第20帳 那須白粉、膳に上がる
古河公方家から使者が来た。
使者は、江戸の入口で黒菱衆町番に止められ、菱屋の表口ではなく、公方家用の客口へ通された。
それだけでも、以前の江戸とは違う。
使者は、多米殿の前で文を差し出した。
「公方様、近日江戸へ御成り。御正室様、ならびに御側室二方も御同道とのこと」
森蘭丸は、帳面を抱えたまま固まった。
「奥方様方も、でございますか」
「はい」
「江戸へ」
「はい」
使者は淡々と続けた。
「ついては、席を用意せよ、との仰せにございます」
蘭丸は、多米殿を見た。
「多米殿」
「何でしょう」
「席とは、どの席でございますか」
「それをこれから考えます」
「考えていないのですか!」
「公方様だけなら、甘味噌大根の屋台でも何とかなりました」
「何とかしてはいけなかった気もいたします」
「ですが、御正室様と御側室方となれば、屋台では済みませぬ」
森長可が横から言った。
「相撲場なら広い」
「兄上!」
「見物席がある」
「奥方様方を相撲場へ通してどうするのですか!」
「公方も座れる」
「そういう問題ではございませぬ!」
多米殿は、静かに筆を取った。
「公方奥向き席」
「もう書いております!」
「席がなければ、銭も膳も置けませぬ」
「銭はともかく、膳は必要でございますね」
蘭丸は頭を抱えた。
◇
問題は席だけではなかった。
奥向きの方々を通すなら、道を分けねばならない。
男たちが騒ぐ屋台通りを通せない。
水練場の横も避けたい。
相撲場も避けたい。
火元町の煙も避けたい。
多米殿は絵図を広げた。
「菱屋の奥座敷を使います」
「菱屋に奥座敷などありましたか」
「作ります」
「また増える!」
「取次町の奥に、仮座敷を建てます。火元町から離し、客道から少し外し、黒菱衆町番を置きます」
「警固も」
「必要です」
「膳は」
「これから」
蘭丸は、そこで少し青くなった。
「多米殿」
「何でしょう」
「奥方様方に、何をお出しするのですか」
「甘味噌大根だけでは足りませぬ」
「それはそうです」
「蕎麦切りは出せます」
「試し蕎麦切りを?」
「以前よりは切れるようになりました」
「以前よりは、でございますか」
「はい」
長可が言った。
「南蛮芋を出せ」
蘭丸は少し考えた。
「蒸かし南蛮芋なら、確かに」
「石焼きもよい」
「匂いで人が集まります」
「集まればよい」
「奥方様の席が騒ぎになります!」
その時、外から別の使者が駆け込んできた。
「那須より、荷が届きました!」
◇
那須から届いた荷は、小さかった。
米俵でもない。
丸芋の木箱でもない。
小さな袋が三つ。
その袋は、厳重に包まれていた。
多米殿が封を開ける。
中には、白い粉が入っていた。
蘭丸は目を瞬いた。
「白粉でございますか」
「那須白粉にございます」
多米殿の声が、わずかに低くなった。
那須資胤の文も添えられていた。
丸芋は田弱き地にて育ちつつあり。
御指示の通り、一部を潰し、水にさらし、沈みし白き粉を乾かし候。
量は少なけれど、まずは試しとして江戸へ送る。
蘭丸は、袋を見た。
「これが、御屋形様が仰せだった那須白粉」
「はい」
「ついに届いたのですね」
「はい」
長可が覗き込んだ。
「食えるのか」
「兄上、そればかりですね」
「白い粉なら、飯にかけるのか」
「分かりませぬ」
多米殿も、珍しく即答しなかった。
「御屋形様へ報せます」
「今からでございますか」
「公方家の御成りと、那須白粉の到着。二つ重なりました」
「つまり」
「何かに使え、ということでしょう」
「多米殿、御屋形様の考えを先に決めないでください」
「ですが、売れます」
「売る前に聞いてください!」
◇
早馬が飛んだ。
江戸から吉田城へ。
公方家御成りの知らせ。
御正室様、御側室二方の同道。
席の用意。
膳の相談。
那須白粉到着。
返書は、驚くほど早く戻った。
義信の文は短かった。
那須白粉、まず糊に用いるべし。
だが、こたびは膳にも試せ。
蕎麦つゆで、肉と丸芋を煮てみよ。
白粉は、終わり際に少し溶いて入れよ。
汁を逃がすな。
肉は鳥がよい。
強き獣は、奥向きには重い。
蕎麦つゆは薄すぎるな。
されど濃すぎるな。
蕎麦を食わせる汁ではなく、肉と芋を抱かせる汁にせよ。
蘭丸は、読み終えて首をかしげた。
「蕎麦つゆ」
多米殿は頷いた。
「江戸薄だれにございます」
「いつから蕎麦つゆと」
「蕎麦切りに使うようになってから、屋台の者がそう呼び始めました」
「勝手に名が進んでおります」
「名は、使われた方が勝ちます」
長可は、文の別のところを見ていた。
「肉と丸芋を煮る」
「兄上」
「飯が要るな」
「まだ作っておりませぬ!」
「作れば要る」
多米殿の筆が動いた。
「肉丸芋煮。飯付き」
「多米殿まで!」
◇
試しの膳作りは、菱屋の奥で始まった。
まず、蕎麦つゆ。
干し魚。
海藻。
江戸だれ味噌をほんの少し。
酒。
薄く、だが弱すぎぬよう整える。
そこへ、鳥肉を入れる。
長可が顔を寄せた。
「少ない」
「来賓用です」
「俺の分は」
「後でございます」
「後とは、いつだ」
「試しが済んでからです」
次に丸芋を入れる。
那須で育ったものではない。
江戸に残していた控えの丸芋である。
皮をむき、食べやすい大きさに切る。
鳥の汁を吸わせるように、ゆっくり煮る。
鍋の中で、丸芋が少しずつ柔らかくなる。
最後に、那須白粉を少量、水で溶いた。
白い粉は、水に触れると、すぐに沈もうとする。
多米殿がじっと見ていた。
「これを入れるのですね」
「御屋形様の文には、終わり際に少し、と」
蘭丸が答える。
味噌屋が恐る恐る鍋へ入れた。
すると、汁が変わった。
さらりとしていた蕎麦つゆが、少しだけ重くなる。
鳥肉に絡む。
丸芋にまとわりつく。
湯気が、逃げずに鍋の上へ留まるように見えた。
長可が目を細めた。
「汁が逃げぬ」
蘭丸は、思わず長可を見た。
「兄上、珍しくよい表現でございます」
「飯にかけろ」
「いつもの兄上に戻りましたね」
多米殿の筆が走った。
「汁が逃げぬ。長可様評」
「また売り文句に!」
味噌屋が小さく呟いた。
「これは……だれとも汁とも違いますな」
「名を付けるなら」
多米殿が言いかけたので、蘭丸が慌てて止めた。
「まだ早うございます!」
しかし、長可が先に言った。
「鳥じゃが」
場が静まった。
「兄上」
「何だ」
「今、何と」
「鳥じゃが」
「なぜでございますか」
「鳥と、じゃがっとした芋だからだ」
「じゃがっと?」
「丸芋より言いやすい」
多米殿の筆が止まった。
蘭丸は青くなった。
「多米殿、書かないでください」
「書きます」
「なぜ!」
「短い名は売れます」
鳥じゃが。
そう書かれた。
◇
試食は、まず黒菱衆町番の小頭で行われた。
毒見ではない。
熱い膳を運ぶ手順、こぼれやすさ、冷め方を見るためである。
一口食べた小頭は、黙った。
もう一口食べた。
それから言った。
「飯が要ります」
長可が満足げに頷いた。
「ほら見ろ」
次に、宿の女将が食べた。
「奥向きに出せます」
多米殿が尋ねる。
「濃すぎませぬか」
「蕎麦つゆだけなら軽い。鳥が入って膳になる。白粉で汁が絡むので、上品に見えます」
「上品に見える」
多米殿は書いた。
蘭丸は小さく言った。
「多米殿、そこを重視するのですね」
「奥向きには大事にございます」
次に、菱屋の商人が食べた。
「予約制にしましょう」
「まだ一口でございます!」
「鶏が要ります。丸芋が要ります。那須白粉が要ります。急には出せませぬ」
多米殿は頷いた。
「正しい」
蘭丸は頭を抱えた。
料理ができる前に、予約制ができる。
江戸らしいと言えば、江戸らしい。
◇
公方家の御成り当日。
菱屋の奥座敷には、席が整えられた。
上座には、足利義氏。
その奥に御正室様。
左右に御側室二方。
男たちの屋台通りとは離し、火元町の煙も届かない。
黒菱衆町番が外に立ち、風魔は見えないところで目を配る。
膳は、順に出された。
那須米の飯。
蕎麦切り少量。
辛味噌大根。
焼き魚江戸薄だれ。
蒸かし南蛮芋。
そして、鳥じゃが。
義氏は、鳥じゃがの椀を見た。
「これは何だ」
多米殿が頭を下げる。
「鳥と丸芋を、蕎麦つゆで煮たものにございます」
「蕎麦つゆで肉を煮るのか」
「御屋形様の御指示にございます」
「武田殿か」
義氏は一口食べた。
黙る。
御正室様も、静かに箸を伸ばした。
御側室二方も続く。
蘭丸は、座敷の端で息を止めていた。
最初に口を開いたのは、御正室様だった。
「汁が、よく絡みますね」
多米殿の筆が、座敷の隅で動いた。
蘭丸は小声で言った。
「書いておりますね」
「はい」
義氏は、もう一口食べた。
「飯が要る」
長可が外で小さく拳を握った。
「やはりな」
「兄上、なぜ外で聞いているのですか!」
蘭丸が小声で叱る。
義氏は、気づかないふりをしたのか、本当に気づかなかったのか、飯を少し足した。
「悪くない」
多米殿は、さらに書いた。
公方様、飯を足す。
◇
膳が終わると、義氏は多米殿を呼んだ。
「この鳥じゃがとやら」
「はい」
「奥向きへ、また出せるか」
「予約制にございます」
「もう決まっておるのか」
「はい」
「ならば、次も用意せよ」
御正室様が静かに言った。
「南蛮芋も、少し求めたい」
多米殿は頭を下げる。
「生では出せませぬ。蒸かし、または石焼きにて」
「それでよい」
御側室の一人が言った。
「蕎麦切りも、少し」
「承知いたしました」
もう一人が言った。
「鳥じゃがは、汁を多めに」
多米殿の筆が震えるほど走った。
蘭丸は、思わず呟いた。
「多米殿、嬉しそうでございますね」
「奥向きは、継続注文になります」
「言い方!」
義氏は笑った。
「武田殿に伝えよ。妙なものを作る」
「承知いたしました」
「それと」
義氏は多米殿を見た。
「古河奥向き御求め品の札を作るのであろう」
多米殿は、少しだけ驚いた。
だが、すぐに頭を下げた。
「すでに」
「やはりか」
義氏は呆れたように笑った。
◇
翌朝。
取次町に、新しい札が立った。
古河奥向き御求め品。
鳥じゃが。
蕎麦切り。
蒸かし南蛮芋。
石焼き南蛮芋。
辛味噌大根。
焼き魚江戸薄だれ。
要予約。
生芋持ち出し禁制。
那須白粉使用。
その横に、小さな札があった。
鳥じゃが。
鳥と丸芋を蕎麦つゆで煮る。
白粉少し。
汁が逃げぬ。
飯が要る。
初例、古河公方家御膳。
蘭丸は、その札を見てため息をついた。
「多米殿」
「何でしょう」
「ついに、那須白粉が膳に使われましたね」
「はい」
「糊より先に」
「膳にも試せ、との御屋形様の仰せにございます」
「それで、売るのですか」
「まだ売りませぬ」
「珍しく」
「那須白粉は、使い道を増やします」
多米殿は静かに言った。
「糊。蕎麦切り。鳥じゃが。次は、とろみ汁」
「もう次を考えておりますね」
「はい」
長可が鳥じゃがの残りを食べながら言った。
「これは俺の名でも売れる」
「兄上、来賓料理です」
「俺が名を付けた」
「それは否定できませぬが」
風魔が、札の陰から言った。
「鳥じゃがが、次に誰の膳へ上がるか予測できる」
「風魔殿!」
「公方奥向きは強い」
「予測しないでください!」
多米殿の筆が動いた。
「鳥じゃが御膳予測札、厳重調査」
蘭丸は、鳥じゃがの湯気を見た。
那須で隠れて作られた白い粉。
江戸で整えられた蕎麦つゆ。
丸芋。
鳥肉。
公方家の奥向き。
それらが一つの椀に入った。
江戸自由市では、粉も汁も芋も肉も、ただでは終わらない。
混ざり、絡み、名を付けられ、札になり、予約になり、また次の膳へと流れていく。
そして鳥じゃがは、その日から江戸の来賓料理として、静かに名を広げ始めたのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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