第21帳 公方様、館を欲す
鳥じゃがの膳は、思った以上に公方家へ効いた。
足利義氏は飯を足した。
御正室様は、鳥じゃがの汁を褒めた。
御側室二方は、南蛮芋と蕎麦切りを気に入った。
そして多米殿は、すぐに札を立てた。
古河奥向き御求め品。
鳥じゃが。
蕎麦切り。
蒸かし南蛮芋。
石焼き南蛮芋。
辛味噌大根。
焼き魚江戸薄だれ。
要予約。
森蘭丸は、その札を見てため息をついた。
「多米殿」
「何でしょう」
「公方様御一行が来るたびに、札が増えますね」
「はい」
「そして仕事も増えますね」
「はい」
「少しは困ってください」
「困るほど、銭になります」
「そこが困るのでございます」
その時、菱屋の奥座敷から足利義氏が出てきた。
「多米」
「はっ」
「腹も膨れた。少し江戸を見て回る」
蘭丸は慌てて頭を下げた。
「では、黒菱衆町番に道を改めさせます」
「よい。騒がしくないところを通せ」
義氏はそう言った。
だが、江戸に騒がしくないところなど、ほとんどなかった。
◇
義氏は、取次町を見た。
菱屋の表口には見本。
脇口には注文。
裏口には荷受け。
「口が三つあるのか」
「はい」
多米殿が答える。
「詰まらぬよう、分けております」
「飯も品も、人も道も、そなたらは何でも分けるな」
「混ぜると揉めます」
「揉めると?」
「札になります」
「そこへ行くのか」
義氏は呆れたように笑った。
次に、火元町。
蒸かし南蛮芋の湯気が上がり、石焼き南蛮芋の甘い匂いが漂っていた。
御側室の一人が、わずかに足を止める。
多米殿はすぐに筆を動かした。
「石焼き南蛮芋、奥向き追加見込み」
「多米殿、まだ何も仰せになっておりませぬ!」
「足が止まりました」
「そこまで見るのですか」
「商いですので」
義氏は、さらに歩いた。
そして、広場の前で足を止めた。
丸く固められた土。
周りには見物用の簡素な段。
端には屋台の跡。
少し離れたところに、水桶と黒菱衆町番。
「これは何だ」
多米殿が頭を下げた。
「江戸相撲場にございます」
「相撲場とは何だ」
その問いに、森長可が一歩前へ出た。
「見るか?」
蘭丸は、反射で長可の袖を掴んだ。
「兄上!」
長可は不思議そうに蘭丸を見た。
「何だ」
「公方様に相撲を取らせようとなさらないでください!」
「取らねば分からぬ」
「分からなくてよろしゅうございます!」
義氏は、少しだけ興味深そうに土俵を見た。
「見るだけなら、よい」
長可は頷いた。
「ならば、権六を呼べ」
「権六を!」
蘭丸は頭を抱えた。
権六。
かつて最後の上澄み飯一杯を巡って、長可と相撲を取った人足である。
負けはした。
だが、負け方がよかったせいで、妙に人気が出た。
今では江戸相撲場で、力自慢たちの顔役のようになっている。
「兄上、公方様御前でございますよ」
「だから権六だ」
「なぜ」
「前よりは、もつ」
「そういう問題ではございませぬ!」
多米殿の筆は、すでに動いていた。
公方様御覧相撲。
権六再び。
「多米殿も便乗しないでください!」
◇
権六は、すぐに来た。
味噌樽を担いでいた途中だったらしく、肩にはまだ縄の跡が残っている。
「長可様、お呼びで」
「相撲だ」
権六は土俵を見た。
次に、足利義氏を見た。
そして、ぎょっとして頭を下げた。
「公方様の御前でございますか!」
義氏は面白そうに言った。
「そなたが権六か」
「へ、へい」
「前は負けたそうだな」
「負けました」
「今日は勝つか」
権六は、少しだけ長可を見た。
「今日は……三呼吸はもちます」
周りがどっと笑った。
長可も笑った。
「よい」
蘭丸は小声で言った。
「勝つとは言わないのですね」
「正直にございます」
多米殿が答えた。
「そこも人気なのでしょう」
見物人が集まり始めた。
黒菱衆町番が道を分ける。
屋台が遠慮がちに火を入れる。
風魔小太郎が、いつの間にか見物段の陰にいる。
「風魔殿」
「何だ」
「予測は不要です」
「三呼吸か、四呼吸か」
「不要です!」
多米殿の筆が動く。
「公方様御覧相撲、予測札厳禁」
風魔が、少しだけ残念そうにした。
◇
長可と権六が土俵に入った。
権六は以前より腰が低い。
腕も太くなっている。
足も粘りそうだ。
長可は楽しそうだった。
「鍛えたか」
「長可様に飛ばされたままでは、味噌樽にも顔向けできませぬ」
「よい」
多米殿が手を上げた。
「勝負。殴打、噛みつき、刀、鍋の使用は禁じます」
義氏が眉を上げた。
「鍋?」
蘭丸は目を伏せた。
「江戸では、念のためにございます」
「江戸は変わっておるな」
「否定できませぬ」
多米殿の手が下りた。
「始め」
権六が当たった。
重い。
前より、確かに重い。
一呼吸。
長可は動かない。
二呼吸。
権六が足を踏ん張る。
三呼吸。
見物人がどよめいた。
「三つもったぞ!」
「権六!」
「いけるか!」
四呼吸目。
長可の腰が沈んだ。
権六の巨体が、ふわりと浮いた。
次の瞬間、土俵の外へ転がった。
やはり、負けた。
だが、以前とは違った。
権六はすぐに起き上がり、膝をついて頭を下げた。
「四呼吸、もちました」
長可は満足げに頷いた。
「次は五だ」
見物人が沸いた。
義氏も笑った。
「なるほど。これは人が集まる」
多米殿が、すかさず頭を下げた。
「公方様御覧相撲として、相撲場の格が上がります」
「格か」
「はい。格は銭になります」
「そなた、まことに抜け目がないな」
「江戸でございますので」
◇
義氏は、土俵を見渡した。
相撲場。
水練改め。
火元町。
取次町。
菱屋の奥座敷。
古河奥向き御求め品。
江戸には、飯がある。
見物がある。
商いがある。
そして、自分の名で動く札がある。
義氏は、しばらく黙っていた。
それから、多米殿へ言った。
「多米」
「はっ」
「来るたび、菱屋の奥座敷を借りるのも面倒だ」
蘭丸は嫌な予感がした。
義氏は続けた。
「わしの館を用意せよ」
場が静まった。
「館、でございますか」
蘭丸が声を漏らす。
「そうだ。江戸に来るたび、屋台だの菱屋の奥だのでは落ち着かぬ。奥向きもある。使者も来る。御判札の話もある」
長可が言った。
「相撲場なら広い」
「兄上は黙っていてください」
義氏は少し笑った。
「相撲場に住む公方など聞いたことがない」
「見物には来られますか」
多米殿がすかさず言う。
「話が早いな」
「御座所から近い方がよろしゅうございます」
「もう作る気でおるな」
「はい」
蘭丸は多米殿を見た。
「多米殿、公方様の館でございますよ」
「だからにございます」
「なぜ、そこで銭の顔になるのですか」
「公方様の館があれば、関東の者が江戸へ来る口実になります」
多米殿は淡々と言った。
「公方様御成りの御座所。関東諸家の使者の取次。御判札の改め。奥向き御求め品の受取。贈答品の控え。すべて置けます」
義氏は、少し目を細めた。
「わしの館が、また札になるのか」
「札だけではございませぬ」
「では」
「窓口にございます」
「窓口」
「公方様の御名を借り、関東の荷と人を江戸へ通す口にございます」
義氏は、しばらく黙った。
それから、にやりと笑った。
「悪くない」
◇
すぐに絵図が広げられた。
場所は、菱屋に近すぎず、相撲場に近すぎず、火元町から離れ、客道から少し入ったところ。
黒菱衆町番が立ちやすく、奥向きの通り道を分けられる場所。
多米殿は線を引いた。
「古河公方江戸御座所」
蘭丸は、思わず繰り返した。
「江戸御座所」
「はい」
「館ではなく」
「館と書けば、住まわれるかもしれませぬ」
義氏が言った。
「住んでもよいぞ」
「困ります」
多米殿は即答した。
蘭丸はぎょっとした。
「多米殿!」
義氏は声を出して笑った。
「わしに困ると言うか」
「御成りいただくからこそ、値がございます。常におられれば、御成りではなくなります」
「なるほど。たまに来る方が高いか」
「はい」
「そなたは、本当に面白いな」
多米殿は頭を下げた。
「恐れ入ります」
蘭丸は、小声で言った。
「褒められているのでしょうか」
「銭になる方の褒め言葉にございます」
◇
翌朝。
江戸の取次町に、新しい大札が立った。
古河公方江戸御座所。
公方様御成りの折、御座所とす。
関東諸家の使者、ここにて取次。
御判札、ここにて改め。
奥向き御求め品、ここにて受取。
無断宿泊禁制。
相撲場直行、要届け。
初例、足利義氏様。
蘭丸は、札を見て頭を抱えた。
「相撲場直行、要届けとは何でございますか」
多米殿が答えた。
「公方様がまた御覧になりたいと仰せでしたので」
義氏は不満そうに言った。
「わしの館なのに、なぜ届けが要る」
「御座所の警固がございます」
「わしの名で建てるのだぞ」
「ゆえに、傷ませるわけには参りませぬ」
「筋は通っておるな」
「はい」
「管理料は」
「別帳にございます」
「配当から引くなよ」
「御座所維持料にございます」
「なお悪い!」
蘭丸は、そのやり取りを聞きながら、江戸御座所の空き地を見た。
まだ柱もない。
屋根もない。
だが、札が立った瞬間、そこはもう公方様の場所になった。
江戸自由市では、飯を食いに来た公方が、相撲を見て、館を欲しがる。
館は御座所になり、御座所は関東の窓口になる。
窓口には札が立ち、札には銭が流れる。
そして権六は、土俵の端で胸を張っていた。
「四呼吸もちました」
長可は頷いた。
「次は五だ」
義氏も頷いた。
「次は、わしの御座所から見に来よう」
多米殿の筆が動いた。
公方様御覧相撲、次回予約。
「多米殿!」
蘭丸の声が、朝の江戸に響いた。
こうして江戸には、ついに公方様の御座所まで作られることになったのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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