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第3帳 兄上、市で斬ってはいけませぬ

江戸自由市では、物がよく消える。

 米俵が一俵足りない。

 炭俵の数が合わない。

 魚籠の中身が減っている。

 上澄み飯の葱だけが妙に少ない。

 だが、多米殿は言った。

「物は、勝手には消えませぬ」

 森蘭丸は帳面から顔を上げた。

「では、なぜ消えるのでございますか」

「誰かが動かすからです」

「盗みでございますか」

「盗みとは限りませぬ。数え間違い、積み違い、払い忘れ、湿り、目減り、食べた者」

 最後の言葉で、蘭丸は兄を見た。

 森長可は、屋台の前で上澄み飯を食べていた。

「兄上」

「何だ」

「今、何椀目でございますか」

「二椀目だ」

 多米殿は静かに筆を走らせた。

「三椀目です」

「多米殿!」

「一椀目は、味見と称しておられました」

「味見は数に入らぬだろう」

「入ります」

 長可は不満そうに眉を寄せた。

「江戸は飯を食うのも面倒だな」

「兄上が面倒にしておられるのです」

 蘭丸がそう言った時、通りの向こうで叫び声が上がった。

「盗人だ!」

 その一言で、長可の顔が変わった。

 上澄み飯の椀を置き、腰の刀へ手をかける。

「兄上!」

「盗人だろう」

「市で刀を抜いてはなりませぬ!」

「盗人を逃がすのか」

「捕らえます。斬るのではございませぬ!」

 長可は聞いていなかった。

 人波を割って進む。

 逃げているのは、痩せた若い男だった。手には小さな布包みがある。追いかけているのは呉服屋の小僧で、顔を真っ赤にして叫んでいる。

「反物を返せ!」

「どけ!」

 若い男が荷車の横を抜ける。

 長可が刀を抜きかけた。

 蘭丸は青ざめた。

「兄上、荷車の向こうは人足です!」

「ならば避ける」

「刀は避けませぬ!」

 その瞬間、若い男の足元に何かが絡んだ。

 縄だった。

 男は見事に転がり、布包みを放り出した。

 いつの間にか、風魔小太郎が道の脇に立っていた。

「風魔殿!」

「人が走る匂いがした」

「匂いで分かるものではございませぬ!」

「焦りは匂う」

 風魔は短く答え、倒れた男の手首を押さえた。

 長可はつまらなそうに刀から手を離した。

「斬る前に終わった」

「終わってよろしいのです!」

 蘭丸は胸を撫で下ろした。

     ◇

 布包みは呉服屋へ戻った。

 だが、話は終わらなかった。

「斬ってくださればよかったのです」

 呉服屋の小僧が、震えながらそう言った。

「斬られたら、反物に血がつきます」

 多米殿が淡々と言った。

 小僧は黙った。

 蘭丸も黙った。

 確かに。

 血のついた反物など、売り物にならない。

 多米殿は帳面を開いた。

「盗まれた反物、一反。汚れなし。返却済み。盗人、捕縛。市中抜刀、未遂」

「未遂でございます!」

 蘭丸が慌てて言う。

「はい。森長可様、市中抜刀未遂」

「多米殿、それは帳面に残す必要がございますか」

「あります」

「なぜ」

「次に抜かれた時、初めてではないと分かります」

 長可が低く唸った。

「俺を盗人と同じ帳面に載せる気か」

「違います」

 多米殿は表情を変えなかった。

「盗人は盗人帳。長可様は長可様帳にございます」

「専用にするな!」

 蘭丸は思わず叫んだ。

 風魔が少しだけ笑った。

     ◇

 盗人は、腹を空かせた若者だった。

 名を弥助という。

 武蔵の外れから仕事を探して江戸へ来た。だが、人足の口入れ場所が分からず、飯を食う銭も尽き、通りの布包みに手を伸ばしたらしい。

 長可は腕を組んだ。

「腹が減ったなら、飯を食えばよい」

「兄上、その飯の銭がないのでございます」

「働けばよい」

「働く場所が分からなかったのでございます」

「ならば聞け」

「兄上」

 蘭丸は小さく息を吐いた。

「それができれば、盗みはしておりませぬ」

 長可は、まったく納得していない顔をした。

 多米殿は弥助を見て言った。

「江戸で働く気は」

「……ございます」

「では、明日より炭蔵へ。三日働けば、盗んだ反物の手間分を返せます」

 弥助は目を見開いた。

「斬られぬので」

「斬れば、反物代も戻りませぬ」

 多米殿は当然のように言った。

「働けば、戻ります」

 蘭丸は、その言葉に少し驚いた。

 盗みを許したわけではない。

 だが、斬って終わらせるわけでもない。

 江戸では、人もまた数えられる。

 腹も。

 手も。

 借りも。

 働きも。

 すべて帳面に載る。

 長可はつまらなそうに言った。

「甘いな」

 その時、低い声がした。

「甘くはない」

 森可成だった。

 いつから見ていたのか、静かに通りの端に立っている。

「父上」

 長可が姿勢を正した。

 可成は弥助を見た。

「盗みは許さぬ。だが、江戸で人を斬るのは最後だ」

「なぜでございますか」

 蘭丸が問うた。

 可成は通りを見た。

 米俵を担ぐ者がいる。

 炭俵を運ぶ者がいる。

 味噌樽を転がす者がいる。

 屋台で飯を売る者がいる。

「人が増えねば、町は育たぬ。町が育たねば、荷は来ぬ。荷が来ねば、兵は食えぬ」

 可成は長可を見た。

「戦場なら斬れ。だが市では、斬る前に使え」

 長可は少し黙った。

「使えぬ者なら」

「その時は、風魔が見る」

 風魔が、いつの間にか後ろにいた。

「見る」

 短く言った。

 蘭丸は少し寒くなった。

 斬られないからといって、逃げられるわけではないらしい。

     ◇

 翌朝。

 弥助は炭蔵で働いていた。

 荷の担ぎ方は下手だったが、逃げてはいなかった。

 蘭丸は帳面に記した。

 弥助。

 反物一反盗み。

 炭蔵三日働き。

 以後、口入れ所へ。

 そこで多米殿が言った。

「口入れ所を作ります」

 蘭丸は顔を上げた。

「口入れ所でございますか」

「はい。仕事を探す者と、人手を欲しがる店をつなぎます」

「それは、よいことにございます」

「口入れ料を取ります」

「やはり!」

「店からも、働く者からも少しずつ」

「両方からでございますか」

「両方が困っておりますので」

 多米殿は当然のように言った。

「困り事が二つあれば、銭の口も二つにございます」

 蘭丸は、また頭が痛くなった。

 その日の昼には、江戸の入口に木札が立った。

 仕事を求むる者、まず口入れ所へ。

 盗めば風魔が見る。

 斬る前に森長可様が来る。

 蘭丸は、しばらく札を見つめた。

「多米殿」

「何でしょう」

「最後の一行は、何でございますか」

「抑止にございます」

「兄上を何だと思っておられるのですか」

「抑止にございます」

「答えが変わっておりませぬ!」

 長可はその札を見て、妙に満足げだった。

「俺の名で盗みが減るなら、悪くない」

「兄上、喜ぶところではございませぬ!」

 風魔は札の陰に立ち、通りを見ていた。

「盗む前に来る者が増える」

「本当でございますか」

「腹の減った者は、札を読む」

 その言葉通り、夕方までに三人が口入れ所へ来た。

 元百姓。

 流れの人足。

 宿で下働きを探す女。

 盗む前に来た者たちだった。

 多米殿の筆が走る。

「口入れ三名。炭蔵一、宿場一、味噌蔵一。口入れ料、各一文」

「もう銭になっております!」

「はい」

「盗人騒ぎが、なぜ商いになるのでございますか」

「盗まれる前に働かせれば、盗みは減ります。働き口が決まれば、店は助かります。助かった者は、銭を払います」

 蘭丸は言葉を失った。

 昨日まで、盗人は斬るか縛るかの話だった。

 今日には、口入れ札になっている。

 江戸では、騒ぎはそのままでは終わらない。

 必ず何かの仕組みに変わる。

     ◇

 夕刻。

 弥助は炭蔵の前で、ぎこちなく頭を下げた。

「蘭丸様」

「何でしょう」

「飯を食えました」

「それは、よかった」

「明日も働けます」

 蘭丸は少しだけ笑った。

「ならば、盗む前に働いてください」

「はい」

 そこへ長可が来た。

「おい」

 弥助は飛び上がった。

「ひっ」

「働け」

「は、はい!」

「逃げたら」

「兄上!」

 蘭丸が止める前に、長可は言った。

「また口入れ所に連れていく」

 蘭丸は目を瞬いた。

 斬る、ではなかった。

 長可は少しだけ不満そうに顔をそらした。

「父上が、そう言った」

 蘭丸は、少しだけ笑いそうになった。

 多米殿は、その横で帳面に書いていた。

「森長可様、口入れ所案内役として有効」

「多米殿」

「何でしょう」

「それを兄上に言わない方が」

 遅かった。

 長可が振り向いた。

「案内役だと?」

「はい」

「俺がか」

「はい。恐ろしく、分かりやすく、逃げられませぬ」

「多米殿!」

 蘭丸が叫ぶ。

 だが長可は、少し考えたあと、なぜか頷いた。

「悪くない」

「悪いです!」

 風魔が小さく言った。

「長可殿が立てば、逃げる者は減る」

 多米殿も頷いた。

「では、月に三度、口入れ所前に」

「待ってください!」

 蘭丸の声は、すでに誰にも届いていなかった。

     ◇

 翌朝。

 口入れ所の前には、また新しい札が立っていた。

 仕事を求むる者、まずここへ。

 盗めば風魔が見る。

 逃げれば長可様が連れ戻す。

 働けば飯が食える。

 その下に、小さくこう書かれている。

 口入れ料、一文。

 蘭丸は、帳面を抱えたまま空を仰いだ。

 江戸自由市では、盗人もただでは終わらない。

 盗みは口入れ所に化ける。

 縄は仕事札に化ける。

 兄上の怖さは、治安の札に化ける。

 そして多米殿の帳面には、今日もまた新しい銭の口が増えるのであった。


――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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