第35帳 弓と申したら那須でござる
江戸武田八幡の社殿が、ようやく形になった。
大きな社ではない。
だが、黒菱衆の本陣から近く、町番の者が集まりやすい高みに建てられている。
鳥居の前からは、江戸の荷道と宿町が見えた。
武田八幡は、兵と町番の誓いの社である。
槍を民へ向けぬこと。
酒に乱れぬこと。
火元を荒らさぬこと。
己の手柄より、町の無事を先に置くこと。
黒菱衆は、そこで誓うことになった。
森蘭丸は、社前に並ぶ黒菱衆を見て、少し背を伸ばした。
「ようやく、形になりましたね」
多米殿は、横で普請帳を閉じた。
「はい。ですが、建立は始まりにございます」
「始まり」
「社は建てただけでは、人は参りませぬ」
「また何か始まるのですね」
「すでに始まっております」
蘭丸は嫌な予感がした。
◇
建立式典には、足利義氏も来た。
上杉景勝も来た。
直江兼続も控えている。
森可成、森可隆、森長可も、黒菱衆を率いて並んだ。
そして、式典の目玉として呼ばれたのが、小笠原長時であった。
信濃守護の旧名門。
弓馬礼法に通じる家である。
長時は高齢であったため、座して式を見守る。
実際に弓を取るのは、子の小笠原貞慶であった。
神官が声を上げた。
「これより、江戸武田八幡建立の奉納弓を執り行いまする。小笠原家より、礼射を奉納いただきまする」
蘭丸は、ほっとした。
神前にふさわしい、静かな式になりそうだったからである。
だが、江戸で静かに済むものなど、あまりない。
◇
貞慶は、ゆっくりと前へ進んだ。
歩き方から違う。
弓を持つ手。
的を見る目。
矢を番える間。
すべてに無駄がない。
長可が小声で言った。
「遅い」
蘭丸は即座に肘で止めた。
「兄上、礼法でございます」
「戦なら、もう三本射てる」
可隆が静かに言った。
「長可。今日は神前だ」
「分かっておる」
「分かっている者の顔ではない」
貞慶が矢を放つ。
矢は、的の中央に吸い込まれるように刺さった。
見物人が、息を吐く。
派手ではない。
だが、美しい。
義氏が頷いた。
「小笠原の弓か。さすがに見事だな」
景勝は黙っていた。
兼続が言った。
「景勝様も、礼のある弓と見ておられます」
蘭丸は少し頷いた。
「それは、私にも分かります」
◇
そこで、列の後ろから声が上がった。
「お待ちくだされ!」
一人の若者が前へ出た。
那須資胤の嫡男、那須太郎資晴である。
若い。
だが、声には妙な自信があった。
「弓と申したら那須でございましょう。那須与一の末裔たる我らにも、射させていただきたい」
神官が慌てた。
「那須殿、これは建立の奉納にございまして」
「奉納ならば、なおさらでございます」
那須太郎は、まっすぐ小笠原貞慶を見た。
「小笠原の弓、見事にございます。されど、那須も弓の名を背負っております」
見物人がざわめいた。
蘭丸は頭を抱えた。
「多米殿」
「はい」
「これは揉めますね」
「はい」
「止めますか」
「止める前に、形を決めます」
「形」
多米殿は、奉納控えを開いた。
◇
その時、さらに別の声がした。
「那須殿までもが射られるのであれば」
黒菱衆の中から、若い武者が一歩出た。
大島光義の末子、大島小四郎である。
大島家は、弓にて武田へ仕える家であった。
小四郎は、深く頭を下げた。
「我が大島家は、弓にて武田にお仕え申しております。どうか、私にも参加させてくだされ」
神官の顔色が変わった。
「お待ちくだされ。小笠原様はご当主の名代、那須様は那須家の嫡男にござる。大島殿は……」
言いにくそうに、神官が口を閉じる。
身分が違う。
家の格が違う。
式典の場で、軽々しく並べてよい相手ではない。
その沈黙を破ったのは、長可だった。
「よい」
蘭丸は、心臓が跳ねた。
「兄上」
長可は大島小四郎を見た。
「黒菱衆の名代として出よ」
神官が慌てる。
「長可様!」
「黒菱衆に弓で仕えると言った。ならば射たせればよい」
可隆が、長可の肩を掴んだ。
「長可。神前だ。勝手に広げるな」
「弓を奉納するのだろう」
「そうだ」
「ならば、弓がある者は射ればよい」
可隆は少し黙った。
「筋は通っているのが厄介だ」
蘭丸は小声で言った。
「可隆兄上が負けました」
「負けてはいない。止め方を変える」
◇
長可は、社前を見回した。
「三番勝負じゃ!」
「兄上!」
蘭丸の声が響いた。
「建立式典でございます!」
神官も真っ青になった。
「勝負ではございませぬ! 奉納にございます!」
多米殿が、筆を止めずに言った。
「では、奉納立合にございます」
蘭丸は多米殿を見た。
「言い方を変えただけでは」
「神前では大事にございます」
可成が、静かに頷いた。
「勝負にするなら、軍法を立てよ。奉納にするなら、礼を崩すな」
多米殿は、奉納弓立合控えと書いた。
一番、定的。
二番、流鏑馬。
三番、早射ち。
小笠原は、礼法の弓。
那須は、名門の弓。
大島は、黒菱衆の実戦弓。
蘭丸は、控えを見て息を吐いた。
「こうなるのですね」
「こうなりました」
◇
一番は、定的である。
静かに立ち、的を射る。
小笠原貞慶は、美しかった。
構えに乱れがない。
矢を放つ前から、的へ道が通っているように見える。
放たれた矢は、中央へ入った。
那須太郎も射た。
力強い。
矢筋が鋭い。
少しだけ中央を外したが、見事な射であった。
大島小四郎は、さらに速く構えた。
実戦の弓である。
当てた。
だが、礼の美しさでは小笠原に及ばない。
可成が言った。
「一番は、小笠原」
誰も異を唱えなかった。
那須太郎は悔しそうにしながらも頭を下げた。
「見事にございます」
貞慶も頭を下げる。
「那須殿の矢も、鋭うございました」
◇
二番は、流鏑馬である。
馬場が整えられた。
黒菱衆町番が見物人を下げる。
外れ矢留めの役が置かれる。
馬を驚かせぬよう、屋台の火は遠ざけられた。
多米殿は、馬場控えを作っていた。
「多米殿、これも控えるのですか」
「馬が走る場所、矢が飛ぶ場所、人が見る場所。曖昧では死人が出ます」
「納得いたしました」
貞慶が馬に乗る。
馬上でも姿勢が崩れない。
一の的。
二の的。
三の的。
三本とも見事に射抜いた。
見物人が沸く。
那須太郎も馬に乗った。
礼法の滑らかさでは小笠原に及ばない。
だが、二の的で見事な矢を放ち、的を大きく揺らした。
「おお!」
声が上がる。
大島小四郎も走った。
馬上の弓は荒い。
だが、実戦で当てる執念がある。
三の的をかすめた。
長可が笑った。
「よい!」
可隆がすぐに言った。
「長可、声が大きい」
「当てたぞ」
「かすめたのだ」
「戦なら十分だ」
「奉納だ」
可成は、しばらく考えた。
「二番も、小笠原。されど那須、見事」
那須太郎は、唇を噛んだ。
だが、深く頭を下げた。
「承知」
◇
三番は、早射ちである。
ここで、場の空気が変わった。
小笠原の弓は、型を崩さない。
那須の弓は、名を背負って鋭い。
大島の弓は、戦場に近い。
的は三つ。
合図とともに、三本を射る。
神官は最後まで渋っていた。
「早射ちは、奉納としていかがなものか」
長可が言った。
「早くても当たれば奉納だ」
蘭丸は小声で言った。
「理屈が乱暴です」
可隆は言った。
「だが、武田八幡だ。戦場の弓も見せねば片手落ちだ」
蘭丸は驚いた。
「可隆兄上まで」
「止めるだけが役ではない」
合図が鳴った。
貞慶は速い。
速いが、型を崩さない。
一本、二本、三本。
すべて当てた。
那須太郎は、さらに鋭く射た。
一本目は中央。
二本目は少し外。
三本目は、早く、強く入った。
見物人が声を上げる。
最後に、大島小四郎。
構えは粗い。
だが、迷いがなかった。
一本。
二本。
三本。
音が重なるほど早かった。
三つの的に、すべて矢が立った。
場が静まった。
次に、黒菱衆が沸いた。
「大島!」
「小四郎!」
「黒菱の弓だ!」
長可が笑った。
「三番は大島!」
可成も頷いた。
「三番は、大島」
小四郎は、膝をついた。
「ありがたきことにございます」
那須太郎は、小四郎を見た。
少しだけ悔しそうだったが、やがて笑った。
「黒菱衆の弓、速い」
小四郎は頭を下げた。
「那須殿の矢は、重うございました」
貞慶も言った。
「三者、それぞれの弓にございますな」
小笠原長時が、そこで初めて口を開いた。
「弓は、家の名だけで射るものにあらず。型を守り、息を守り、的へ礼を尽くすもの。されど、戦場にて民を守る弓もまた、武家の弓である」
場が静まった。
那須太郎は深く頭を下げた。
「那須の名に驕っておりました」
大島小四郎も頭を下げた。
「黒菱衆の弓、まだ荒うございます」
長可が言った。
「ならば、来年もやればよい」
蘭丸は反射で叫んだ。
「兄上!」
だが、見物人が沸いた。
「来年も!」
「奉納弓だ!」
「那須と大島をまた見たい!」
「小笠原も!」
多米殿は、すでに奉納弓立合控えを閉じ、新しい帳面を開いていた。
「江戸武田八幡奉納弓会」
「多米殿!」
「来年も行うなら、会になります」
「早すぎます!」
「遅いくらいにございます」
◇
夕刻、江戸武田八幡の社前に、建立式典の控えが納められた。
江戸武田八幡奉納弓立合控え。
一番、定的。小笠原。
二番、流鏑馬。小笠原。那須、見事。
三番、早射ち。大島。
射手名簿。
的場控え。
馬場控え。
外れ矢留め役。
見物場所。
奉納品控え。
怪我人運び役。
そして、最後に小さく書かれた。
来年より、奉納弓会として執り行うこと、要検討。
蘭丸は、それを見て言った。
「要検討とありますが」
多米殿は頷いた。
「実質、決まりにございます」
「では、なぜ要検討と」
「神前なので、慎みを残しました」
「便利な慎みですね」
長可は満足そうだった。
「次は俺も射る」
可隆が即座に言った。
「長可、まず稽古だ」
「当てればよい」
「奉納だ」
「当てるのも奉納だ」
「雑に言うな」
蘭丸は、社前から江戸の町を見下ろした。
武田八幡は、兵と町番の誓いの社として建てられた。
だが、その初めの日に、弓の名門が射ち、那須与一の末裔が名乗り、黒菱衆の若者が早射ちで場を沸かせた。
礼法の弓。
名門の弓。
戦場の弓。
それらが、ひとつの社前に並んだ。
社は建てただけでは、人は集まらない。
だが、行事が生まれれば、人は来る。
人が来れば、町の暦になる。
こうして江戸武田八幡には、建立の日から、奉納弓会という新しい年中行事が生まれることになったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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