第4帳 菱屋、開く
江戸自由市に、新しい店ができた。
店、と呼ぶには大きすぎる。
蔵、と呼ぶには人の出入りが多すぎる。
市、と呼ぶには、武田菱の札が目立ちすぎる。
入口には、黒い板に赤い菱が描かれていた。
菱屋。
森蘭丸は、その看板を見上げた。
「武田の店、でございますか」
「正しくは、武田御用の取次所にございます」
多米殿は、いつもの無表情で言った。
「取次所」
「はい。京物、堺物、伊勢湾の荷、南蛮物、紙、布、薬、鉄器、香、茶、細工物。江戸で売れるかを試し、欲しい者の注文を受け、次の荷を動かします」
「店ではないのでございますか」
「最初は店です」
「最初は」
「いずれ店ではなくなります」
蘭丸は首をかしげた。
「店が、店ではなくなるのでございますか」
「はい」
「では、何になるので」
「江戸の口にございます」
多米殿の言葉は、いつも分かるようで分からない。
蘭丸が眉を寄せていると、店の中から騒ぎ声が聞こえた。
「これは何だ!」
兄の声だった。
蘭丸は、心の底から嫌な予感がした。
◇
菱屋の中は、江戸とは別の町のようだった。
京の紙。
堺の刃物。
伊勢湾を回ってきた鍋釜。
尾張の布。
駿河の茶。
薬種。
香。
南蛮渡りの硝子玉。
妙な形の匙。
赤く光る布。
見たことのない小箱。
蘭丸は、思わず息をのんだ。
「これほどの品が、江戸に」
「まだ少のうございます」
多米殿は言った。
「これで少ないのでございますか」
「見せる分だけにございます」
その言葉に、蘭丸はまた首をかしげた。
そこへ、森長可が大きな鉄鍋を片手に持って現れた。
「蘭丸」
「兄上、その鍋をどうするおつもりで」
「盾に使える」
「使えませぬ!」
「固いぞ」
「鍋でございます!」
「頭にかぶれば兜にもなる」
「なりませぬ!」
近くにいた堺の商人が、顔を引きつらせていた。
「それは煮炊きに使うものにございます」
「煮炊きにも使えるのか」
「煮炊きに使うものです!」
蘭丸は、頭が痛くなった。
多米殿はすでに帳面を開いている。
「森長可様、堺鉄鍋一つ。未購入。使用目的、盾」
「多米殿、書かなくてよろしい!」
「のちの揉め事を防ぎます」
「揉め事は、兄上が今まさに起こしております!」
長可は鍋を棚へ戻した。
戻したが、少し惜しそうだった。
◇
菱屋には、次々と人が来た。
呉服屋が来る。
薬種屋が来る。
宿の女将が来る。
料亭の女将が来る。
小間物売りが来る。
船頭まで来る。
京の布を見た呉服屋は、目を光らせた。
「この柄を十反、次の荷で入れられますか」
薬種屋は、南蛮渡りの小瓶を手に取った。
「これは薬にございますか、香にございますか」
料亭の女将は、堺の小鍋を指で叩いた。
「これで一人前ずつ煮物を出せば、値を上げられますね」
蘭丸は、少し感心した。
武士は品を見る。
商人は値を見る。
女将は、客の顔を見る。
同じ品でも、見ているものが違う。
多米殿は、そのすべてを帳面へ書いていた。
「京布、呉服屋二軒より注文。堺小鍋、料亭向け。薬種小瓶、用途未定。硝子玉、女房衆向け見込み」
「多米殿」
「何でしょう」
「まだ売れておりませぬ」
「売れます」
「その一言で済ませすぎではございませぬか」
「済みます」
そこへ、風魔小太郎が現れた。
「風魔殿」
「香の匂いがした」
「今日は炭でも飯でもないのですね」
「香も匂いだ」
「それはそうでございますが」
風魔は、店の中をゆっくり見回した。
品ではなく、人を見ている。
「風魔殿は、何を」
「誰が何を欲しがったか」
蘭丸は一瞬、言葉に詰まった。
「それを知って、どうするのでございますか」
「次に何が盗まれるか分かる」
多米殿が、静かに頷いた。
「助かります」
「助かるのでございますか」
「はい」
多米殿は帳面を閉じないまま言った。
「欲しい者が多い品ほど、盗まれます。盗まれる品ほど、次に多く入れるべき品にございます」
蘭丸は、もう一度、店の中を見た。
品が並んでいる。
商人が見ている。
女将が値踏みしている。
風魔が人を見ている。
多米殿が帳面へ書いている。
菱屋は、ただ品を売る店ではない。
江戸が何を欲しがっているかを、探る場所だった。
◇
昼過ぎになると、店の中が騒がしくなった。
原因は、南蛮の硝子玉である。
小さく、丸く、光を受けると妙にきらめく。
商家の娘が見た。
宿の女将が見た。
呉服屋が見た。
そして長可も見た。
「これは何に使う」
「飾りにございます」
蘭丸が答える。
「武器にはならぬのか」
「なりませぬ」
「投げれば痛いだろう」
「投げてはなりませぬ!」
その横で、呉服屋二人が揉め始めた。
「これはうちが先に見た」
「見ただけでは買ったことになりませぬ」
「ならば買う」
「こちらも買う」
多米殿が即座に割って入った。
「硝子玉は、本日は見本にございます」
「売らぬので?」
「注文を受けます」
「今欲しいのですが」
「今売れば、今日で終わります。注文を受ければ、次の荷が動きます」
呉服屋たちは黙った。
蘭丸も黙った。
多米殿は続けた。
「江戸で欲しい者が十人いるなら、次は百持って来ます。百で足りぬなら、千を頼みます」
「千」
蘭丸は思わず聞き返した。
「それほど入るのでございますか」
「欲しい者がいれば」
「いなければ」
「入りませぬ」
多米殿は、当然のように言った。
「ですから、今日は売る日ではございませぬ。欲しがらせる日です」
蘭丸は、少し背筋が寒くなった。
売るより先に、欲しがらせる。
欲しいという声が、次の荷を呼ぶ。
次の荷が、また人を呼ぶ。
江戸は、こうして膨らむのかもしれない。
その時、一人の呉服屋が口を開いた。
「ですが、多米様」
「何でしょう」
「菱屋がそのまま売るなら、我らの店は要りませぬ」
店の中が静かになった。
蘭丸も、多米殿を見た。
それは確かにもっともだった。
武田の菱屋が京物も堺物も南蛮物も売るなら、江戸の商人はただ客を眺めるだけになる。
町は賑わわない。
多米殿は、少しも慌てなかった。
「その通りにございます」
呉服屋が目を瞬いた。
「では」
「菱屋は、江戸の店を潰すために開いたのではございませぬ」
多米殿は帳面を開いた。
「江戸の店を作るために開いたのです」
◇
その場で、新しい札が作られた。
菱屋取扱札。
京布を扱う者。
堺小鍋を扱う者。
薬種を扱う者。
香を扱う者。
硝子玉を扱う者。
それぞれ、菱屋に注文を通し、品が入れば自分の店で売る。
ただし、偽物を混ぜてはならない。
値を吊り上げすぎてはならない。
札なしで武田菱の名を使ってはならない。
「札料を取ります」
多米殿は言った。
蘭丸は、やはりと思った。
「取るのでございますね」
「はい」
「商人たちは納得するのでございますか」
「菱屋から品が回ります。武田菱の信用も使えます。偽物を弾けば、客も来ます」
「それで札料を払う」
「はい」
「菱屋は売らずに、商人が売る」
「はい」
「菱屋は何を得るので」
「注文、札料、取次料、信用、江戸の欲しいものの帳面」
多米殿は淡々と言った。
「十分にございます」
蘭丸は、少し分かった気がした。
菱屋が売れば、菱屋だけが賑わう。
菱屋が回せば、江戸の店が賑わう。
それは、店を開くというより、町に手を増やすことだった。
風魔が低く言った。
「札なしで売る者が出る」
「出る前から言わないでください」
「出る」
多米殿が頷いた。
「出れば、風魔殿の仕事にございます」
「また仕事ができた」
風魔は少しだけ楽しそうだった。
◇
夕刻。
菱屋の前には、新しい札を求める商人たちが並んだ。
呉服屋は京布の取扱札を求めた。
料亭の女将は堺小鍋の取扱札を求めた。
薬種屋は南蛮小瓶の取扱札を求めた。
小間物売りは硝子玉の取扱札を求めた。
そして、なぜか長可も並んでいた。
「兄上」
「俺も札をもらう」
「何の札でございますか」
「堺鍋」
「何にお使いで」
「盾にもなる堺鍋」
「なりませぬ!」
堺の商人が、なぜか少し考え込んだ。
「……固い鍋、という売り文句は使えますな」
「使わなくてよろしい!」
多米殿が筆を動かした。
「堺鍋、丈夫さを売り文句にする案。長可様発案」
「書かないでください!」
「名を使うなら、名札料を取ります」
堺の商人が、さらに考えた。
「払えば、使ってよろしいので」
「兄上の名を使わないでください!」
「ですが、売れそうにございます」
「売れそうでも駄目です!」
長可は満足げに頷いた。
「俺の名で鍋が売れるか」
「兄上、またややこしいことを」
多米殿は冷静に言った。
「名札料は、長可様の未払い飯代に充てます」
長可の顔が曇った。
「またか」
「はい」
「俺の名なのに」
「はい」
「俺の懐には」
「入りませぬ」
蘭丸は、少しだけ安心した。
兄上の名が銭になるとしても、兄上の懐に入るよりは、未払いが減る方がまだよい。
◇
翌朝。
蘭丸は、菱屋の前で足を止めた。
店の中は、昨日より少し寂しくなっていた。
並んでいた品のいくつかが消えている。
「多米殿」
「何でしょう」
「菱屋の品が減っております」
「はい」
「売れたのでございますか」
「いいえ。町へ出しました」
多米殿は通りを指さした。
見ると、呉服屋の軒先に京布が掛かっていた。
料亭には堺小鍋の札が出ていた。
薬種屋には南蛮小瓶の見本が置かれていた。
小間物売りの前では、女房衆が硝子玉を覗き込んでいた。
どの店にも、小さな赤い菱の札がある。
菱屋取扱札。
通りは、昨日よりずっと賑やかだった。
「菱屋は、寂しくなりましたね」
蘭丸が言うと、多米殿は首を横に振った。
「いいえ」
「違うのでございますか」
「菱屋が寂しくなった分、江戸が賑わいました」
蘭丸は、通りを見た。
確かにそうだった。
菱屋だけが賑わうより、町全体が賑わっている。
武田の札が、江戸の店を増やしている。
菱屋は売る店ではない。
売る店を増やす店だった。
その時、料亭の前に新しい札が立てられた。
堺小鍋。
煮炊きに強し。
長可様、盾にしようとしたほど丈夫。
蘭丸は固まった。
「多米殿」
「名札料は取っております」
「そういう問題ではございませぬ!」
長可はその札を見て、腕を組んだ。
「間違ってはいない」
「正しくもございませぬ!」
風魔が横から言った。
「偽物の堺鍋が出る」
「出る前から言わないでください!」
「出る」
多米殿は帳面を開いた。
「では、堺鍋にも改め札を」
「また札が増えるのでございますか!」
蘭丸の声が、朝の江戸に響いた。
江戸自由市では、品を売るだけでは終わらない。
品は店を作る。
店は札を生む。
札は銭を生む。
銭は、また次の荷を呼ぶ。
そして兄上の妙な一言は、今日も新しい売り文句に化けるのであった。
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
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