多米殿が、そこで筆を取った。
「江戸諏訪社囃子」
蘭丸は振り向いた。
「多米殿」
「太鼓だけでは済みませぬでした」
「それを認めるのですか」
「認めぬと、来年また勝手に混じります」
「認めれば、混じらないのですか」
「順を決めれば、混じり方を選べます」
蘭丸は、妙に納得してしまった。
◇
夕刻、江戸諏訪社の前で、控えが改められた。
江戸諏訪社太鼓奉納改め、江戸諏訪社囃子奉納。
太鼓。
笛。
三弦。
手拍子。
掛け声。
神前にて鳴らすものは、前もって名を控えるべし。
太鼓の順を乱すべからず。
笛は太鼓を越すべからず。
三弦は神官の許しを得るべし。
歌は、詞を前もって見せるべし。
酒に酔うて歌うべからず。
森長可様、当面歌うべからず。
蘭丸は、最後の一行で吹き出しそうになった。
「当面」
多米殿は真面目に頷いた。
「永代にすると揉めます」
「当面なら揉めないのですか」
「可隆様と可成様が見張っておられます」
「それは確かに」
少し離れた場所で、長可は頭を押さえていた。
可隆が横に立っている。
「兄上、拳が重い」
「太鼓に勝ったな」
「褒めておらぬだろう」
「褒めてはいない」
可成は静かに言った。
「歌うなら、まず隊の声を揃えよ。己だけ前に出るな」
長可は渋々頷いた。
「……分かった」
蘭丸は、その様子を見て息を吐いた。
武田八幡では、奉納弓が勝負になった。
江戸諏訪社では、太鼓奉納が囃子になった。
止めようとしても、江戸の町は混ざる。
甲斐の太鼓。
信濃の太鼓。
越後の間。
江戸宿町の拍子。
船着き場の掛け声。
相撲場の触れ太鼓。
そして、余計な歌。
それらをただ禁じれば、騒ぎになる。
順を決めれば、祭になる。
江戸諏訪社には、こうして太鼓奉納ではなく、江戸諏訪社囃子という新しい行事が生まれた。
蘭丸は、控えを閉じながら呟いた。
「結局、また年中行事が増えましたね」
多米殿は静かに答えた。
「町が鳴り始めたということにございます」
社前には、まだ太鼓の余韻が残っていた。
江戸は、飯だけでなく、音でも人を集める町になろうとしていたのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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