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第26帳 大晦日、帳面を閉じる

 箱根まで走った者たちが、まだ足を引きずっている頃。

 江戸に、年の暮れが来た。

 火元町では、南蛮芋蒸し餅の湯気が上がる。

 宿町では、年越しの客が増える。

 酒蔵町では、上杉様御賞味酒の札を見た者たちが、今夜だけはと財布の紐を緩める。

 公方様の江戸御座所では、年越し膳を用意せよとの使いが来た。

 上杉家御逗留所では、越後酒を一樽開けるかどうかで、直江兼続が静かに多米殿と相談していた。

 森蘭丸は、帳面を抱えたまま、町のあちこちを走っていた。

「多米殿」

「何でしょう」

「大晦日とは、これほど仕事が増える日でございましたか」

「はい」

「なぜでございますか」

「皆が、年内に片づけようとするからにございます」

「片づくのでございますか」

「片づかぬものを、帳面に入れます」

 多米殿は、いつも通り筆を持っていた。

「つまり、片づかないのですね」

「片づけたことにします」

「言い方が怖うございます」

     ◇

 その日、吉田城から義信の文が届いた。

 多米殿は、蘭丸、長可、黒菱衆町番の小頭、菱屋の手代、宿町の女将、酒屋の親方を集め、文を広げた。

 年の終わりには、荷を止めよ。

 ただし、町を止めるな。

 帳面を閉じ、未払いを改め、火と水と番を残せ。

 年の終わりを知らぬ町は、年の初めも知らぬ。

 初荷、初市、初酒、初膳を勝手に名乗らせるな。

 暦を町に覚えさせよ。

 蘭丸は、文を読み終えて顔を上げた。

「暦を町に覚えさせる」

 多米殿は頷いた。

「御屋形様は、正月を揃えよと仰せにございます」

「正月を揃える」

「はい。休む日、始める日、荷を出す日、帳面を開く日。それが人によって違えば、町は落ち着きませぬ」

 宿町の女将が頷いた。

「客が勝手に年越しだ、正月だと言って騒ぐより、決まりがある方がよろしゅうございます」

 酒屋の親方も言った。

「初酒を名乗れるなら、札が欲しいですな」

 蘭丸は、すぐに酒屋を見た。

「もう売る話ですか」

「年の初めですので」

「年の初めとは便利でございますね」

 多米殿は筆を取った。

「大晦日改め」

 蘭丸は身構えた。

「また新しい改めですね」

「年を越すためにございます」

     ◇

 まず、未払いが集められた。

 屋台の未払い。

 酒場の掛け。

 宿代。

 荷運び賃。

 馬留め料。

 水札の滞り。

 見物札の不足分。

 相撲場の屋台札料。

 鳥ジャガ予約膳の前金。

 蘭丸は、帳面を見て目を回した。

「多すぎませぬか」

「町が大きくなった証にございます」

「誇ってよいのでしょうか」

「回収できれば」

「できなければ」

「来年の仕事札に回します」

 そこへ、森長可がやって来た。

「払わぬ者は、投げればよい」

「兄上、年の暮れに人を投げないでください」

「投げれば思い出す」

「思い出すのは未払いではなく、痛みでございます」

 多米殿は、淡々と札を書いた。

 大晦日未払い改め。

 払える者は払うべし。

 払えぬ者は、来年仕事札へ移すべし。

 人を投げて帳尻を合わせるべからず。

 初例、森長可様。

「多米殿!」

「必要にございます」

「否定できませぬ!」

     ◇

 次に、火元町が改められた。

 大晦日の夜は、酒が出る。

 人が集まる。

 南蛮芋も蒸される。

 鳥ジャガも煮られる。

 蕎麦つゆも温められる。

 火を使う者が増える。

 黒菱衆町番の小頭が、火元町の入口で声を張った。

「大晦日夜火、届け出なき者は消す!」

 屋台親父が慌てて札を見せる。

「火元札はあります!」

「水桶は」

「二つ」

「三つにせよ」

「三つ!」

 多米殿が頷いた。

「大晦日は三つにございます」

「いつ決まったのですか」

 蘭丸が聞く。

「今です」

「今!」

 風魔小太郎が屋根の陰から言った。

「火の匂いが多い」

「風魔殿」

「酒の匂いも多い」

「それは分かります」

「揉める匂いもする」

 多米殿の筆が走った。

「大晦日夜回り、黒菱衆増し。風魔、匂い改め」

「匂いまで改めに!」

     ◇

 夕刻、公方様の江戸御座所から使いが来た。

「公方様、年越し膳を所望にございます」

 蘭丸は、使いの後ろを見た。

 さらに、上杉家御逗留所からも兼続が来ていた。

「景勝様も、年越しの酒と膳を」

「景勝様もでございますか」

「はい」

「何と仰せで」

「黙って酒樽を見ておられました」

「それはもう、所望でございますね」

「はい」

 蘭丸は、越後式の読解に少し慣れてきていた。

 多米殿は、すぐに膳を分けた。

 公方御座所へは、那須米の飯、鳥ジャガ葱入り、蕎麦切り、蒸かし南蛮芋、焼き魚江戸薄だれ。

 上杉家御逗留所へは、越後酒、塩引き、鳥ジャガ葱多め、南蛮芋飯、辛味噌大根。

 長可が言った。

「俺の分は」

「兄上は、町番の夜食にございます」

「少ない」

「年越し番の者からです」

「ならば、番をする」

 蘭丸は目を細めた。

「本当に番をなさいますか」

「酒場の未払いを見張る」

「投げる気ですね」

「逃がさぬ」

 多米殿は筆を止めずに言った。

「長可様、年越し未払い見張り。投げ禁制」

「書くな」

「書かねば投げます」

「書け」

 蘭丸は、妙な説得が成立したことに驚いた。

     ◇

 夜が深まる。

 江戸の町は、いつもより明るかった。

 だが、黒菱衆町番が立っているため、火は道へ溢れない。

 井戸番が水を見ているため、桶は空にならない。

 宿町の女将たちは、酔った客を早めに寝かせる。

 酒屋は、札のない酒を出さない。

 それでも、騒ぎは起きた。

「これは今年の掛けではない! 来年払う!」

 酒場で男が叫んだ。

 長可が立った。

 男は即座に銭を出した。

 蘭丸は感心した。

「兄上が立っただけで」

 多米殿が頷いた。

「投げ禁制でも、立つのは禁じておりませぬ」

「抜け道が」

 別の屋台では、人足たちが南蛮芋飯の残りを巡って言い合っていた。

 権六が間に入る。

「年を越す前に揉めるな。残りは番の者へ回せ」

「権六、偉くなったな」

「五呼吸を目指す身でございます」

 蘭丸は、その言葉に引っかかった。

「五呼吸?」

 多米殿が何事もないように言った。

「正月の初相撲にございます」

「もう決まっているのですか!」

「決めておかねば、勝手に始まります」

     ◇

 夜半。

 多米殿は、最後の帳面を閉じた。

 旧年帳。

 そう書かれた帳面である。

 未払いは消えない。

 だが、どこにあるかは決まった。

 火は消えない。

 だが、誰が見るかは決まった。

 酒は止まらない。

 だが、どの札で出すかは決まった。

 町は眠らない。

 だが、年を越す形はできた。

 蘭丸は、閉じられた帳面を見た。

「多米殿」

「何でしょう」

「年を越すとは、こういうことなのでございますか」

「町では、そうにございます」

「家なら、餅を供え、灯を整え、静かに年を越すものかと」

「江戸も、いずれそうなります」

「今は」

「荷と人と酒を、まず越させます」

 多米殿は、静かに言った。

「御屋形様の仰せです。年の終わりを知らぬ町は、年の初めも知らぬ」

 蘭丸は頷いた。

 町にも年がある。

 その年を、皆が同じ日に閉じる。

 同じ日に始める。

 それは、ただの祭りではない。

 町を町にするための、目に見えない縄のようなものだった。

     ◇

 翌朝を待たず、取次町には新しい札が立った。

 江戸大晦日定め。

 年の暮れ、旧年帳を閉じるべし。

 未払いは旧年帳へ記し、払えぬ者は来年仕事札へ移すべし。

 大市は日暮れにて閉じるべし。

 宿、井戸、火元、町番、急使は当番を残すべし。

 酒は酒改め札なきものを出すべからず。

 火元町の夜火、水桶三つを備えるべし。

 公方御座所、上杉御逗留所、年越し膳は別帳とす。

 人を投げて帳尻を合わせるべからず。

 初例、森長可様。

 蘭丸は、最後の一行を見て、深く息を吐いた。

「兄上」

「何だ」

「年の終わりまで、初例になりましたね」

「俺は何も投げておらぬ」

「立っただけで銭が出たそうです」

「ならば役に立った」

 否定できなかった。

 少し離れたところで、上杉景勝が札を見ていた。

 黙っている。

 兼続が言った。

「景勝様は、年を帳面で越す江戸を面白いと仰せにございます」

 蘭丸は頷いた。

「それは、少し分かる気がいたします」

 公方御座所からは、年越し膳の礼が来た。

 酒蔵町では、初酒の札を欲しがる者が列を作り始めた。

 相撲場では、権六が土俵の土を見ていた。

「五呼吸」

 権六は、そう呟いた。

 蘭丸は聞かなかったことにした。

 江戸の大晦日は、帳面と火と酒と未払いに追われながら、それでもどうにか年を越そうとしていた。

 そして、多米殿はもう、新しい帳面を開いていた。

 表には、こう書かれていた。

 新年帳。

「多米殿!」

 蘭丸の声が、年の瀬の江戸に響いた。



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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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