第27帳 正月も帳面に入る
年が明けた。
江戸にも、正月が来た。
だが、江戸の正月は静かではなかった。
夜明け前から、菱屋の前には商人が集まっていた。
宿町では女将たちが釜に火を入れようとしている。
酒蔵町では、初酒の札を求める者が列を作る。
火元町では、南蛮芋を蒸そうとした屋台親父が、黒菱衆町番に止められていた。
「正月だからこそ売れるのだ!」
「正月だから大市は閉じるのだ!」
「初蒸かし南蛮芋だぞ!」
「勝手に初を名乗るな!」
森蘭丸は、元日の朝から走っていた。
「多米殿!」
「何でしょう」
「年が明けたのに、昨日より揉めております!」
「正月ですので」
「正月とは、揉める日でございましたか」
「勝手に始めたがる日でございます」
多米殿は、新年帳を開いていた。
昨日閉じた旧年帳とは違う。
白い紙が多い。
それだけで蘭丸は嫌な予感がした。
「多米殿」
「はい」
「その帳面は、すぐ埋まりますね」
「はい」
「即答しないでください」
◇
吉田城から、年始の文が届いた。
義信の文は、短かった。
暦を町に入れよ。
朔日を揃え、初荷を揃え、初市を揃えよ。
同じ日に休み、同じ日に祝えば、人は同じ時に動く。
同じ時に動けば、荷も銭も帳面に入る。
正月三日は、大市を閉じよ。
ただし、宿、井戸、火元、町番、急使は止めるな。
初を勝手に名乗らせるな。
初荷、初酒、初膳、初市、すべて札に入れよ。
蘭丸は、文を読み終えて顔を上げた。
「暦を町に入れよ」
多米殿は頷いた。
「御屋形様らしい仰せにございます」
「正月まで、流れで見ておられるのですね」
「道を揃え、荷を揃え、次は日を揃えるのでしょう」
蘭丸は、新年帳を見た。
日を揃える。
それは、簡単なようで難しい。
商人は売りたい。
宿屋は飯を出さねばならない。
酒屋は初酒を名乗りたい。
飛脚は急ぎの文を走らせたい。
公方様は御座所で正月膳を求める。
上杉景勝は、何も言わぬまま酒蔵の方を見る。
休ませる者と、止めてはならぬ者を分ける。
それが、江戸の正月だった。
◇
まず、菱屋の前で揉めた。
「これが今年最初の荷だ! 初荷札をくれ!」
「いや、うちの荷が先に江戸へ入った!」
「夜明け前に着いたぞ!」
「年が明ける前に町番所へ入った荷は、今年なのか去年なのか!」
菱屋の手代たちは困り果てていた。
多米殿は、静かに言った。
「正月三日は、大市を閉じます」
商人たちが一斉に不満を漏らした。
「では初荷は!」
「三日明け、菱屋前で改めます」
「早く来た意味がないではないか」
「早く来た者は、初荷候補帳に入れます」
「候補?」
「初荷を名乗るには、札が要ります」
蘭丸は小声で言った。
「多米殿、初荷まで候補制に」
「勝手に名乗らせると、十も二十も初荷になります」
「確かに」
「初は、名を揃えねば値が立ちませぬ」
「値が立つのですね」
「はい」
商人たちは渋々、初荷候補帳に名を記した。
その横で、風魔小太郎が現れた。
「夜明け前に裏口から入れようとした荷がある」
「風魔殿!」
「初を盗む者はいる」
多米殿の筆が走った。
初荷抜け駆け、風魔改め。
「正月から隠密仕事でございますか」
「正月だからだ」
◇
次に、酒蔵町である。
酒屋たちが、初酒札を求めて並んでいた。
「上杉様御賞味酒で初酒を!」
「駿河の柔らかいやつを初酒に!」
「越後酒こそ初酒にふさわしい!」
蘭丸は、最後の声を聞いて振り返った。
上杉家の者だった。
その後ろに、直江兼続が立っている。
「兼続殿」
「景勝様が、初酒を所望にございます」
「何と仰せで」
「酒蔵の方を見ておられました」
「もう分かるようになってしまいました」
景勝は少し離れて立っていた。
黙っている。
だが、酒蔵の札を見ている。
多米殿は頭を下げた。
「上杉様の初酒は、御逗留所へお届けいたします」
兼続は頷いた。
「忝ない」
「ただし、初酒札は一つに絞りませぬ」
酒屋たちがざわめいた。
「一つではないのですか」
「諸国初酒といたします」
「諸国」
「甲斐初酒、信濃初酒、駿河初酒、相模初酒、武蔵初酒、越後初酒。国ごとに札を分けます」
蘭丸は感心した。
「一つに争わせず、分けたのですね」
「争うものは、分ければ増えます」
「銭が、ですね」
「はい」
景勝が、わずかに頷いた。
兼続が言った。
「景勝様は、よい分け方だと仰せにございます」
「今の頷きは、私にも少し分かりました」
◇
火元町で揉めたのは、屋台の火だった。
「正月だからこそ、南蛮芋を蒸したい」
「初蒸かし芋だ」
「初石焼きだ」
黒菱衆町番が、それを止めていた。
「大市は三日まで閉じる。勝手に店を開くな」
屋台親父たちは、不満そうに唸った。
蘭丸は、多米殿を見た。
「多米殿、火をすべて止めるのですか」
「いいえ」
「違うのですか」
「宿の飯は止めませぬ」
多米殿は、当然のように答えた。
「旅人が泊まっております。上杉家も逗留しております。公方御座所にも膳を運ばねばなりませぬ。黒菱衆町番も井戸番も急使もおります。飯を止めれば、町が止まります」
「では、何を止めるのですか」
「勝手な商いの火です」
多米殿は、火元町の者たちへ向き直った。
「宿の台所、御座所膳、上杉御逗留所の膳、町番飯、急使飯。これは火元札を改めて許します。だが、屋台が勝手に初売りを名乗ることは許しませぬ」
屋台親父が尋ねた。
「では、南蛮芋蒸し餅は」
「宿へ卸せ」
「宿へ」
「宿が飯とともに出せば、宿飯です。屋台で売れば大市です」
蘭丸は思わず頷いた。
「なるほど。売り場を止めて、飯は止めない」
「はい」
「では、宿は忙しくなりますね」
「忙しくなります」
「宿町から苦情が来ますよ」
「来ております」
「早い!」
宿町の女将たちは、すでに多米殿の後ろに並んでいた。
「米を寄こしていただきたい」
「南蛮芋飯なら出せます」
「鳥ジャガの汁を少し回していただければ、正月膳になります」
「酒は札付きだけにしてくださいませ。酔った客を抱えるのは宿でございます」
多米殿は、すべて帳面へ入れた。
「宿飯札を出します」
「また札でございますか」
「正月の飯は、どこで作り、誰に出し、どの火を使ったか分からねば困ります」
蘭丸は、少しだけ納得した。
大市は閉じる。
だが、宿は閉じない。
飯も止めない。
ただし、勝手に初を名乗らせない。
それが、江戸の正月だった。
◇
公方様の江戸御座所からも使いが来た。
「公方様、正月膳を所望にございます」
蘭丸は空を見上げた。
「やはり来ましたか」
使いは続けた。
「御正室様、御側室方にも、奥向き正月膳を」
多米殿は、すでに書いていた。
「公方御座所正月膳。奥向き別膳」
「早い!」
「来ると思っておりました」
膳は、すぐに決まった。
那須米の飯。
南蛮芋飯。
鳥ジャガ葱入り。
蕎麦切り少量。
蒸かし南蛮芋。
辛味噌大根。
焼き魚江戸薄だれ。
諸国初酒を少し。
上杉御逗留所へは、越後初酒、塩引き、南蛮芋飯、鳥ジャガ葱多め、辛味噌大根。
長可が聞きつけて来た。
「俺の初膳は」
「兄上は、黒菱衆町番の初番飯にございます」
「何だ、それは」
「番をする者の飯です」
「よい飯か」
「南蛮芋飯と鳥ジャガの残り汁」
「悪くない」
蘭丸は、小さくため息をついた。
「兄上、残り汁で納得なさるのですね」
「飯にかければよい」
多米殿の筆が動いた。
鳥ジャガ残り汁飯、番飯に向く。
「また増えました!」
◇
夕刻、取次町に新しい札が立った。
江戸正月定め。
正月三日は大市を閉じるべし。
宿、井戸、火元、町番、急使は止めるべからず。
宿飯は宿飯札を持つべし。
屋台の勝手初売り、禁制。
初荷は三日明け、菱屋前にて改めるべし。
初酒は酒改め札を持つもののみ名乗るべし。
初膳は公方御座所、上杉御逗留所へ届けるべし。
当番飯、町番飯、急使飯は別帳とす。
暦を乱す者、名を記すべし。
蘭丸は札を見た。
「多米殿」
「何でしょう」
「宿、井戸、火元、町番、急使は止めるべからず。これはよいですね」
「町を止めぬためにございます」
「大市を閉じても、町は生きている」
「はい」
多米殿は、新年帳を閉じた。
初荷。
初酒。
初膳。
宿飯。
当番飯。
急使飯。
正月は、ただ休む日ではない。
休む者と、支える者を分ける日だった。
江戸は、初めて町全体で同じ正月を迎えた。
商いを止める場所。
火を残す場所。
飯を作る場所。
人を泊める場所。
急ぎの文を走らせる場所。
それらが一つの暦に入る。
義信が言う「日を揃える」とは、こういうことなのだろう。
蘭丸は、ようやく少しだけ落ち着いた。
その時、相撲場の方から権六の声が聞こえた。
「五呼吸……」
蘭丸は聞かなかったことにした。
多米殿だけが、静かに筆を取った。
「初相撲、三日明け。別帳」
「多米殿!」
こうして江戸の正月は、大市を閉じながらも、宿の飯と町番の火だけは止めずに始まったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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