第29帳 雪玉にも軍法あり
江戸に、雪が降った。
深くはない。
だが、屋根を白くし、道の端に積もり、相撲場の土を隠すには十分だった。
朝から、子供たちが雪を丸めて投げ合っている。
人足も混じる。
酒屋の若い衆も混じる。
黒菱衆の若い者まで、少し笑っていた。
森蘭丸は、それを見て嫌な予感がした。
その予感は、すぐ当たった。
森長可が、雪を握った。
「黒菱衆でもやるぞ」
「兄上」
「何だ」
「正月早々、なぜ戦を始めるのですか」
「雪だ。死なぬ」
「死なねばよいというものではございませぬ!」
長可は、蘭丸の言葉を聞いていなかった。
「可隆兄上を呼べ。父上も呼べ」
「大ごとにする気ですね」
「部隊でやる」
蘭丸は天を仰いだ。
雪はまだ、静かに降っていた。
◇
森可隆は、話を聞くなり眉をひそめた。
「長可」
「何だ、兄上」
「雪玉にも加減がある」
「あるのか」
「ある」
「ならば決めればよい」
可隆は、深くため息をついた。
長可を止めるのは、昔から可隆の役目だった。
末の蘭丸が止めても、長可は聞かない。
多米殿が札にしても、長可は抜け道を探す。
だが、兄である可隆が正面から言えば、長可は少しだけ止まる。
少しだけ。
そこへ、森可成が来た。
黒い羽織の下に、赤い武田菱が見える。
可成は雪の相撲場を一目見て、長可を見た。
「長可」
「はい」
「遊びか」
「稽古です」
「ならば軍法を立てよ」
長可は笑った。
「父上も出るか」
「出る」
蘭丸は声を上げた。
「父上まで!」
可成は静かに言った。
「雪玉でも、隊が乱れれば負ける。雪壁でも、道を塞げば町が困る。遊びで兵を荒らすな。稽古で兵を整えよ」
多米殿が、いつの間にか帳面を開いていた。
「雪中陣立て改めにございますね」
「多米殿、早いです!」
「見物人が集まり始めております」
「そこですか!」
◇
三つの隊が組まれた。
可成隊。
可隆隊。
長可隊。
可成隊は、老練だった。
まず雪壁を作る。
道は塞がない。
相撲場の端を使い、退き口を残す。
雪玉を作る者、運ぶ者、投げる者を分ける。
可隆隊は、無駄が少なかった。
長可のように突っ込まない。
可成のように固まりすぎない。
小さな雪玉を多く作り、左右に散って、横から当てる。
そして、長可隊は、勢いだけだった。
「でかい方が強い」
長可は、人の頭ほどの雪玉を作っていた。
蘭丸は叫んだ。
「兄上! それは雪玉ではなく、雪の石でございます!」
可隆もすぐに歩み寄った。
「長可」
「何だ、兄上」
「それは雪玉ではない」
「雪だ」
「大きすぎる」
「当たれば勝つ」
「当たる前に味方が逃げる」
蘭丸は深く頷いた。
「可隆兄上、もっと言ってください」
可隆は、長可の手から大雪玉を取り上げようとした。
長可は少しだけ抵抗したが、可隆の顔を見て、仕方なく雪玉を地面へ落とした。
「ならば、少し小さくする」
「半分だ」
「三分の二」
「半分だ」
「……半分だ」
蘭丸は目を丸くした。
「止まりました」
可隆は淡々と言った。
「止まってはいない。少し曲げただけだ」
多米殿の筆が動いた。
長可様大雪玉、可隆様改めにより半分。
「多米殿、そこまで書くのですか!」
◇
上杉景勝も見に来た。
雪国の者である。
江戸の雪など、たいしたものではないのだろう。
景勝は黙って相撲場を見た。
直江兼続が言った。
「景勝様は、江戸の雪は軽いと仰せにございます」
「やはり仰せではないのですね」
蘭丸は、もう小声で返した。
景勝は、可成隊の雪壁を見て、わずかに頷いた。
兼続が続ける。
「景勝様は、可成殿の陣がよいと仰せにございます」
長可がそれを聞いた。
「ならば、越後組も入れ」
「兄上!」
可隆が長可の肩を掴んだ。
「長可。今日は黒菱衆の稽古だ」
「越後も雪には慣れておる」
「だからこそ、混ぜるな。負けた時に面倒になる」
「負けぬ」
「勝っても面倒になる」
長可は少し考えた。
「……ならば、次だ」
蘭丸は、また驚いた。
「可隆兄上、すごいですね」
「長可は、面倒という言葉には少し反応する」
「覚えておきます」
多米殿も書いた。
長可様、面倒にて一時停止。
「それは書かなくてよいです!」
◇
始まった。
まず、長可隊が突っ込んだ。
雪玉が飛ぶ。
大きい。
半分にしたはずなのに、まだ大きい。
だが、先ほどよりは投げられる。
可隆隊は正面から受けない。
左右へ散り、長可隊の横へ回る。
小さな雪玉が、黒い羽織に白い跡を残した。
「こそこそするな!」
長可が吠える。
可隆は涼しい顔で答えた。
「当たらなければ、こそこそでも勝ちだ」
「兄上らしくない!」
「お前に合わせているだけだ」
蘭丸は思わず呟いた。
「兄弟喧嘩に軍法が混じっております」
可成隊は動かない。
雪壁の陰から、確実に投げる。
前へ出すぎた長可隊を、横から抑える。
可隆隊が回り込む先にも、すでに雪玉が置いてある。
蘭丸は、思わず見入った。
「父上の隊は、崩れませぬね」
多米殿が頷いた。
「守りながら、道を残しております」
「道」
「雪壁で道を塞げば、町が困ります。可成様は、そこを見ておられます」
可成は声を張った。
「雪でも同じだ! 前へ出る者、戻る道を忘れるな!」
黒菱衆の若い者たちが、一斉に返事をした。
◇
勝負は、思ったより早く決まった。
長可隊は、最初の勢いで押した。
だが、雪玉が大きすぎて手が遅れた。
可隆隊は、よく回った。
だが、可成隊の雪壁を崩せなかった。
最後に、可成隊が一斉に雪玉を投げた。
長可の胸に三つ。
可隆の肩に二つ。
可成が言った。
「終わりだ」
長可は笑った。
「もう一度」
可成は即座に首を振った。
「反省が先だ」
可隆も雪を払いながら言った。
「長可、弾は大きければよいわけではない」
「次は、半分の雪玉を倍作る」
「それならまだよい」
蘭丸は驚いた。
「可隆兄上、それはよいのですか」
「投げられる大きさなら、訓練になる」
「なるほど」
「ただし、隊を置いて一人で前に出るな」
長可は、少し不満そうにした。
可隆は長可の顔を見たまま、続けた。
「お前が前に出ると、皆が付いてくる。付いて来た者の戻る道を、お前は見ておらぬ」
長可は、少しだけ黙った。
可成も言った。
「長可。己だけ動くな。隊を動かせ」
長可は、今度は素直に頭を下げた。
「分かりました」
蘭丸は、小さく息を吐いた。
父が大きく止め、兄が細かく止める。
それでようやく、長可は止まる。
ようやく、少しだけ。
◇
見物人は、大いに喜んだ。
屋台親父たちは、すぐに火を入れようとした。
「雪見南蛮芋飯だ!」
「雪見鳥ジャガ汁!」
「温かい酒も出すぞ!」
多米殿が手を上げた。
「見物札を持つ者のみ。火元札を改めた屋台のみ。酒は酒改め札を持つもののみ」
屋台親父たちは一瞬だけ黙り、それから札を取りに走った。
蘭丸は呆れた。
「雪合戦まで商いになりますか」
「人が集まれば、飯が要ります」
「それはそうですが」
「飯が要れば、火を改めます」
「そして札ですね」
「はい」
多米殿は、相撲場の横に新しい札を立てた。
黒菱衆雪中陣立て改め。
可成隊、可隆隊、長可隊、部隊対抗。
石入り雪玉、禁制。
氷玉、禁制。
顔面狙い、禁制。
雪壁にて道を塞ぐべからず。
見物札なき者、土手へ上がるべからず。
雪見屋台、火元札を持つべし。
長可様大雪玉、禁制。
長可様暴走、可隆様改めに従うべし。
初例、江戸正月大雪。
蘭丸は、最後から二行目を見た。
「可隆兄上」
「何だ、蘭丸」
「兄上のお役目まで札になりました」
可隆は、しばらく札を見た。
それから、静かに言った。
「間違ってはいない」
長可は不満そうに言った。
「俺は暴走しておらぬ」
蘭丸、可隆、多米殿の三人が、同時に長可を見た。
長可は少しだけ目を逸らした。
可成が笑った。
「よい。雪で分かることもある」
雪は、昼過ぎには溶け始めていた。
だが、黒菱衆の羽織に残った白い跡と、相撲場の横に立った札は、しばらく残った。
江戸では、正月の雪さえ、遊びでは終わらない。
雪玉は軍法になり、見物は札になり、屋台は飯になり、長可の大雪玉は禁制になる。
そして、可隆の名は新たに、長可を止める札にまで入ることになった。
こうして江戸の正月には、初相撲に続き、雪中陣立て改めまで加わったのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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