第25帳 箱根まで走ればよかろう
酒は、人を饒舌にする。
江戸酒改めが始まってから、宿町の酒場には、諸国の者が集まるようになった。
飛脚。
人足。
馬子。
黒菱衆の若い者。
越後から来た上杉家の走り使い。
風魔の下働き。
最初は、酒の話だった。
「越後酒は強い」
「駿河は柔らかい」
「信濃の酒は腹に残る」
「武蔵はまだ若い」
だが、酒が二巡すれば、話は変わる。
「江戸で一番足が速いのは、飛脚に決まっておる」
「荷を背負って走れる人足を忘れるな」
「山道なら馬子だ」
「越後の雪道を知らぬ者が、何を申す」
「戦場を駆ける黒菱衆に勝てるものか」
「風魔なら、そもそも見つからぬ」
森蘭丸が酒場へ着いた時には、すでに言い合いになっていた。
「これは何の騒ぎでございますか」
酒場の者たちが、一斉に口を開いた。
誰が速い。
誰が山に強い。
誰が荷を背負える。
誰が夜道を走れる。
蘭丸は、半分も聞かぬうちに頭を抱えた。
「多米殿を呼びます」
「帳面にするほどの話か」
酒場の奥で、森長可が言った。
蘭丸は嫌な予感がした。
「兄上」
「走って決めればよかろう」
「やはり!」
長可は当然のように続けた。
「口で速いと言うなら、走らせればよい」
「場所は」
「箱根まで行って帰れ」
酒場が静まった。
次の瞬間、どっと沸いた。
「箱根!」
「山までか!」
「飛脚なら行ける!」
「馬子の坂だ!」
「越後衆に山で勝てるか!」
蘭丸は長可を見た。
「兄上、また大ごとになりました」
「大ごとなら、多米が喜ぶ」
「否定できないのが恐ろしゅうございます」
◇
多米殿は、すぐに来た。
話を聞き終えると、怒らなかった。
むしろ、静かに帳面を開いた。
「個人ではなく、班にします」
蘭丸は目を瞬いた。
「班でございますか」
「一人で箱根まで行って帰れば、途中で倒れます。倒れれば、道の邪魔になります」
「そこを心配するのですね」
「はい」
多米殿は筆を動かした。
「飛脚組。人足組。馬子組。黒菱衆組。越後組。風魔組。酒屋宿屋連合組」
「酒屋宿屋も出るのですか」
「口論の元ですので」
「罰に近くございませぬか」
「参加料を取ります」
「罰よりひどい!」
多米殿はさらに言った。
「宿ごとに走り手を替えます」
「替える」
「江戸から品川、川崎、神奈川、小田原、箱根山頂。そこで折り返し、同じく宿ごとに走り札を継ぎます」
「走り札」
「札を渡さねば、走ったことになりませぬ」
蘭丸は小さく呟いた。
「何でも札になりますね」
「札になれば揉めませぬ」
「揉めているから札になるのでは」
「どちらも正しゅうございます」
◇
上杉景勝も、その話を聞いた。
景勝は黙っていた。
直江兼続が言った。
「景勝様は、越後組が山で負けるはずはないと仰せにございます」
蘭丸は、もう驚かずに頷いた。
「そうでございますか」
長可が景勝を見た。
「見るか」
景勝は黙って頷いた。
兼続が言った。
「見るだけではなく、越後組を出すと仰せにございます」
「今の頷きで、そこまで!」
やはり驚いた。
権六も呼ばれた。
人足組の大将としてである。
「俺でよろしいので」
権六は少し困った顔をした。
「速さなら飛脚には勝てませぬ」
長可は言った。
「坂で持て」
「何をでございます」
「気合だ」
蘭丸が割って入った。
「兄上、気合は荷ではございませぬ」
権六は真面目に頷いた。
「坂なら、人足も粘れます。荷がなければ、なお粘れます」
多米殿の筆が動いた。
「人足組、坂に強し」
「まだ走っておりませぬ!」
◇
翌朝。
江戸北ではなく、東海道へ出る口に人が集まった。
走り札が用意された。
細長い木札である。
表には班名。
裏には宿名。
腰に結び、次の走り手へ渡す。
黒菱衆町番が道を分ける。
菱屋の手代が時を記す。
風魔は、どこにいるか分からない。
多米殿が大声で読み上げた。
「江戸箱根駆け改め。酒を飲んで走る者、失格」
酒屋宿屋連合組が、露骨に目を逸らした。
「走り札を落とす者、失格」
飛脚組が札の結び目を確かめる。
「道中で喧嘩する者、失格」
黒菱衆組が少し残念そうにした。
「長可様乱入、禁制」
長可が眉をひそめた。
「なぜ俺だけ名がある」
蘭丸は即答した。
「必要だからでございます」
「俺も走れる」
「兄上が走れば、勝負ではなく騒乱になります」
長可は不満そうだったが、やがて言った。
「では、箱根山頂で見届ける」
「なぜ山頂へ行くのですか!」
「揉めた時に投げる者が要る」
多米殿が頷いた。
「山頂見届け役、長可様」
「認めないでください!」
◇
駆け比べが始まった。
最初に飛び出したのは、飛脚組だった。
速い。
さすがに速い。
品川までの道では、飛脚組が先に着いた。
だが、川崎へ向かう頃、人足組がじわじわ詰めた。
権六は走らなかった。
人足組の中継で、走り手の草鞋を替え、水を渡し、転んだ者を担いで脇へ寄せた。
「権六、走っておらぬではないか!」
見物人が叫ぶ。
権六は答えた。
「班でございます!」
多米殿は遠くで聞き、頷いた。
「正しい」
蘭丸は驚いた。
「走らぬ者も役に立つのですね」
「荷は、一人では動きませぬ」
神奈川へ入る頃、馬子組が強くなった。
坂道や悪路に慣れている。
足の置き方が違う。
黒菱衆組は、速さより崩れない。
声を掛け合い、列を乱さず進む。
越後組は、山が近づくほど黙って速くなった。
景勝は、その報せを聞いても黙っていた。
兼続が言った。
「景勝様は、当然と仰せにございます」
蘭丸は言った。
「今の沈黙は、分かりやすい方でございますね」
「はい」
◇
箱根の坂で、勝負は変わった。
飛脚組の足が鈍る。
馬子組が抜く。
さらに越後組が詰める。
山道での呼吸が違う。
雪道ほどではないにせよ、足を置く場所を選ぶ目がある。
箱根山頂に、最初に着いたのは越後組だった。
そこには、長可が腕を組んで待っていた。
「遅い」
越後組の走り手は、膝に手をつきながら言った。
「長可様は、いつ」
「先に来た」
「走ったのでございますか」
「歩いた」
後から来た蘭丸が叫んだ。
「兄上! 禁制を何だと思っておられるのですか!」
「乱入はしておらぬ。見届けだ」
「理屈が雑でございます!」
多米殿は、山頂の小屋で走り札を改めた。
「越後組、山頂一番」
続いて馬子組。
飛脚組。
黒菱衆組。
人足組。
風魔組。
蘭丸は首をかしげた。
「風魔組は、いつ着いたのでございますか」
風魔小太郎が、背後から言った。
「少し前だ」
「ならば札を出してください!」
「見つからぬように走った」
「競走で見つからぬ意味はございませぬ!」
多米殿は冷静に言った。
「札を出さねば失格」
風魔は少しだけ残念そうに、袖から札を出した。
◇
折り返しは、下りである。
ここで飛脚組が強かった。
山で遅れた分を、平地へ戻るにつれて取り返す。
黒菱衆組は途中で転んだ子供を脇へ寄せ、少し遅れた。
人足組は、足を痛めた酒屋宿屋連合の走り手を担ぎ上げた。
「それでは負けます!」
酒屋が叫ぶ。
権六は答えた。
「道の真ん中に置けば、もっと負けます!」
多米殿は、それを聞いて帳面へ書いた。
道中救助役、必要。
江戸へ最初に戻ったのは、飛脚組だった。
見物人が沸く。
「飛脚だ!」
「やはり飛脚が一番だ!」
少し遅れて越後組。
馬子組。
黒菱衆組。
人足組。
風魔組。
最後に酒屋宿屋連合組。
酒屋宿屋連合組は、負けたが、一番声が大きかった。
「来年は勝つ!」
蘭丸は聞き捨てならない顔をした。
「来年?」
多米殿の筆が動いた。
「次回希望あり」
「多米殿!」
◇
結果発表は、相撲場で行われた。
長可が勝手に中央へ立とうとしたので、蘭丸が止めた。
「兄上は見届け役です」
「ならば見届ける」
「投げないでください」
多米殿が札を読み上げた。
「早駆け一番、飛脚組」
飛脚組が胸を張る。
「山駆け一番、越後組」
景勝は黙って頷いた。
兼続が言った。
「景勝様は、当然と仰せにございます」
「でしょうね」
「坂道働き一番、馬子組」
馬子たちが笑う。
「道中支え一番、人足組」
権六が頭を下げる。
「道中守り一番、黒菱衆組」
黒菱衆が静かに槍を立てる。
「見つからぬ一番、風魔組」
蘭丸は顔をしかめた。
「それは賞なのですか」
風魔が答えた。
「賞だ」
「自分で決めないでください」
「酒屋宿屋連合組、次回までに足腰鍛錬」
酒屋たちが唸った。
「それは賞ではございませぬ!」
多米殿は言った。
「罰でもございませぬ。商いの備えにございます」
◇
その夜、新しい札が立った。
江戸箱根駆け改め。
江戸より箱根山頂まで、宿ごとに走り札を継ぐべし。
走り札を渡さぬ者、失格。
酒を飲んで走る者、失格。
道中で倒れし者を放置するべからず。
宿ごとに水、草鞋、休み所を備えるべし。
道の悪き所、必ず帳面へ記すべし。
長可様乱入、禁制。
初例、酒場口論。
蘭丸は札を見て、深いため息をついた。
「多米殿」
「何でしょう」
「ただの酒場の口論が、箱根まで走る話になりました」
「はい」
「そのうえ、道の悪い場所まで帳面に入りました」
「速さを競わせれば、道の弱い所が見えます」
多米殿は静かに言った。
「飛脚の足も、人足の支えも、馬子の坂も、越後衆の山目も、黒菱衆の守りも、すべて使えます」
「酒屋宿屋連合は」
「鍛えます」
「やはり罰では」
「商いの備えにございます」
長可が満足げに言った。
「走って決めれば早い」
蘭丸は言い返そうとして、やめた。
確かに早かった。
そして、役に立ってしまった。
景勝は、江戸箱根駆け改めの札を黙って見ていた。
兼続が言った。
「景勝様は、越後口でも同じことができぬかと考えておられます」
蘭丸は、思わず顔を上げた。
「また道が増えるのでございますか」
多米殿の筆が、すでに動いていた。
「越後口継ぎ走り、要検討」
「多米殿!」
風魔が屋根の上から言った。
「次は、誰が越後まで一番で着くか」
「予測しないでください!」
「予測だ」
冬の江戸に、蘭丸の声が響いた。
こうして、酒場の口論から始まった駆け比べは、江戸と箱根をつなぐ道改めとなったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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