第2帳 信濃味噌、江戸へ下る
江戸自由市では、荷は毎日入る。
米俵が入る。
炭俵が入る。
魚籠が入る。
布包みが入る。
鉄鍋が入る。
紙束が入る。
そしてその日、信濃から味噌樽が入った。
「味噌でございますか」
森蘭丸は、蔵前に並んだ大きな樽を見上げた。
信濃から甲州街道を下り、江戸まで運ばれてきた味噌である。樽には赤い武田菱の札が付いている。
「信濃味噌にございます」
多米殿は、いつもの無表情で言った。
「兵糧にもなり、飯にもなり、屋台にも使えます」
「それは分かります」
「売れます」
「それも分かります」
「よく売れます」
「まだ開けてもおりませぬ」
蘭丸が言うと、多米殿は樽の蓋を指さした。
「開けましょう」
蔵人が蓋を外す。
むわり、と濃い匂いが立った。
味噌の匂いである。
信濃の山と、蔵と、塩と、時が混じったような匂いだった。
樽の上には、濃い汁が浮いていた。
「上に汁が」
蘭丸が言うと、味噌屋が柄杓を持ち上げた。
「これは捨てます」
「捨てるのでございますか」
「味噌を売るのでございます。上の汁は邪魔で」
「待て」
低い声がした。
森長可である。
蘭丸は嫌な予感がした。
「兄上」
「何だ」
「味噌樽の前で、なぜ刀に手を」
「捨てると言った」
「汁でございます」
「食えるのか」
「それを今から聞くところでございます!」
長可は味噌屋を見た。
「食えるのか」
味噌屋は困った顔をした。
「まあ、塩辛うございますが」
「ならば捨てるな」
多米殿が、静かに頷いた。
「御屋形様も、同じことを仰せでした」
蘭丸は多米殿を見た。
「御屋形様が?」
「はい。味噌樽の上に浮く汁を捨てるな。飯にかけろ、と」
「……なぜ御屋形様は、そのようなことを」
「存じませぬ」
多米殿は表情を変えなかった。
「ただ、試します」
試す。
その言葉に、蘭丸はすでに巻き込まれていることを悟った。
◇
蔵前の片隅で、すぐに小さな火が起こされた。
味噌の上澄みを小鍋に移す。
酒を少し入れる。
火にかける。
ふつふつと表面が揺れ、荒かった匂いが少し丸くなった。
近くにいた船頭が、鼻を動かした。
「何だ、その匂い」
人足も寄ってきた。
「飯か」
「味噌か」
「酒か」
多米殿は即座に言った。
「飯を」
炊き立ての飯が運ばれた。
そこへ、焼いた小魚をほぐして乗せる。
刻んだ葱を散らす。
最後に、火を入れた上澄みを少し垂らした。
湯気が上がる。
蘭丸は椀を見た。
「これが、飯でございますか」
「飯でございます」
「名は」
「まだございませぬ」
多米殿は少し考えた。
「上澄み飯」
「そのままでございますね」
「分かりやすい名は売れます」
その一椀を、最初に取ったのは森長可だった。
「兄上!」
「味見だ」
「またでございますか!」
長可は構わず食べた。
一口。
黙る。
蘭丸は息を止めた。
「……兄上?」
「うまい」
長可は短く言った。
その一言で、人足たちが動いた。
「俺にもくれ」
「いくらだ」
「魚なしなら安くなるか」
「葱多めで」
多米殿の筆が走る。
「上澄み飯、一椀二文。魚入り三文。葱増し、二椀で一文」
「半文は使いにくいと判断されたのですね」
「はい」
「そこは冷静なのでございますね」
「銭は冷静に扱うべきです」
味噌屋が目を丸くしていた。
「あの、これは捨てるつもりの汁で」
「では、仕入れ値は低くできます」
多米殿は即座に言った。
「いや、あの」
「捨てるものに値が付きました。お喜びください」
味噌屋は、喜んでよいのか困ってよいのか分からない顔をした。
蘭丸には、少しだけ分かった。
江戸は恐ろしい。
捨てるはずの汁に、値が付く。
◇
昼過ぎには、蔵前に列ができていた。
船頭が食う。
人足が食う。
荷駄の者が食う。
炭売りが食う。
武士まで食う。
上澄み飯は、あっという間に売れた。
「多米殿」
蘭丸は帳面を覗き込んだ。
「これは、本当に儲かっているのでございますか」
「はい」
「元は、捨てる汁でございますよね」
「はい」
「それが飯になり、銭になる」
「はい」
「江戸とは、そういう町でございますか」
多米殿は、少しだけ蘭丸を見た。
「そういう町にするのです」
その言葉は、妙に重かった。
蘭丸は椀を持つ人足たちを見た。
彼らは笑っていた。
熱い飯をかき込み、味噌の香りに顔を緩めている。
信濃では、兵糧だった。
甲斐では、山から下る荷だった。
江戸では、屋台飯になる。
同じ味噌なのに、場所が変われば役目が変わる。
その時、背後から声がした。
「よい匂いがした」
蘭丸は振り返らなくても分かった。
「風魔殿」
風魔小太郎が、いつの間にか椀を持っていた。
「いつから」
「匂いがした時から」
「それは答えになっておりませぬ」
「忍びなので」
「忍びは飯の列に割り込むための言葉ではございませぬ!」
多米殿が帳面を見た。
「風魔小太郎、一椀。支払い済み」
蘭丸は驚いた。
「払われたのでございますか」
「長可殿と一緒にされたくない」
その言葉に、長可が振り返った。
「聞こえているぞ、風魔」
「聞こえるように言った」
「ならば勝負だ」
「兄上、飯の場で勝負を始めないでください!」
蘭丸の声が飛ぶ。
だが、長可の手にはすでに二椀目があった。
「兄上」
「何だ」
「銭は」
「森家につけろ」
多米殿の筆が、すっと動いた。
「森長可様、上澄み飯二椀。未払い」
「多米殿、早すぎます!」
「未払いは早く付けねば忘れます」
「兄上が忘れる前提でございますか!」
「はい」
長可は、まったく悪びれずに飯を食べていた。
◇
夕刻。
味噌屋は、朝とは違う顔で多米殿に頭を下げていた。
「多米様」
「何でしょう」
「上澄みだけ、別に取っておいた方がよろしいので」
「はい」
「味噌を売る前に」
「はい」
「上澄みを売るので」
「はい」
味噌屋は、しばらく黙った。
「江戸は、味噌まで変えますな」
「変えるのではございませぬ」
多米殿は帳面を閉じた。
「値を付けるだけにございます」
その時、屋台の親父が木札を持ってきた。
「多米様、こう書いてよろしいですかい」
木札には、太い字でこうあった。
長可様御賞味。
上澄み飯。
蘭丸は、すぐに止めようとした。
「なりませぬ!」
だが、長可が先に頷いた。
「よい」
「兄上!」
「俺が食った。間違いではない」
「間違いではございませぬが、正しくもございませぬ!」
屋台の親父は嬉しそうだった。
「これなら売れますぜ」
多米殿は、しばらく札を見ていた。
「使うなら、名札料を取ります」
親父の顔が引き締まった。
「いくらで」
「本日の売上の一割」
「一割!」
「長可様の名で売るのであれば」
屋台の親父は悩んだ。
悩んだが、札を下ろさなかった。
「……払います」
蘭丸は唖然とした。
「払うのでございますか」
「売れますから」
多米殿は頷いた。
「では、帳面に」
長可は腕を組み、満足そうにしていた。
「俺の名で飯が売れるか」
「兄上、喜ぶところでございますか」
「武功ではないが、悪くはない」
蘭丸は、さらに嫌な予感がした。
◇
翌朝。
蔵前には、昨日より長い列ができていた。
木札には、はっきりと書かれている。
長可様御賞味。
上澄み飯。
人足が言った。
「長可様が食ったなら、腹にたまるだろう」
船頭が言った。
「強そうな飯だ」
炭売りが言った。
「二文なら安い」
上澄み飯は、朝のうちに売り切れた。
長可は、それを見て満足げに頷いた。
「見ろ、蘭丸。俺の名で売れている」
「確かに売れております」
「ならば、俺にも銭が入るのか」
多米殿が静かに言った。
「入りました」
長可の顔が明るくなった。
「どれほどだ」
「本日の名札料、十四文」
「おお」
「これを、昨日の未払い飯代に充てました」
長可は固まった。
「……残りは」
「まだ足りませぬ」
「二椀だぞ」
「一椀目の味見、二椀目、三椀目、風魔殿との勝負前に食べた一椀。合計四椀にございます」
「味見は数に入らぬ」
「入ります」
蘭丸は、深く息を吐いた。
その横で、風魔がぽつりと言った。
「上澄み飯が売り切れる方に賭けた者は、皆勝った」
「風魔殿!」
「予測だ」
「絶対に賭けでございます!」
多米殿の筆が止まった。
「その予測の場所は」
風魔は黙った。
「風魔殿」
「匂いがした」
「答えになっておりませぬ」
多米殿は静かに帳面を開いた。
「予測札、調査」
風魔は、初めて少しだけ面倒そうな顔をした。
◇
その日の夕刻。
多米殿の帳面には、新しい項目が増えていた。
信濃味噌。
上澄み。
上澄みだれ。
上澄み飯。
長可様御賞味名札料。
森長可様、未払い飯代一部減。
風魔小太郎、予測札調査。
蘭丸は帳面を見下ろした。
味噌樽の上に浮いた汁でさえ、江戸ではただでは済まない。
捨てるはずの上澄みは飯に化けた。
飯は札に化けた。
札は銭に化けた。
銭は兄上の未払いを、ほんの少しだけ減らした。
「多米殿」
「何でしょう」
「兄上の未払いは、いつなくなるのでございますか」
「長可様が食べるより、名が売れれば」
「それは、かなり難しゅうございますね」
「はい」
長可は遠くで、また上澄み飯を食べていた。
蘭丸は空を仰いだ。
江戸自由市では、味噌の上澄みすら銭になる。
そして兄上の名は、銭になる前に飯になるのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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