第31帳 闇鍋にも具控えあり
江戸だれ揚げが生まれると、次に困ったのは宿町だった。
揚げたてはうまい。
だが、冷める。
端が出る。
鳥肉の切れ端が出る。
白身魚の崩れた身が出る。
越後塩引き鮭の端も残る。
丸芋も半端に余る。
南蛮芋も小さいものが残る。
宿町の女将たちは、それを捨てなかった。
鍋に入れた。
江戸だれを湯でのばし、鳥ジャガの残り汁を少し足す。
そこへ鳥の端、魚の端、塩引き鮭、丸芋、南蛮芋、葱、青菜を入れる。
足りなければ、崩れ蕎麦切りまで入れる。
冬の宿では、熱いものが喜ばれる。
最初は、ただの残り物鍋だった。
だが、酒場の客が言った。
「中身が分からぬ方が面白い」
その一言で、宿町は騒ぎになった。
◇
「闇鍋でございます」
宿町の女将が胸を張って言った。
森蘭丸は、鍋の前で固まった。
「闇」
「はい」
「中身を知らせぬのでございますか」
「食べてからのお楽しみにございます」
「それは、料理なのですか」
「酒の席では、よく笑いが起きます」
「笑いで済めばよいのですが」
森長可が横から椀を取った。
「食えば分かる」
「兄上!」
長可は一口食べた。
しばらく黙る。
「鳥だ」
もう一口。
「魚だ」
さらに一口。
「芋だ」
蘭丸は呆れた。
「食材当てではございませぬ」
「熱い。悪くない」
宿の客たちは喜んだ。
「長可様が悪くないと!」
「ならば売れる!」
蘭丸は多米殿を見た。
多米殿は、鍋ではなく、女将たちを見ていた。
「何を入れましたか」
「いろいろにございます」
「いろいろでは困ります」
「闇鍋でございますので」
多米殿は、静かに首を振った。
「闇は名だけでよろしゅうございます」
女将たちが黙った。
「腹を壊されては、宿が続きませぬ」
◇
問題は、すぐに見つかった。
ひとつの宿では、那須白粉を入れすぎて、鍋が妙に固まっていた。
別の宿では、塩引き鮭を入れすぎて、汁が辛くなっていた。
さらに別の宿では、丸芋の芽を取り残しかけていた。
それを見た蘭丸は青くなった。
「丸芋の芽は禁制でございます!」
「小さかったので」
「大きさの問題ではございませぬ!」
長可が鍋を覗き込んだ。
「芽を入れるな」
「兄上、珍しく正しいことを」
「腹を壊すと食えぬ」
「理由はいつも通りでした」
多米殿は、宿町の者を集めた。
「宿鍋定めを作ります」
「闇鍋ではなくなるのでは」
女将が不満そうに言う。
「客へすべて見せよとは申しませぬ」
「では」
「宿の内では、具控えを付けます」
「具控え」
「鳥、魚、塩引き、丸芋、南蛮芋、青菜、蕎麦切り、白粉。何を入れたか、台所では控えなさい」
蘭丸は頷いた。
「客には闇。宿では明かり」
「そうにございます」
「うまいことを言った顔をなさらないでください」
◇
多米殿は、さらに続けた。
「丸芋は、芽と青きところを必ず除く」
「はい」
「南蛮芋は、角切りか薄切り。生芋のまま客へ渡さぬ」
「はい」
「那須白粉は、汁を抱かせる程度。固めるほど入れぬ」
「はい」
「塩引き鮭は、酒か湯で少し戻す。辛すぎるものをそのまま入れぬ」
「はい」
「崩れ蕎麦切りは、最後に入れる。最初から煮れば溶けます」
「はい」
宿町の女将たちは、次々と頷いた。
蘭丸は思った。
この人たちは、叱られているのではない。
新しい飯の作り方を覚えている。
多米殿は、鍋そのものより、宿の台所を整えていた。
◇
その日の夕刻。
試しの鍋が作られた。
江戸だれを薄める。
鳥ジャガの残り汁を少し足す。
塩引き鮭の端を戻して入れる。
鳥の端を入れる。
丸芋は芽を取り、青きところを除いて入れる。
南蛮芋は小さく切る。
葱と青菜を足す。
最後に、那須白粉をほんの少し溶き入れる。
汁が、少しだけ重くなる。
長可が食べた。
「飯が要る」
蘭丸は即座に言った。
「もう聞き慣れました」
「だが、これは酒でもよい」
宿町の女将たちが顔を見合わせた。
酒にも飯にも合う。
それは、宿にとって強い。
直江兼続も椀を取った。
「越後塩引きが、よく合いますな」
少し離れていた上杉景勝が、黙って椀を受け取った。
一口食べる。
黙る。
二口目に進む。
兼続は頷いた。
「景勝様は、気に入られたようにございます」
蘭丸も、もう驚かなかった。
「二口目でございますね」
「はい」
◇
問題は、名だった。
宿の者たちは「闇鍋」と言いたがった。
多米殿は、少し考えた。
「宿の表では、江戸だれ寄せ鍋」
「闇鍋ではないのですか」
「奥の酒席で、余興として闇鍋を名乗るのは構いませぬ」
「表と奥で名を分けるのですね」
「はい。表に闇と出せば、怪しい。奥で闇と言えば、面白い」
蘭丸は感心した。
「言い方ひとつで、ずいぶん変わりますね」
「商いは、名で揉めます」
多米殿は、宿町の者へ向き直った。
「表は江戸だれ寄せ鍋。奥の座敷でだけ、闇鍋。だが、台所には必ず具控えを置くこと」
長可が言った。
「闇なのに、控えるのか」
「兄上もそう思われますか」
「闇なら分からぬ方がよい」
可隆が横から言った。
「長可」
「何だ、兄上」
「お前が食う分は、それでもよい。だが客に出すなら、宿が知っていなければならぬ」
「なぜだ」
「倒れた時に、何を食ったか分からぬ」
長可は少し考えた。
「それは困るな」
「止まりました」
蘭丸が小声で言う。
可隆は淡々と答えた。
「長可は、食えなくなる話には反応する」
◇
取次町の端に、控えめな立札が置かれた。
宿鍋定め。
江戸だれ寄せ鍋は、宿飯として出すべし。
奥座敷にて闇鍋と名乗ることは許す。
ただし、台所には具控えを置くべし。
丸芋の芽、青きところ、食用禁制。
那須白粉、入れすぎるべからず。
塩引き鮭は、辛きを戻して使うべし。
生肉、生魚を客任せに入れるべからず。
宿の火、宿飯札に従うべし。
蘭丸は、その立札を見て言った。
「多米殿」
「何でしょう」
「今回は、札が少ないですね」
「表に出すものだけでよろしゅうございます」
「では、具控えは」
「宿の台所に置きます」
「なるほど」
多米殿は静かに言った。
「何でも表へ出せばよいわけではございませぬ。客に見せるもの、宿が持つもの、町が改めるもの。それぞれ分けます」
蘭丸は、少しだけ多米殿の仕事が分かった気がした。
札を立てるだけではない。
名を分け、口を分け、控えを残し、騒ぎを飯に変える。
それが江戸の仕組みだった。
◇
夜になると、宿町から鍋の湯気が上がった。
表では、江戸だれ寄せ鍋。
奥では、闇鍋。
客は笑いながら椀を覗き込み、これは鳥だ、いや魚だ、芋だ、蕎麦だと言い合った。
だが台所では、女将がきちんと具控えを付けていた。
長可は、鍋を食べながら言った。
「闇でも、飯は要る」
蘭丸は答えた。
「もう驚きませぬ」
景勝は、塩引き鮭の入った鍋を静かに食べていた。
兼続が言った。
「景勝様は、越後でも試したいと」
「三口目ですものね」
蘭丸も、ついに景勝の沈黙を少し読めるようになっていた。
風魔が、梁の上から言った。
「次に何を入れる者が出るか」
「風魔殿」
「予測だ」
多米殿は、今度は立札ではなく、宿町控えに小さく記した。
闇鍋、具の逸脱に注意。
「多米殿!」
冬の江戸で、鍋は湯気を立てた。
余り物は捨てられず、汁に入り、飯になり、酒の肴になった。
闇は笑いになり、笑いは宿の客を留める。
そしてその闇の奥には、きちんと具控えが置かれることになったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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