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第37帳 塩をもっと、蜜をもっと

 関の職人を呼ぶ文が出されてから、江戸の揚げ場は少し変わった。

 まだ関鍛冶が来たわけではない。

 だが、江戸の鍛冶屋が包丁を研ぎ直し、柄を締め、刃を薄くしたことで、南蛮芋と丸芋は前よりずっと揃って切れるようになった。

 南蛮芋は、短冊に。

 丸芋は、薄い輪に。

 火元町の揚げ場では、朝から油の音がしていた。

 じゅう、と南蛮芋が沈む。

 かるく反りながら、色が変わる。

 丸芋の薄切りは、油の中で浮き上がった。

 端が少し波打ち、乾いた音を立てる。

 蘭丸は、その音を聞いて頷いた。

「薄く切れると、別物でございますね」

 多米殿も頷いた。

「はい。包丁が変われば、飯が変わります」

「飯が変わると」

「売り方も変わります」

 蘭丸は、嫌な予感がした。

     ◇

 まず、丸芋の薄揚げが出された。

 薄い。

 軽い。

 熱いうちに塩を振る。

 長可が一枚食べた。

 ぱり、と音がした。

「鳴る」

 もう一枚食べる。

「軽い」

 さらに一枚。

「飯ではない」

 蘭丸が言った。

「では、何でございますか」

「止まらぬものだ」

「それは危ない評価ですね」

 可隆も食べた。

「番飯には軽すぎるが、酒の横にはよいな」

 火元町の者が頷いた。

「酒屋が欲しがりましょう」

 多米殿の筆が動いた。

「丸芋薄揚げ。酒屋、相撲場、弓場、町番休み所へ回す」

 そこへ、上杉景勝が来た。

 景勝は、黙って丸芋薄揚げを一枚取った。

 食べる。

 もう一枚。

 さらに一枚。

 蘭丸は、兼続を見た。

「景勝様は、お気に召されたのでしょうか」

 兼続は景勝の横顔を見た。

「お気に召されております」

 景勝が、ぽつりと言った。

「塩」

 兼続が即座に頭を下げた。

「景勝様は、塩をもっとかけよと仰せにございます」

 蘭丸は目を丸くした。

「今の一文字から、そこまで」

「分かります」

 多米殿は、すぐに塩加減控えと書いた。

 薄塩。

 並塩。

 強塩。

 越後塩。

 蘭丸は思わず言った。

「塩だけで四つに分けるのですか」

 多米殿は真面目に頷いた。

「景勝様が、塩と仰せでしたので」

 兼続も頷いた。

「越後塩は、上杉家より回せましょう」

 蘭丸は、丸芋の薄揚げを見た。

 ただの芋が、越後の塩を呼んでいる。

     ◇

 次に、南蛮芋の短冊揚げが出された。

 こちらは丸芋より重い。

 外は軽く、内はほくりと甘い。

 そのままでも甘い。

 長可が食べた。

「これは飯にもなる」

 可隆が食べた。

「いや、菓子に近い」

 多米殿は、しばらく考えた。

「塩ではなく、蜜を試しましょう」

 蜂蜜を少し湯でのばす。

 黒い蜜も試す。

 南蛮糖を煮詰めた甘い汁も、ほんの少しだけ用意された。

 揚げた南蛮芋に、薄く蜜をかける。

 湯気に甘い匂いが混じった。

 蘭丸は、食べる前に分かった。

「これは、高くなりますね」

「はい」

 多米殿は嬉しそうではない顔で、嬉しそうな速さで筆を取った。

「奥向き納め候補」

 蘭丸はため息をついた。

     ◇

 その日の午後、足利義氏の御座所へ、試しの南蛮芋蜜掛けが届けられた。

 義氏の正妻が、一切れを箸で取る。

「これは……芋なのですか」

 蘭丸は頭を下げた。

「南蛮芋にございます」

「芋に蜜を」

「はい」

 正妻は、一口食べた。

 しばらく黙る。

 義氏が横から覗き込んだ。

「姫、どうだ」

 正妻は静かに言った。

「もっと甘味を」

 義氏が笑った。

「これはすでに十分甘いぞ」

「もっとです」

 蘭丸は、多米殿を見た。

 多米殿は、すでに書いていた。

 公方奥向き、甘味強め。

「多米殿」

「はい」

「早いですね」

「奥向きの好みは、逃してはなりませぬ」

 義氏は苦笑した。

「また値が上がるな」

 多米殿は静かに答えた。

「上がります」

「嬉しそうに言うな」

「畏れ入ります」

 正妻は、もう一切れ食べた。

「焦げていないものだけを」

 多米殿の筆が、さらに動いた。

 焦げ芋混ぜ禁制。

 蘭丸は思った。

 奥向きの一言は、町の定めになる。

     ◇

 問題は、すぐに起きた。

 蜜をかければ高く売れると聞いた者たちが、揚げ場へ集まり始めたのである。

「うちでも蜜掛けを売りたい」

「薄い蜜なら安く出せる」

「少し焦げた南蛮芋も、蜜を塗れば分からぬ」

 多米殿の目が細くなった。

「分かります」

「え」

「焦げは苦く、蜜は焦げを隠しませぬ。隠そうとすれば、さらに蜜を使い、値が崩れます」

 蘭丸は頷いた。

「では、どうしますか」

「分けます」

 多米殿は、揚げ場の板間に二本の線を引かせた。

 丸芋薄揚げは、数を出す売り場。

 南蛮芋蜜掛けは、奥向きと贈答の納め口。

「同じ芋揚げなのに、売る場所を分けるのですか」

「同じ油場から出ても、同じ品ではございませぬ」

「丸芋は庶民向け」

「はい。酒屋、相撲場、弓場、町番、宿町」

「南蛮芋は高級品」

「公方御座所、上杉御逗留所、贈答、祝いの席」

「なるほど」

 そこへ長可が来た。

「俺はどちらを食えばよい」

 可隆が即座に答えた。

「どちらも少しだ」

「兄上」

「薄揚げは止まらぬ。蜜掛けは高い」

「ならば薄揚げを多く」

「景勝様の分を食うな」

 景勝は、黙って丸芋薄揚げを食べていた。

 兼続が言った。

「景勝様は、塩をもう少し、と」

「また塩ですか」

「はい」

 多米殿は、強塩の横に、上杉好みと書き加えた。

     ◇

 夕刻、吉田城からの文を受けた返答として、多米殿は江戸の様子をまとめた。

 その返書と入れ違いに、さらに義信からの文が届いた。

 丸芋は、塩で数を売れ。

 南蛮芋は、蜜で値を取れ。

 同じ芋でも、売る相手を分けよ。

 腹を満たす物と、喜ばせる物は違う。

 混ぜるな。

 塩は日々の銭になる。

 蜜は祝いの銭になる。

 どちらも江戸の味にせよ。

 蘭丸は、文を読んで深く息を吐いた。

「御屋形様は、芋を二つに分けられましたね」

 多米殿は首を振った。

「いえ」

「違いますか」

「銭の取り方を二つに分けられました」

 蘭丸は、しばらく黙った。

「芋から銭の取り方まで」

「江戸は、そこまで来たということにございます」

     ◇

 その日の終わりに、揚げ場の控えが整えられた。

 丸芋薄揚げ売り場。

 薄塩、並塩、強塩、越後塩。

 酒屋、相撲場、弓場、町番休み所へ回すこと。

 南蛮芋蜜掛け納め口。

 蜂蜜、黒蜜、南蛮糖蜜。

 焦げ芋を混ぜるべからず。

 蜜壺は数を控えること。

 奥向き納めは、甘味の好みを別に控えること。

 贈答に用いる時は、冷めても崩れぬよう包みを分けること。

 最後に、多米殿はこう書いた。

 初例、景勝様の塩。

 初例、公方奥方の甘味。

 蘭丸は、その二行を見て笑った。

「景勝様と奥方様が、並んでおります」

「江戸の味を分けたお二方にございます」

「景勝様は一文字だけでしたが」

「十分にございます」

 景勝は、まだ薄揚げを食べていた。

「塩」

 兼続が頭を下げた。

「景勝様は、次は越後塩をさらに細かく砕いて試せと仰せにございます」

 正妻からは、御座所の女房が使いに来た。

「奥方様より、次は蜜を少し温かいまま、と」

 多米殿は、即座に二つの控えへ書き足した。

 蘭丸は空を見上げた。

 丸芋は、塩で人を止める。

 南蛮芋は、蜜で奥向きを喜ばせる。

 同じ芋でも、行き先が違えば、町の中で別の品になる。

 江戸はまた、飯から一つ、商いを分けた。

 そして蘭丸は、揚げ場の前にできつつある小さな店並みを見て思った。

 近いうちに、ここはきっと甘味屋になる。

 その時、長可が蜜掛けを一つつまんだ。

「これは強いな」

 可隆が即座に言った。

「長可、高い」

「一つだけだ」

「三つ目だ」

「……一つずつだ」

 蘭丸は笑った。

 江戸の芋は、塩と蜜で、また騒ぎを増やすことになったのである。



――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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