第28帳 初相撲、五呼吸
三日が明けた。
正月の大市は、まだ完全には戻っていない。
だが、江戸の相撲場だけは、朝から人で埋まり始めていた。
理由は、一つである。
初相撲。
いや、正しくは。
権六五呼吸。
いつの間にか、そちらの方が名になっていた。
森蘭丸は、相撲場の入口で札を見て、深く息を吐いた。
初相撲。
権六五呼吸。
見物札要。
屋台火元札要。
公方様御覧席あり。
上杉様御覧席あり。
長可様乱入禁制。
ただし取組は可。
「多米殿」
「何でしょう」
「兄上の乱入は禁制なのに、取組は可なのですか」
「禁じれば、乱入になります」
「許せば」
「取組になります」
「言葉の力が強すぎます」
多米殿は、平然と帳面を開いた。
「正月行事にするなら、先に枠を作らねばなりませぬ」
「行事にする気ですね」
「もう人が集まっております」
「集まってから決めるのではなく、集まる前に止めたいのですが」
「止まりませぬ」
蘭丸は否定できなかった。
◇
足利義氏は、江戸御座所から見物に来た。
御正室様と御側室方は、奥向き席である。
相撲場に御座所から直行するため、黒菱衆町番が道を分けた。
「正月から相撲を見る公方か」
義氏は笑って言った。
多米殿が頭を下げる。
「公方様御覧により、初相撲の格が上がります」
「また格か」
「はい。格は銭になります」
「そなたは年が明けても変わらぬな」
「正月も帳面に入っておりますので」
義氏は呆れたように笑った。
少し遅れて、上杉景勝も来た。
景勝は、黙って見物席に座った。
直江兼続が、静かに言う。
「景勝様は、権六殿の五呼吸に関心がございます」
蘭丸は頷いた。
「それは私にも分かります。昨日から、相撲場の方をご覧になっておられました」
「お分かりになりましたか」
「少しだけ」
景勝は、黙って盃を受け取った。
初酒である。
蘭丸は嫌な予感がした。
◇
土俵の脇では、権六が正座していた。
人足たちが、妙に真剣な顔でその背を見ている。
「権六」
蘭丸が声をかける。
「本当にやるのでございますか」
「はい」
「勝つつもりは」
「ございませぬ」
「言い切りましたね」
「今年は、五呼吸でございます」
権六は、真面目だった。
「前は四呼吸もちました。長可様が、次は五だと仰せでした。ならば、五呼吸もてば、今年の務めは果たせます」
「勝敗ではないのですね」
「相手が長可様でございますから」
蘭丸は何も言えなかった。
そこへ長可が来た。
「権六」
「はい」
「五でよいのか」
「はい」
「六を狙え」
「来年にございます」
「そうか」
長可は満足げに頷いた。
蘭丸は、二人の会話が成立していることに、少し恐怖を覚えた。
◇
初相撲は、まず町の力自慢から始まった。
人足と馬子。
黒菱衆の若い者と飛脚。
酒屋の大男と宿屋の下働き。
勝つ者もいれば、転がる者もいる。
だが、今回は無秩序ではなかった。
見物札がある。
屋台札がある。
怪我人運び役がいる。
水桶がある。
黒菱衆町番が土俵の周りに立つ。
多米殿は、淡々と記録した。
「力自慢名簿、更新」
「見物札、売れ行き良し」
「屋台、火元札不足二つ」
「怪我人、擦り傷三」
「多米殿」
蘭丸が言った。
「これは相撲ですか、改めですか」
「両方にございます」
「でしょうね」
義氏は、見物席で笑っていた。
「江戸は、何でも札にするな」
兼続が静かに言った。
「ですが、揉めませぬ」
義氏は頷いた。
「そこが厄介だ。筋が通っておる」
景勝は黙っていた。
盃だけが、静かに進んでいた。
◇
そして、権六の番が来た。
相撲場が、静かになった。
権六が土俵に上がる。
長可も上がる。
体の大きさだけなら、権六も負けていない。
だが、場に立った時の圧が違った。
長可は笑っている。
権六は真剣である。
多米殿が手を上げた。
「初相撲大取。長可様、権六。殴打、噛みつき、刀、鍋、酒樽の使用を禁じます」
義氏が眉を上げた。
「酒樽?」
蘭丸は目を伏せた。
「念のためにございます」
景勝の盃が、そこで止まった。
兼続が言った。
「景勝様も、そこは気になったようにございます」
多米殿の手が下りた。
「始め」
権六が当たった。
一呼吸。
土俵が鳴った。
二呼吸。
権六の足が、土を噛む。
三呼吸。
見物人が息を呑む。
四呼吸。
人足たちが拳を握る。
長可の腰が沈んだ。
蘭丸は、思わず声を上げそうになった。
五呼吸。
もった。
次の瞬間、権六の体が浮いた。
大きな体が土俵の外へ転がる。
負けた。
だが、相撲場は沸いた。
「五だ!」
「五呼吸もったぞ!」
「権六!」
権六は、すぐに起き上がった。
土を払い、膝をつく。
「五呼吸、もちました」
長可は笑った。
「よい」
それだけだった。
だが、権六は嬉しそうに頭を下げた。
義氏は手を叩いた。
「勝っておらぬのに、勝ったようだな」
兼続が言った。
「景勝様も、同じことを思っておられます」
景勝は黙っていた。
ただし、止まっていた盃が、また進んだ。
◇
相撲が終わると、屋台が動き始めた。
ただし、勝手には売らせない。
正月屋台札を持つ者だけである。
南蛮芋蒸し餅。
南蛮芋飯。
鳥ジャガ残り汁飯。
辛味噌大根。
初酒は札付きのみ。
権六の周りには、人足たちが集まった。
「五呼吸だ」
「来年は六だな」
「いや、今年中にもう一度」
権六は首を振った。
「初相撲は年に一度でございます」
蘭丸は驚いた。
「権六、よく分かっておりますね」
「多米殿に言われました」
「やはり」
多米殿は、すでに札を書いていた。
初相撲。
正月三日明けに行うべし。
力自慢は名簿に記すべし。
見物札、屋台札、火元札を持つべし。
怪我人運び役を置くべし。
公方様御覧席、上杉様御覧席を設けるべし。
長可様乱入禁制。
権六五呼吸、来年六呼吸予定。
蘭丸は最後の一行を見て、すぐに声を上げた。
「予定にしないでください!」
長可は頷いた。
「来年は六だ」
権六も頷いた。
「はい」
「二人とも納得しないでください!」
義氏は笑っていた。
「来年も見るか」
多米殿の筆が動く。
公方様、来年御覧見込み。
「多米殿!」
兼続が静かに言った。
「景勝様も、来年の六呼吸に関心がございます」
「上杉様は越後へお戻りになるのでは!」
「雪次第にございます」
景勝は、黙って盃を置いた。
それが肯定なのか否定なのか、蘭丸には分からなかった。
◇
夕刻。
相撲場の土は踏み固められ、見物席にはまだ人の熱が残っていた。
蘭丸は、土俵の前に立つ札を見た。
初相撲。
それは、ただの力比べではなかった。
正月に人が集まる。
公方様が見る。
上杉様が見る。
人足が名を上げる。
屋台が売る。
町番が守る。
怪我人を運ぶ者がいる。
そして、来年の話まで始まる。
暦に入るとは、こういうことなのだろう。
一度きりの騒ぎが、来年も行うものになる。
来年も行うなら、札がいる。
札があれば、帳面に残る。
帳面に残れば、町の行事になる。
多米殿が言った。
「蘭丸殿」
「何でしょう」
「初相撲帳を作ります」
「もう作っているではございませぬか」
「これは初回です。来年から比べねばなりませぬ」
「比べるのですか」
「五呼吸が六になるかどうか」
蘭丸は空を見上げた。
正月早々、来年の心配をしている。
江戸とは、そういう町になってしまった。
土俵の向こうで、権六が長可に頭を下げていた。
「来年は六呼吸、もちます」
長可は笑った。
「よい」
風魔が、どこからともなく言った。
「六で済むか」
「風魔殿」
「予測だ」
多米殿の筆が動いた。
権六六呼吸、予測札、厳重調査。
「多米殿!」
蘭丸の声が、正月の江戸に響いた。
こうして江戸では、年明けの初相撲までもが、暦と帳面に入ることになったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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