第34帳 七草、江戸を軽くする
正月の江戸は、重くなっていた。
南蛮芋飯。
鳥ジャガ。
江戸だれ揚げ。
江戸だれ寄せ鍋。
諸国初酒。
初相撲。
雪中陣立て。
一品競り。
食い、飲み、走り、投げ、競り、また食う。
その結果、宿町では腹を押さえる者が増えた。
「食いすぎた」
「飲みすぎた」
「鳥ジャガの汁を飯にかけすぎた」
「江戸だれ揚げを冷める前に食いすぎた」
森蘭丸は、その声を聞いて頭を抱えた。
「多米殿」
「何でしょう」
「江戸の者たちが、正月で膨れております」
「はい」
「これは、町としてよいのでしょうか」
「よくありません」
珍しく、多米殿は即答した。
「食いすぎた者は働きが鈍ります。飲みすぎた者は揉めます。油物が続けば、宿の飯も重くなります」
「では、どうしますか」
その時、吉田城から義信の文が届いた。
◇
文は短かった。
七草粥をやれ。
七つ揃わずともよい。
青きものを寄せ、粥にせよ。
正月で重くなった腹を軽くせよ。
大根葉、蕪葉、芹、なずな、はこべ、若菜、葱の青きところ。
土地にあるものを使え。
丸芋の芽、青きところは入れるな。
南蛮芋を入れるなら、甘くなりすぎぬよう少しにせよ。
願生坊にて、施し粥も行え。
飯は売るだけではない。軽くするためにも、分けるためにも使え。
蘭丸は、文を読み終えて頷いた。
「七草粥」
多米殿も頷いた。
「御屋形様は、暦を町に入れるおつもりです」
「正月の次は、七草でございますか」
「はい。食べる日まで揃えるのでしょう」
長可が横から言った。
「粥か」
「兄上、嫌そうですね」
「腹にたまらぬ」
可隆がすぐに言った。
「長可」
「何だ、兄上」
「お前は正月に食いすぎた」
「食える時に食う」
「だから粥だ」
長可は少し黙った。
「肉は入るか」
「入りませぬ!」
◇
青きもの集めは、思ったより難しかった。
江戸は冬である。
芹は少ない。
なずなも、探さねばならない。
はこべは見つかるが、泥を落とす手間がいる。
蕪葉、大根葉は宿町から集められる。
葱の青いところもある。
だが、七つにこだわると足りない。
宿町の女将が言った。
「七草と名乗るなら、七つ要りますか」
多米殿は首を振った。
「御屋形様は、七つ揃わずともよいと仰せです」
「では、名は」
「江戸七草粥」
「江戸」
「江戸で揃う若菜を使う粥です」
蘭丸は少し笑った。
「都の七草ではなく、江戸の七草ですね」
「はい」
そこへ、人足が丸芋の芽を持ってきた。
「これも青いぞ」
蘭丸は叫んだ。
「入れてはなりませぬ!」
長可も言った。
「芽は駄目だ」
人足は驚いた。
「長可様まで」
「食えなくなる」
可隆が頷いた。
「理由はともかく、正しい」
多米殿は、青物寄せ控えに大きく記した。
丸芋の芽、青きところ、粥に入れるべからず。
◇
願生坊では、初めての施し粥の準備が始まった。
まだ堂は仮である。
柱も新しい。
床も完全ではない。
だが、大きな釜を置く場所だけは先に整えられていた。
僧は、集まった青菜を見て手を合わせた。
「ありがたきことにございます」
宿町の女将たちが米を持ち寄る。
菱屋は割れ米を出す。
火元町は釜を貸す。
井戸番は水を運ぶ。
上杉家からは紙だけでなく、乾いた青菜の戻し方を知る者が来た。
直江兼続が言った。
「越後では、冬に青きものは貴重にございます」
上杉景勝は黙って釜を見ている。
蘭丸は少し慣れた。
「景勝様は、粥にも関心がございますか」
兼続は頷いた。
「酒の後に、よいとお考えにございます」
「それは分かりやすうございます」
粥が炊かれた。
米を柔らかく煮る。
塩を少し。
刻んだ青菜を最後に入れる。
江戸だれは入れない。
味噌も入れない。
鳥ジャガの汁も入れない。
那須白粉も入れない。
蘭丸は、逆に不安になった。
「多米殿、何も足さなくてよいのでございますか」
「今日は、足さぬための粥です」
「足さぬため」
「江戸はこのところ、何でも足しすぎました」
多米殿の言葉に、蘭丸は妙に納得した。
◇
長可が、最初に椀を受け取った。
一口食べる。
黙る。
もう一口食べる。
「弱い」
「兄上」
「だが、悪くない」
可隆が言った。
「それでよい。今日は弱い飯だ」
「弱い飯か」
「腹を休ませる飯だ」
長可は、少し考えてから粥を食べ続けた。
「ならば、もう一杯」
「休ませる気がないですね」
蘭丸が言うと、可隆が長可の椀を半分で止めた。
「長可、二杯目は半分だ」
「兄上」
「半分だ」
「……半分だ」
蘭丸は小声で言った。
「可隆兄上がいて本当に助かります」
願生坊の前では、旅人、人足、子供、年寄りが粥を受け取った。
商いではない。
だが、ただ投げ与えるのでもない。
誰に何杯出したか。
どの米を使ったか。
どの宿が青菜を出したか。
釜を誰が洗うか。
多米殿は、それを施し粥控えに記していた。
「多米殿」
「何でしょう」
「施しまで控えるのですね」
「続けるためにございます」
「続ける」
「一度だけなら勢いでできます。来年もやるなら、控えが要ります」
蘭丸は、願生坊の釜を見た。
湯気が、冬の空へ上がっている。
売る飯ではない。
だが、町を支える飯だった。
◇
夕刻、願生坊の前に小さな定めが置かれた。
江戸七草粥定め。
正月七日、江戸にある青きものを寄せ、粥とする。
七つ揃わずとも、腹を軽くするを本とす。
大根葉、蕪葉、芹、なずな、はこべ、若菜、葱の青きところ、用いるべし。
丸芋の芽、青きところ、決して入れるべからず。
南蛮芋は甘くなりすぎぬよう少しにすべし。
願生坊にて施し粥を行う時は、米、青菜、釜、水、人手を控えるべし。
粥に鳥ジャガ汁を足すべからず。
初例、正月食いすぎ。
蘭丸は最後の一行を見た。
「正月食いすぎ、でございますか」
多米殿は真面目に頷いた。
「原因を忘れてはなりませぬ」
「確かに」
長可は、少し離れて粥を食べていた。
「鳥ジャガ汁を足しても、うまいと思うが」
可隆が即座に言った。
「今日は足すな」
「兄上」
「足すな」
「……足さぬ」
蘭丸は笑った。
江戸は、足すことで大きくなってきた。
味噌にだれを足し、芋に飯を足し、肉に葱を足し、油に粉を足し、鍋に具を足した。
だが、足さぬ日も要る。
軽くする日。
休ませる日。
分ける日。
暦を町に入れるとは、ただ賑やかな行事を増やすことではない。
重くなった町を、ほどよく軽くする日を作ることでもある。
こうして江戸には、七草粥という静かな正月の行事が加わったのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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