第23帳 上杉様、春まで帰れぬ
北から、荷が来た。
武蔵を抜け、上野を越え、越後へ続く道。
江戸の者は、それを越後口と呼び始めていた。
道がある。
ただし、楽な道ではない。
江戸から北へ出れば、平らな道ばかりではない。
川を越え、山に寄り、上野へ抜け、そこから越後へ向かう。
夏なら荷は通る。
秋なら馬も通る。
だが、冬となれば話は違う。
雪が来る。
雪は道を隠す。
峠を塞ぐ。
荷を止める。
人の命も止める。
その越後口から、上杉家の荷が江戸へ入った。
酒樽。
青苧。
紙。
漆。
塩引き。
干魚。
雪国の保存食。
馬二頭。
そして、荷の後ろから、上杉景勝が来た。
隣には、直江兼続がいた。
◇
森蘭丸は、江戸北口の町番所で二人を迎えた。
黒菱衆町番が道を分ける。
菱屋の手代が荷を数える。
多米殿は、すでに帳面を開いていた。
「上杉景勝様、御着きにございます」
蘭丸は深く頭を下げた。
景勝は、黙って頷いた。
それだけだった。
蘭丸は少し待った。
何か言葉が続くかと思ったからである。
だが、景勝は何も言わない。
蘭丸は、直江兼続を見た。
兼続は静かに言った。
「景勝様は、丁重な出迎え、忝ないと仰せにございます」
蘭丸は目を瞬いた。
「今ので、そこまで分かるのでございますか」
「はい」
「頷いただけに見えましたが」
「頷き方が違います」
「違うのですか」
「違います」
蘭丸は、初めて越後という国の難しさを知った気がした。
◇
多米殿は、荷の前に立った。
「越後酒、六樽」
手代が読み上げる。
「青苧、三梱」
「紙、二箱」
「漆、小壺十」
「塩引き、干魚、保存食」
「馬二頭」
多米殿は頷いた。
「上杉荷、改め済み」
蘭丸は横から尋ねた。
「多米殿、越後の荷は、もう江戸に入っていたのでは」
「入っております」
「では、今回は」
「上杉家御直荷にございます」
「御直荷」
「家の名で来た荷です。値が違います」
「やはり銭の話になるのですね」
「荷は名を背負います。名があれば、信用が付きます。信用が付けば、値が立ちます」
兼続が、静かに多米殿を見た。
「面白いお考えにございますな」
「江戸では、荷と名と銭を分けませぬ」
「分けないのですか」
「分けるために帳面へ入れます」
兼続は少しだけ目を細めた。
興味を持った顔だった。
景勝は黙っていた。
ただ、酒樽の前で少し足を止めた。
蘭丸は気づかなかった。
多米殿は気づいた。
兼続も気づいた。
長可だけは、はっきり言った。
「酒か」
景勝は、また黙って頷いた。
兼続が言った。
「景勝様は、越後酒もございますが、江戸に集まる諸国の酒にも興味がおありにございます」
蘭丸は思わず言った。
「今ので、そこまで!」
「はい」
◇
上杉勢は、菱屋の奥ではなく、客宿町へ通された。
公方家とは違う。
上杉は大名であり、軍でもある。
兵を泊める場所。
馬を置く場所。
荷を一時預かる蔵。
酒樽を置く涼しい場所。
火を使う場所。
使者が出入りする口。
すべてを分けねばならない。
多米殿は、歩きながら指示を出した。
「上杉家御宿」
「馬留め二つ」
「酒樽蔵、火元より離す」
「青苧と紙は湿気を避ける」
「塩引きと干魚は別蔵」
「黒菱衆町番は夜回りを増やす」
蘭丸は、その横で必死に書いた。
「多米殿、来られたばかりで、もう町が増えております」
「増やさねば揉めます」
「揉めると」
「札になります」
「聞かなければよかったです」
長可は、馬を見ていた。
「よい馬だ」
兼続が答える。
「越後の道を越えてきた馬にございます」
「相撲は取れるか」
「馬とでございますか」
「いや、景勝とだ」
蘭丸は慌てて長可の前に出た。
「兄上! 上杉様に何を言い出すのですか!」
景勝は、長可を見た。
黙っていた。
兼続が少し困った顔で言った。
「景勝様は、まず江戸を見たいと仰せにございます」
「今の沈黙は、そういう意味だったのですか」
「はい」
「便利すぎませぬか、兼続殿」
「慣れにございます」
◇
江戸の町は、冬の支度を始めていた。
火元町では、南蛮芋蒸し餅が湯気を上げている。
宿町では、南蛮芋飯が炊かれている。
取次町には、菱屋の札が並ぶ。
少し離れて、公方家の江戸御座所の柱が立ち始めていた。
景勝は、黙って見た。
兼続は、見るたびに質問した。
「道を分けるのは、荷と客を混ぜぬためにございますか」
「はい」
多米殿が答える。
「蔵を町の外へ逃がしたのは」
「火と混雑を避けるためにございます」
「黒菱衆町番は、兵でありながら町を見るのですか」
「はい。隠れて見るのは風魔。見えて止めるのは黒菱衆にございます」
兼続は頷いた。
「江戸は、城ではないのに、城のように守られておりますな」
多米殿は少し笑った。
「市にございます」
「市を守るのですか」
「市が止まれば、荷が止まります。荷が止まれば、銭が止まります。銭が止まれば、人が荒れます」
景勝が、わずかに頷いた。
兼続が言った。
「景勝様は、理にかなっていると仰せにございます」
蘭丸は、もう驚くのを諦めた。
◇
夕刻。
上杉家の荷改めが終わり、宿も整った。
蘭丸は、ようやく一息ついた。
だが、多米殿は帳面を閉じない。
「多米殿」
「何でしょう」
「上杉様の御宿も、荷も、馬も整いました」
「はい」
「では、今日はこれで」
「いいえ」
「まだ何か」
多米殿は、冬空を見た。
「上杉様は、いつ越後へお戻りになるのでしょう」
蘭丸は、言葉に詰まった。
越後口はある。
だが、冬の道は危うい。
江戸から上野へ、上野から越後へ。
雪の峠を越えるなど、命がけである。
兼続が静かに言った。
「雪が深くなれば、戻るは難しゅうございます」
多米殿は頷いた。
「では、春まで御逗留にございます」
蘭丸は振り返った。
「春まで!」
景勝は、黙っていた。
兼続が言った。
「景勝様は、承知されたようにございます」
「今ので承知なのですか!」
「はい」
長可が笑った。
「ならば、酒も相撲もある」
「兄上、相撲はまだ早いです!」
景勝は、長可を見た。
そして、わずかに頷いた。
兼続が言った。
「景勝様は、相撲も見てみたいと」
「もう分かりました!」
◇
翌朝、客宿町の前に新しい札が立った。
上杉家御逗留所。
越後口より御着き。
春雪解けまで逗留見込み。
上杉荷、菱屋にて改め。
酒樽蔵、火元より離すべし。
馬留め、黒菱衆町番預かり。
越後口の冬道、無理に戻るべからず。
その横に、少し小さな札があった。
越後口冬荷。
遅れを責めるべからず。
止まりし場所を記すべし。
出立日、上野通過、峠手前、雪待ち日数、すべて帳面へ入れるべし。
蘭丸は札を見た。
「多米殿」
「何でしょう」
「上杉様の来訪で、また札が増えましたね」
「はい」
「そして春まで御逗留」
「はい」
「酒樽も六つ」
「はい」
「兄上が相撲と言い出し、景勝様が頷きました」
「はい」
「嫌な予感しかしません」
多米殿は、静かに筆を取った。
「上杉様御逗留中、酒改め、相撲御覧、越後口荷改め、順次」
「順次、ではございませぬ!」
風魔が、札の陰から言った。
「景勝殿が、どの酒を最も気に入るか」
「風魔殿、予測しないでください」
「予測だ」
多米殿の筆が走った。
「上杉様御賞味酒、予測札、厳重調査」
蘭丸の声が、冬の江戸に響いた。
こうして上杉景勝は、越後へ帰れぬまま、江戸で一冬を過ごすことになったのである。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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