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第32帳 一品物は競らせよ

 三日明けの初市は、思ったほど美しく始まらなかった。

「うちの荷こそ、今年最初に江戸へ入った荷だ」

「いや、町番所に名を記したのはこちらが先だ」

「夜明け前に菱屋の裏まで来ておった!」

「裏へ来た時点で怪しいではないか!」

 菱屋の前で、商人たちが言い合っている。

 森蘭丸は、その声を聞いただけで疲れた。

「多米殿」

「何でしょう」

「初荷で揉めております」

「はい」

「やはり、揉めましたね」

「初は揉めます」

「分かっていたのですね」

「はい」

 多米殿は、困った顔をしていなかった。

 むしろ、菱屋の奥蔵の方を見ている。

「では、初荷はどうするのでございますか」

「口ごとに初荷控えを分けます。東海道口、越後口、那須口、海路口」

「初荷が増えました」

「増やせば揉めませぬ」

「本当に?」

「少し揉めます」

 蘭丸はため息をついた。

「では、今日の初市は」

「目玉を作ります」

「目玉」

「初荷で揉めるなら、荷ではなく品で人を集めます」

     ◇

 菱屋の奥蔵から、箱が運び出された。

 唐硯。

 青磁の小鉢。

 南蛮硝子。

 更紗の布。

 香木。

 薬種。

 南蛮鏡。

 堺を経て来た異国鍋。

 小さな絡繰りじみた置物。

 どれも一つきりである。

 同じ品はない。

 商人たちの目の色が変わった。

「これは売るのか」

「いくらだ」

「いや、値が付けられぬ」

「公方様へ献上すべきでは」

「上杉様が欲しがるのでは」

 また声が大きくなる。

 多米殿は静かに言った。

「ならば、競らせます」

 蘭丸は首をかしげた。

「競らせる?」

「欲しい者が値を上げる。最後に一番高く言った者が取ります」

「それは揉めませぬか」

「揉める声を、値に変えます」

 蘭丸は、少し黙った。

 多米殿は、時々とんでもないことを言う。

 だが、妙に筋が通っている。

     ◇

 まず、目利き控えが作られた。

 品の名。

 由来。

 傷。

 欠け。

 色。

 大きさ。

 誰の荷から入ったか。

 菱屋が預かった日。

 多米殿は、ひとつひとつ手代に読ませた。

「傷を隠してはなりませぬ」

 商人が尋ねる。

「傷を言えば、値が下がるのでは」

「隠して後で揉めれば、次から値が立ちませぬ」

「なるほど」

「一品物は、信用も一品にございます」

 蘭丸は頷いた。

「値を上げる前に、信用を出すのですね」

「はい」

 その時、森長可が南蛮鏡を覗き込んだ。

「俺がいる」

 蘭丸は即座に答えた。

「鏡でございます」

「なぜ閉じ込めた」

「閉じ込めておりませぬ」

 長可は角度を変えて、また覗く。

「まだいる」

 森可隆が横から静かに言った。

「長可、鏡だ」

「兄上、分かっておる」

「分かっている者の顔ではない」

 多米殿の手代が、小さく目利き控えに書きかけた。

 南蛮鏡、長可様を映す。

 蘭丸は慌てて止めた。

「そこは控えなくてよろしい!」

     ◇

 足利義氏も、初市を見に来た。

 公方御座所からの御成りである。

「一品物を競らせると聞いた」

「はい」

 多米殿が頭を下げる。

「公方様には、まず御覧いただきたく」

「わしが買うわけではないぞ」

「御覧いただくだけで、品の格が上がります」

「また格か」

「はい」

「そなた、格を銭にすることばかり考えておるな」

「格は、銭にしなければ腐ります」

 義氏は一瞬黙り、それから笑った。

「面白いことを言う」

 少し遅れて、上杉景勝も来た。

 景勝は、黙って品を見た。

 青磁の小鉢では止まらない。

 更紗の布でも止まらない。

 南蛮鏡でも止まらない。

 だが、唐物の小さな酒器の前で足が止まった。

 直江兼続が静かに言う。

「景勝様は、あの酒器に関心がございます」

 蘭丸は頷いた。

「それは分かります」

「分かるようになられましたな」

「酒器ですから」

     ◇

 一品競りが始まった。

 多米殿が言う。

「競り声は、必ず手代が復唱します。聞き間違いは認めませぬ」

 手代が続ける。

「代を納めるまで、品は預かり蔵に置きます」

 別の手代が言う。

「公方様御覧品、上杉様御覧品を勝手に名乗ること、禁じます」

 商人たちは、真剣な顔で頷いた。

 最初は、青磁の小鉢だった。

「五十文!」

「百文!」

「百五十!」

「二百!」

 声が上がるたび、手代が復唱する。

「二百文」

「二百五十文」

「三百文」

 蘭丸は驚いた。

「ただの言い合いではないのですね」

「声を控えれば、商いになります」

 多米殿は静かに答えた。

 青磁の小鉢は、三百五十文で落ちた。

 手代が落札控えへ記す。

 品は、まだ渡さない。

 預かり蔵へ戻す。

「代を納めるまで渡さぬのですね」

「はい」

「信用していないのですか」

「信用するために、控えるのです」

     ◇

 次に、南蛮鏡が出た。

 商人たちより先に、長可がまた覗いた。

「やはりいる」

 可隆が肩を掴む。

「長可。競り品に触るな」

「見るだけだ」

「見るだけでも近い」

「兄上は細かい」

「お前が粗い」

 蘭丸は、小さく感謝した。

 可隆がいなければ、南蛮鏡は今頃、長可の手で裏表を分解されていたかもしれない。

 競りは荒れた。

「五百!」

「八百!」

「一貫!」

「一貫二百!」

 義氏が、少し身を乗り出した。

「高いな」

 多米殿が答える。

「珍しいものは、値を付けるより欲に聞いた方が高くなります」

「欲に聞くか」

「はい」

 南蛮鏡は、一貫五百文で落ちた。

 落とした商人は、顔を赤くしていた。

 蘭丸は不安になった。

「払えるのでしょうか」

 多米殿は平然と言った。

「払えねば、次点の者へ回します」

「そこまで決めているのですね」

「決めておかねば、競りは喧嘩になります」

     ◇

 最後に、唐物の酒器が出た。

 小さい。

 だが、形がよい。

 景勝の視線が、そこから動かない。

 兼続が小声で言った。

「景勝様」

 景勝は黙っている。

「お求めになりますか」

 景勝は、ほんの少し頷いた。

 蘭丸は、もう驚かなかった。

 競りが始まる。

「五百」

「七百」

「一貫」

 そこで兼続が静かに言った。

「二貫」

 場が静まった。

 酒器一つに二貫。

 商人たちは顔を見合わせた。

 義氏が笑う。

「上杉殿は静かだが、値は静かではないな」

 景勝は黙っていた。

 多米殿が手代へ頷く。

「二貫」

 手代が復唱する。

「二貫」

 それ以上の声は出なかった。

 唐物の酒器は、上杉景勝が落とした。

 ただし、品はすぐには渡されない。

 預かり蔵へ入る。

 兼続が尋ねた。

「すぐ持ち帰れませぬか」

「代を納め、落札控えへ印をいただいてからにございます」

 多米殿は頭を下げた。

「上杉様でもです」

 蘭丸はひやりとした。

 だが景勝は、静かに頷いた。

 兼続が言う。

「景勝様は、それでよいと仰せにございます」

 多米殿も頷いた。

「ありがとうございます。競りは、例外を作ると崩れます」

 義氏は、そのやり取りを見ていた。

「公方でもか」

 多米殿は頭を下げる。

「公方様には、御覧の格をいただきます。されど、買われる時は落札控えに」

 義氏は大笑いした。

「わしも帳面に入るか」

「はい」

「江戸とは恐ろしい町だな」

     ◇

 夕方、菱屋の前に新しい定めが出された。

 一品競り定め。

 唐物、南蛮物、珍品は、目利き控えへ記すべし。

 傷、欠け、由来を隠すべからず。

 競り声は手代が復唱すべし。

 最後の値は競り帳へ記すべし。

 代を納めるまで、品は預かり蔵に置くべし。

 公方様御覧品、上杉様御覧品を勝手に名乗るべからず。

 払えぬ者は、次点へ回すべし。

 蘭丸は、それを見て言った。

「多米殿」

「何でしょう」

「今回は、札というより、帳面と控えが主でございますね」

「一品物は、見せる前より、見せた後が大事にございます」

「見せた後」

「誰が見たか。誰が欲しがったか。いくらまで声が上がったか。払えたか。次に似た品が来た時、いくらから始めるか」

 多米殿は、競り帳を閉じた。

「珍しい物は、ただ売るだけではもったいない。人を集め、声を集め、値を覚えさせます」

 蘭丸は、菱屋の前を見る。

 商人たちは興奮していた。

 買えなかった者まで、次は何が出るのかと話している。

 初荷で揉めていた声は、いつの間にか競りの声に変わっていた。

 揉める声を、値に変える。

 江戸は、またひとつ妙な商いを覚えたのである。

 長可は、まだ南蛮鏡の方を見ていた。

「蘭丸」

「何でしょう」

「あれは本当に、俺を閉じ込めておらぬのか」

 可隆が即座に答えた。

「閉じ込めていない」

「ならよい」

 蘭丸は、兄二人を見て、少しだけ笑った。

 その横で、景勝は落とした酒器の入った預かり蔵を、黙って見ていた。

 兼続が言った。

「景勝様は、早く代を納めたいと仰せにございます」

 多米殿の筆が動いた。

 上杉様、酒器代納め急ぎ。

「そこまで控えるのですか!」

 初市の夕暮れに、蘭丸の声が響いた。

 こうして江戸では、初荷の揉め声から、一品物を競らせる新しい商いが始まったのであった。


――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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