第30帳 江戸だれ、油で鳴る
雪中陣立て改めの翌日、相撲場の脇には、まだ溶け残った雪があった。
だが、人の熱は冷めていない。
見物人は言う。
雪見南蛮芋飯がよかった。
鳥ジャガ汁で温まった。
越後酒も欲しい。
次は何を食わせる。
森蘭丸は、その声を聞いて嫌な予感がした。
「多米殿」
「何でしょう」
「皆、食べ物を待つようになっておりませぬか」
「はい」
「それはよいことなのでしょうか」
「銭になります」
「やはり、そこですね」
その時、吉田城から文が届いた。
差出は、義信である。
◇
多米殿は、菱屋の奥で文を開いた。
江戸だれに、肉や魚を漬けよ。
味が入ったら、那須白粉を薄くまぶし、油で揚げてみよ。
粉は厚くするな。
油は火を呼ぶ。
火元を分けよ。
揚げたてを出せ。
冷めたものは飯へ回せ。
油鍋に水をかけるな。砂を置け。
蘭丸は、最後の一行で目を止めた。
「油鍋に水をかけるな」
「御屋形様らしい仰せにございます」
「火事の心配ですね」
「はい」
長可が横から文を覗き込んだ。
「揚げるとは何だ」
「油で火を通すのでございましょう」
「焼くのと違うのか」
「違うようです」
「ならば、食う」
「まだ作っておりませぬ!」
多米殿は、すでに筆を取っていた。
「江戸だれ揚げ」
「もう名を付けたのですか」
「名がなければ売れませぬ」
◇
まず、材料が集められた。
鳥肉。
白身魚。
小魚。
そして、越後から来た塩引き鮭。
塩引き鮭は、越後より届いた鮭である。
塩で締め、寒風に当てたものだ。
そのままでも味は強いが、端の身は少し硬い。
多米殿は、その端を見て言った。
「これを使いましょう」
直江兼続が静かに頷いた。
「越後の塩引きが、江戸でどう化けるか。景勝様もご覧になりたいと存じます」
景勝は、少し離れて立っていた。
黙っている。
蘭丸は兼続を見た。
「今、景勝様は何も仰せでは」
「塩引きを見ておられます」
「それで分かるようになってしまいました」
塩引き鮭は、酒で少し戻された。
白身魚と鳥肉は、江戸だれに漬けられた。
江戸だれは、味噌、酒、干し魚のだし、少しの甘みを合わせたものだ。
濃すぎず、だが薄くもない。
味が入ったところで、那須白粉を薄くまぶす。
白い粉が、肉と魚にまとわりついた。
「多米殿、粉はこれだけでよいのですか」
「御屋形様は、薄くと仰せにございます」
「厚くした方が増えそうですが」
「油を吸いすぎます」
「なるほど」
油鍋が火にかけられた。
その横には、水桶ではなく、砂桶が置かれている。
蘭丸は、思わず確認した。
「水ではなく砂」
「はい。油火に水をかけてはならぬとの仰せです」
黒菱衆町番が、火元の周りに立った。
油の匂いが立つ。
江戸に、まだ慣れぬ匂いだった。
◇
最初に揚がったのは、小魚だった。
油から上げると、薄い衣が鳴った。
長可が食べる。
噛んだ。
目を細めた。
「外が鳴る」
蘭丸は首をかしげた。
「鳴る?」
「噛むと鳴る」
多米殿の筆が動いた。
江戸だれ揚げ。外が鳴る。長可様評。
「多米殿、そのまま札にするのですか!」
「分かりやすうございます」
次に、鳥肉。
江戸だれの味が入り、外は軽く、中は熱い。
長可は黙って二つ食べた。
「飯が要る」
「またそれですか」
「これは飯に乗せろ」
多米殿の筆がまた動いた。
江戸だれ揚げ飯。
「増えました!」
最後に、塩引き鮭。
塩気が強い。
だが、江戸だれと油で角が少し丸くなった。
景勝が箸を伸ばした。
一つ食べた。
黙っている。
もう一つ取った。
兼続が言った。
「景勝様は、越後塩引きの揚げをお気に召したようにございます」
「二つ目でございますね」
「はい」
「私にも分かりました」
景勝は、わずかに頷いた。
◇
問題は、すぐ起きた。
油の匂いを嗅ぎつけた屋台親父たちが、火元町へ集まったのである。
「うちでも揚げたい」
「小魚なら出せる」
「南蛮芋も薄く切って揚げれば売れる」
「丸芋もどうだ」
蘭丸は顔をしかめた。
「多米殿、これは広げてよいのでしょうか」
「すぐにはいけませぬ」
「油が高いからですか」
「それもあります」
「火事ですか」
「それが一番にございます」
多米殿は、屋台親父たちへ向き直った。
「江戸だれ揚げは、当面、火元町の揚げ場に限ります」
「屋台では駄目か」
「駄目です」
「なぜ」
「油は火を呼びます。水では消えませぬ。砂桶を置き、黒菱衆町番が立ち、油鍋を離して使う者だけ許します」
屋台親父たちは、不満そうだった。
だが、油鍋の音を聞き、揚がった小魚の匂いを嗅ぐと、黙った。
「札は」
ひとりが聞いた。
多米殿は、当然のように答えた。
「あります」
◇
その日の夕方、火元町に新しい札が立った。
江戸だれ揚げ定め。
肉、魚を江戸だれに漬け、那須白粉を薄くまぶし、油にて揚げるべし。
油火は火元町の揚げ場に限るべし。
水桶に頼るべからず。砂桶を置くべし。
古油を道へ捨てるべからず。
揚げたてを出すべし。
冷めたものは宿飯、番飯へ回すべし。
越後塩引き揚げ、上杉様御賞味。無断名乗り禁制。
長可様、油鍋を覗き込みすぎるべからず。
初例、御屋形様御文。
蘭丸は、最後から二行目を見た。
「兄上」
「何だ」
「また禁制に名が入りました」
「覗いただけだ」
「顔が近すぎたのでございます」
長可は少し不満そうに、揚げた鳥肉を食べた。
「外が鳴る」
「それはもう札になりました」
景勝は、越後塩引き揚げをもう一つ食べていた。
兼続が静かに言った。
「景勝様は、これを越後でも試したいと」
蘭丸は頷いた。
「分かります。三つ目ですから」
多米殿の筆が走った。
越後塩引き揚げ、越後口帰り荷候補。
「多米殿!」
油の匂いが、冬の江戸に広がっていく。
江戸だれに漬かり、那須白粉をまとい、油で鳴る。
肉も魚も、余り物の端さえ、別の飯へ化ける。
こうして江戸飯に、新しく揚げ物という火種が加わったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
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『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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