第33帳 二社一坊、江戸に立つ
江戸には、飯が増えた。
南蛮芋飯。
鳥ジャガ。
江戸だれ揚げ。
江戸だれ寄せ鍋。
江戸には、見物も増えた。
相撲。
箱根駆け改め。
雪中陣立て。
一品競り。
人も増えた。
荷も増えた。
銭も増えた。
だが、森蘭丸は、ある朝ふと気づいた。
「多米殿」
「何でしょう」
「江戸には、人が手を合わせる場所が少なくございませぬか」
多米殿は、筆を止めた。
「寺社にございますか」
「はい。市も宿も酒場も相撲場もあります。けれど、正月だというのに、どこへ参るかで人がばらけております」
「なるほど」
「町が大きくなるなら、祈る場所も要るのでは」
多米殿は、しばらく黙った。
そして言った。
「御屋形様へ伺いましょう」
◇
吉田城からの返書は、思ったより早く来た。
義信の文は、いつもより長かった。
江戸に二社一坊を置け。
武田八幡は、兵と町番の誓いのため。
諏訪社は、道と水と荷の無事のため。
坊は、死者と弱き者のため。
市は銭で動く。
されど、銭だけで人は留まらぬ。
兵は誓う場を要する。
荷は無事を祈る場を要する。
町は、死者を弔い、弱き者を受ける場を要する。
坊については、顕如殿へ頼む。
ただし、本願寺の名を大きく掲げるな。
兵を集めるためではない。
念仏と葬送と施しのためである。
蘭丸は読み終え、顔を上げた。
「二社一坊」
多米殿は頷いた。
「武田八幡、諏訪社、江戸願生坊」
「もう名まで」
「坊の名は、表へ出しやすいものにいたします」
「本願寺とは掲げぬのですね」
「掲げれば、余計な者も寄ります」
「余計な者とは」
「銭ではなく、旗を見に来る者にございます」
蘭丸は納得した。
江戸に必要なのは、一揆の旗ではない。
町を鎮める場所である。
◇
まず、場所を決めることになった。
武田八幡は、黒菱衆の本陣に近い高みに置く。
黒菱衆の武具改め。
町番の誓い。
出陣の祈り。
乱暴をせぬという誓詞。
それらを納める場所である。
森可成は、絵図を見て頷いた。
「兵には、誓う場が要る。槍は持てても、心が荒れれば町を乱す」
長可が言った。
「誓えば強くなるか」
可隆が即座に答えた。
「誓えば、止まる理由ができる」
「俺を止めるためか」
「半分はそうだ」
蘭丸は小さく頷いた。
「可隆兄上、正直でございますね」
長可は不満そうだったが、可成の前なので黙った。
多米殿は、武田八幡普請帳と書いた。
◇
諏訪社は、水と道の近くに置くことになった。
井戸場へ近すぎず、荷道から外れすぎず、馬留めにも届く場所。
道中安全。
荷の無事。
井戸水の清め。
箱根駆け改めの出立祈願。
相撲の奉納。
雪中陣立ての勝負始め。
蘭丸は首をかしげた。
「諏訪社は、ずいぶん忙しゅうございますね」
「江戸の流れを受ける社にございます」
多米殿は答えた。
「水、道、荷、勝負。人が集まる口を一つ、神前で整えます」
そこへ、足利義氏が来た。
「諏訪社には、わしも額を出そう」
蘭丸は驚いた。
「公方様がでございますか」
「江戸にはわしの御座所もある。社が立つなら、知らぬ顔はできぬ」
多米殿の筆が動いた。
「公方様御額、寄進控え」
義氏は笑った。
「やはり控えるか」
「神前こそ、控えを曖昧にしてはなりませぬ」
「そなたらしい」
◇
最後が、坊だった。
名は、江戸願生坊。
本願寺の名は大きく掲げない。
だが、顕如の縁で僧を迎える。
旅人の葬送。
行き倒れの供養。
病人の看取り。
宿町の説法。
施し飯。
子供への読み書き。
帳面の初歩。
蘭丸は、思わず多米殿を見た。
「帳面の初歩まで」
「字を読める者が増えれば、騙される者が減ります」
「江戸らしい坊ですね」
「はい」
そこへ、直江兼続が静かに言った。
「景勝様は、越後から紙を寄進してもよいとお考えにございます」
蘭丸は、少し離れた景勝を見た。
景勝は黙っていた。
ただ、願生坊の予定地を見ている。
「紙ですか」
「はい。坊で手習いをするなら、紙が要りましょう」
多米殿は深く頭を下げた。
「ありがたきことにございます。上杉家紙寄進、寄進控えへ」
蘭丸は思った。
江戸に坊ができる。
そこへ越後の紙が入る。
荷と祈りが、またつながった。
◇
普請が始まると、当然のように揉めた。
「材木はどこへ回す」
「八幡が先だ」
「いや、諏訪社が先だ。水場に近い」
「坊が先だ。病人がいる」
「屋台は出してよいのか」
「普請人へ飯を出すならよいのか」
蘭丸は頭を抱えた。
「多米殿」
「何でしょう」
「神社と坊を建てるだけで、また町が揉めております」
「建てるだけではございませぬ。材木、人足、飯、寄進、日取り、すべて動きます」
「つまり」
「普請も町の流れにございます」
多米殿は、三つの控えを分けた。
武田八幡普請帳。
江戸諏訪社普請帳。
江戸願生坊普請帳。
さらに、寄進控え。
材木控え。
人足控え。
火元控え。
施し飯控え。
蘭丸は小さく言った。
「札ではなく、控えだらけですね」
「神仏の前では、声高に立てるものと、内に残すものを分けます」
「なるほど」
「ただし、揉める場所には立てます」
「やはり立てるのですね」
◇
長可は、武田八幡の予定地で腕を組んでいた。
「ここで武具改めか」
可成が頷く。
「そうだ。町番に立つ者は、ここで誓わせる」
「何を」
「槍を民へ向けぬこと。酒に乱れぬこと。火元を荒らさぬこと。己の手柄より、町の無事を先に置くこと」
長可は、少し顔をしかめた。
「戦ではないな」
「江戸では、それが戦だ」
可成の声は静かだった。
長可は黙った。
可隆が横で言った。
「長可、お前も誓え」
「俺もか」
「お前が誓わねば、下が誓わぬ」
長可はしばらく黙り、それから頷いた。
「ならば誓う」
蘭丸は、少し驚いた。
武田八幡は、黒菱衆を縛る場になる。
それは、ただの社ではなかった。
◇
一方、諏訪社の予定地では、井戸番と馬子と飛脚が集まっていた。
「ここで箱根駆けの出立祈願をするのか」
「越後口の荷もか」
「井戸水の初汲みもここでよいのか」
多米殿は頷いた。
「道と水と荷に関わる者は、ここで手を合わせればよろしゅうございます」
風魔が、いつの間にか社地の陰にいた。
「風魔殿も参るのですか」
蘭丸が聞く。
「道を見る者も、道の無事は祈る」
「意外と真面目でございますね」
「祈っておけば、失敗した時の言い訳が減る」
「やはり風魔殿でした」
◇
願生坊の予定地には、宿町の女将たちが来ていた。
「行き倒れを運ぶ先があるのは助かります」
「旅人の葬送も、宿だけでは重うございます」
「施し飯の日を決めていただければ、余り飯を回せます」
多米殿は、施し飯控えを開いた。
「余り飯ではなく、施し飯として出します」
「違いますか」
「違います。余り物を投げるのではなく、出す日と量と役を決めるのです」
蘭丸は静かに頷いた。
飯は商いにもなる。
だが、飯は施しにもなる。
江戸は、そこまで決めねばならない町になっていた。
◇
夕刻、三つの予定地に、それぞれ簡素な標が立った。
江戸武田八幡予定地。
兵と町番の誓い所。
江戸諏訪社予定地。
道、水、荷の無事を祈る所。
江戸願生坊予定地。
葬送、施し、手習いの所。
蘭丸は、その三つを順に見た。
「多米殿」
「何でしょう」
「江戸が、町らしくなってきましたね」
「はい」
「飯と荷と銭だけではなく」
「祈りと弔いと誓いも、町には要ります」
多米殿は、珍しく銭の話をしなかった。
少し離れたところで、義氏が諏訪社の額の寸法を尋ねていた。
景勝は、願生坊へ送る紙の量を兼続に伝えていた。
可成は、武田八幡の前で黒菱衆の並びを見ていた。
可隆は、長可が余計な大石を社地へ運び込まぬよう、肩を掴んで止めていた。
長可は言った。
「大きい方がよい」
可隆は答えた。
「社は石投げ場ではない」
「分かっておる」
「分かっている者の顔ではない」
蘭丸は笑いそうになった。
江戸には、また新しい場所ができる。
兵が誓う場所。
荷が祈る場所。
弱き者が休む場所。
市は銭で動く。
されど、銭だけで人は留まらぬ。
義信の文の言葉が、蘭丸の胸に残った。
こうして江戸には、二社一坊が立つことになったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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