第24帳 上杉様、盃を返さず
上杉景勝が江戸に逗留することになって、三日が過ぎた。
景勝は、騒がなかった。
朝は江戸の道を見た。
昼は蔵を見た。
夕には荷改めを見た。
どこを見ても、黙っている。
森蘭丸は、最初の一日で困り果てた。
「兼続殿」
「何でございましょう」
「景勝様は、江戸をどう思っておられるのでしょうか」
「気に入っておられます」
「どこで分かるのでございますか」
「三日続けて、同じ道を見ておられます」
「それは気に入っているのでございますか」
「はい」
「難しゅうございます」
直江兼続は、少しだけ笑った。
「越後では、分かりやすい方にございます」
「これで!」
蘭丸は、越後の家臣がいかに鍛えられているかを思い知った。
◇
その日の夕刻。
菱屋の酒蔵前に、諸国の酒が並べられた。
江戸には、酒が集まる。
甲斐の酒。
信濃の酒。
駿河の酒。
相模の酒。
武蔵の酒。
那須から来た酒。
そして、上杉家が持ち込んだ越後酒。
さらに、堺や伊勢湾経由の珍しい酒も少しだけある。
酒樽を前に、多米殿は帳面を開いていた。
「多米殿」
蘭丸は嫌な予感がした。
「何でしょう」
「これは、何でございますか」
「酒改めにございます」
「もう改めるのですか」
「酒は揉めます」
「まだ飲んでおりませぬ」
「飲めば揉めます」
「決めつけが早い」
「酔う前に帳面へ入れねばなりませぬ」
多米殿は真顔だった。
「酒は、飯より火に近く、銭より喧嘩に近い」
「妙に納得してしまいました」
「ゆえに改めます」
そこへ、景勝が来た。
兼続が一歩後ろに控えている。
景勝は酒樽の列を見た。
黙っていた。
だが、足が止まった。
多米殿の筆が、すぐに動いた。
「上杉様、酒に御関心あり」
蘭丸は小声で言った。
「多米殿、まだ一言も仰せではございませぬ」
「足が止まりました」
「前にも聞いた気がいたします」
兼続が静かに言った。
「景勝様は、諸国の酒を試したいと仰せにございます」
「やはり今ので!」
◇
試し酒の席は、菱屋の奥ではなく、酒蔵の離れに設けられた。
火元から遠い。
水桶に近い。
黒菱衆町番が外に立つ。
風魔は見えないところにいる。
酒だけの席である。
肴には、塩引き、干魚、辛味噌大根、南蛮芋蒸し餅を少し。
長可は当然のように座ろうとした。
蘭丸が止めた。
「兄上」
「何だ」
「これは上杉様の試し酒でございます」
「ならば、俺も試す」
「なぜそうなるのですか」
「酒は一人で飲んでも分からぬ」
景勝が、長可を見た。
黙っていた。
兼続が言った。
「景勝様は、同席を許すと仰せにございます」
「本当でございますか」
「はい」
長可は座った。
多米殿の筆が動いた。
「上杉様、長可様同席酒改め」
「多米殿、何でも札に近づけないでください」
◇
最初は、甲斐の酒だった。
長可は一息で飲んだ。
「悪くない」
景勝は、静かに飲んだ。
盃を置かない。
蘭丸は見ていた。
景勝は顔色を変えない。
声も出さない。
眉も動かない。
ただ、盃だけが空になっていく。
「兼続殿」
「何でございましょう」
「景勝様は、どうなのでございますか」
「お気に召しておられます」
「まだ何も仰せでは」
「盃が返ってきませぬ」
「なるほど!」
次は信濃の酒。
景勝は飲んだ。
黙っている。
次に駿河。
次に相模。
次に武蔵。
景勝は、どれも静かに飲んだ。
長可も飲んだ。
こちらはだんだん声が大きくなった。
「駿河は柔らかいな」
「兄上、声が大きゅうございます」
「相模は少し荒い」
「評はよいのですが、声が大きゅうございます」
「武蔵はまだ若い」
「兄上、もう酒屋の者のようでございます」
多米殿は書いていた。
長可様酒評。
駿河、柔らかし。
相模、少し荒し。
武蔵、若し。
「多米殿!」
「売り場には使いませぬ」
「本当ですか」
「まだ」
「まだ!」
◇
越後酒の番になった。
兼続が自ら酌をした。
景勝は、盃を受けた。
そして、ゆっくり飲んだ。
その時だけ、わずかに目を細めた。
蘭丸は、兼続を見た。
兼続は小さく頷いた。
「景勝様は、やはり越後酒が一番落ち着くと仰せにございます」
「今の目で分かるのですね」
「はい」
長可も越後酒を飲んだ。
「強いな」
景勝は、長可を見た。
黙っていた。
兼続が言った。
「景勝様は、強いだけではないと仰せにございます」
「それも今ので!」
長可は笑った。
「ならば、飲み比べるか」
蘭丸は立ち上がった。
「兄上!」
景勝は、黙って盃を置いた。
兼続が言った。
「景勝様は、受けると仰せにございます」
「受けてしまわれた!」
多米殿の筆が走る。
「上杉様、長可様、酒比べ」
「多米殿、止める側ではないのですか!」
「止めるためにも記録が必要です」
風魔が、障子の向こうから言った。
「どちらが先に立てなくなるか」
「風魔殿!」
「予測だ」
「予測しないでください!」
◇
酒比べは、静かに始まった。
少なくとも、景勝の側は静かだった。
一杯。
景勝は変わらない。
長可も笑っている。
二杯。
景勝は変わらない。
長可の声が大きくなる。
三杯。
景勝は変わらない。
長可が膝を叩いた。
四杯。
景勝は変わらない。
長可が立ち上がろうとした。
蘭丸が慌てて止めた。
「兄上、なぜ立つのですか」
「相撲だ」
「酒比べ中に相撲へ行かないでください!」
景勝は、長可を見た。
黙っていた。
兼続が少し困った顔で言った。
「景勝様は、今は酒の席と仰せにございます」
「それは分かりやすい!」
五杯目。
長可の顔が少し赤くなった。
景勝は、まったく変わらない。
長可は景勝を睨んだ。
「こやつ、動かぬ」
兼続は静かに言った。
「酒を飲む時の景勝様は、城にございます」
「城」
蘭丸は思わず繰り返した。
たしかに、景勝は動かない。
座したまま、盃を受け、飲み、置く。
それだけである。
だが崩れない。
長可は、六杯目を飲んだところで笑った。
「よし。今日はここまでだ」
「兄上、負けを認めたのでございますか」
「負けではない。次へ残した」
多米殿が書いた。
長可様、次へ残す。
「書き方!」
景勝は、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
兼続が言った。
「景勝様は、長可殿を面白いと仰せにございます」
長可は満足げに頷いた。
「分かる男だ」
「兄上、どちらかと言えば、分かっているのは兼続殿です」
◇
その夜、問題が起きた。
上杉家の酒が出たと聞いて、宿町の者たちが騒ぎ始めたのである。
「越後酒は飲めるのか」
「上杉様御賞味の酒はどれだ」
「長可様が荒いと言った相模酒をくれ」
「駿河の柔らかいやつはあるか」
蘭丸は、頭を抱えた。
「多米殿」
「はい」
「兄上の評が、もう漏れております」
「はい」
「漏らしたのは」
「酒屋です」
「なぜ止めなかったのですか」
「止めるより、札にした方が早いので」
「やはり!」
多米殿はすぐに酒屋を集めた。
「酒は、勝手に上杉様御賞味を名乗ってはなりませぬ」
酒屋たちは顔を見合わせた。
「では、どうすれば」
「札を取れ」
「札」
「上杉様御賞味酒札。実際に御席へ出した酒のみ。名を偽れば、黒菱衆町番へ引き渡す」
酒屋たちは黙った。
多米殿は続けた。
「酒荷は改め札を持つべし。宿で出す酒は宿酒札を持つべし。火元近くに酒樽を置くべからず。酔客が喧嘩をすれば、酒屋も宿も名を記す」
蘭丸は感心した。
「多米殿、珍しく厳しいですね」
「酒は銭になります」
「はい」
「ですが、火にも喧嘩にもなります」
「はい」
「銭になるものほど、先に縛ります」
その言葉に、兼続が頷いた。
「上杉でも使えそうにございますな」
多米殿の目が、わずかに光った。
「越後酒改めも」
「まだ早うございます」
兼続は笑った。
「ですが、学ばせていただきます」
◇
翌朝。
酒蔵町に新しい札が立った。
江戸酒改め。
酒荷、改め札を持つべし。
宿酒、宿酒札を持つべし。
火元近くに酒樽を置くべからず。
酔客喧嘩、黒菱衆町番へ届けるべし。
上杉様御賞味酒、無断名乗り禁制。
長可様酒評、無断使用禁制。
初例、上杉景勝様。
蘭丸は札を見て、最後の一行に目を止めた。
「多米殿」
「何でしょう」
「長可様酒評、無断使用禁制とは」
「勝手に使われると困ります」
「使うのですか」
「使う時は、札料を取ります」
「結局そこですか!」
長可は、酒蔵の前で腕を組んでいた。
「俺の評は高いのか」
「兄上、少し嬉しそうでございますね」
「酒は分かる」
「昨日、相撲へ行こうとしておりましたが」
「それも分かる」
「分かりませぬ!」
景勝は、少し離れたところで札を見ていた。
黙っている。
兼続が言った。
「景勝様は、江戸の酒改めを気に入っておられます」
蘭丸は、もう尋ねなかった。
景勝は札を見たあと、酒蔵の方を見た。
すると多米殿が、すぐに手代へ言った。
「上杉様御席、今夜も用意」
「多米殿、まだ何も仰せではございませぬ」
「盃が返ってきませぬでした」
「昨日の話でございます!」
風魔が、屋根の陰から言った。
「今夜、越後酒が一番に出る」
「風魔殿」
「予測だ」
多米殿の筆が動いた。
「上杉様御賞味酒順、予測札、厳重調査」
蘭丸は、冬空の下でため息をついた。
江戸には荷が集まる。
荷が集まれば酒が来る。
酒が来れば人が集まる。
人が集まれば喧嘩も起きる。
だから、また札が立つ。
上杉景勝は、その札を黙って見ていた。
そして、その夜も盃はなかなか返ってこなかったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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