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第18帳 黒菱衆、町に立つ

 江戸外町割が始まると、町はさらに騒がしくなった。

 荷捌き町。

 蔵町。

 火元町。

 馬留め町。

 取次町。

 細工町。

 見物町。

 札が立ち、杭が打たれ、人が動いた。

 人が動けば、荷も動く。

 荷が動けば、火も動く。

 火が動けば、騒ぎも起きる。

 その日、火元町で小火が出かけた。

「火だ!」

 煮売り屋の火が、風に煽られた。

 火の粉が飛び、隣に積んでいた薪へ移りかける。

 屋台の親父が慌てて水桶を探す。

 人足が荷をどかす。

 客が逃げる。

 味噌だれの鍋が揺れる。

 森蘭丸が駆けつけた時には、森長可がすでにいた。

「兄上!」

「燃える前に壊せ」

 長可は、隣の仮小屋に手をかけていた。

「まだ燃えておりませぬ!」

「燃えてからでは遅い」

「だからといって、勝手に壊してよいわけではございませぬ!」

 長可は小屋の柱を見た。

「軽い」

「重さの話ではございませぬ!」

 そこへ、森可成が現れた。

「長可」

 低い声だった。

 長可の手が止まる。

「父上」

「壊すにも順がある」

「火は待ちませぬ」

「だから、前もって決めておく」

 可成は火元町を見た。

 水桶はある。

 井戸も近い。

 だが、人が多く、荷が多く、誰が何をするか決まっていない。

 水を汲む者。

 火を叩く者。

 荷をどかす者。

 客を逃がす者。

 隣の小屋を壊す者。

 皆が慌て、皆が叫び、誰も全体を見ていなかった。

「蘭丸」

「はっ」

「黒菱衆を呼べ」

     ◇

 江戸には、黒菱衆五千がいる。

 森可成の下に置かれた、武田の精兵である。

 蘭丸は、黒菱衆といえば戦場の者だと思っていた。

 槍を持ち、敵を待つ。

 城を守り、道を塞ぎ、敵を押し返す。

 だが江戸では、敵はいつも槍を持って来るとは限らない。

 火。

 盗人。

 酔った船頭。

 揉める商人。

 逃げる馬。

 積みすぎた荷車。

 そして、すぐ壊そうとする兄上。

 可成は火元町の中央で、黒菱衆の小頭たちを集めた。

「五千すべてを町へ散らすわけではない」

 可成は言った。

「本陣に槍は残す。だが、町にも目と手を置く」

 多米殿が帳面を開いた。

「港番」

 一人の小頭が頭を下げる。

「蔵町番」

 別の小頭が進む。

「火元町番」

 火元町の前へ、黒菱衆が並ぶ。

「馬留め町番。取次町番。見物町番。夜回り。伝令。予備」

 蘭丸は、黒い羽織に赤い武田菱を見た。

 戦場で見れば威圧である。

 だが、町に立つと、別の意味を持つ。

 店の者がほっとした顔をした。

 荷主が安心した顔をした。

 屋台の親父が火元を整え始めた。

「父上」

 蘭丸は小さく言った。

「黒菱衆を、町の番にするのでございますか」

「江戸を守るのも、戦だ」

 可成は答えた。

「敵が火なら火を押し返す。敵が盗人なら捕らえる。敵が喧嘩なら割って入る。敵が詰まりなら、流す」

 蘭丸は黙った。

 町を守る兵。

 それは、槍を振るうだけの兵ではなかった。

     ◇

 多米殿はすぐに札を書いた。

 黒菱衆町番定め。

 港番。

 蔵町番。

 火元町番。

 馬留め町番。

 取次町番。

 見物町番。

 火の番。

 夜回り。

 荷守り。

 喧嘩止め。

 井戸桶改め。

 壊し役。

「壊し役」

 蘭丸が眉をひそめる。

「はい」

 多米殿は頷いた。

「火が広がる時は、隣の小屋を壊さねばならぬことがあります」

「それは分かります」

「ですが、勝手に壊せば揉めます」

「兄上のことですね」

「はい」

 長可が不満そうに言った。

「俺だけではない」

「兄上が一番早いのです」

 多米殿はさらに書いた。

 壊し札なき破却、禁制。

 ただし火急の時は、町番小頭の判断を許す。

 長可様の独断破却、禁制。

「多米!」

 長可が声を上げる。

 蘭丸は慌てて札を見た。

「多米殿、最後の一行は」

「必要にございます」

「兄上が怒ります」

「怒っても、小屋よりは燃えませぬ」

「言い方!」

 可成は札を見て、少しだけ笑った。

「よい。長可、覚えよ」

「父上まで」

「壊す時は、小頭に聞け」

「火急なら」

「小頭が火急と見れば、壊せ」

 長可はしばらく黙った。

「小頭が遅ければ」

「お前が小頭を担いで連れて行け」

 蘭丸は目を見開いた。

「父上、それもどうかと」

 長可は納得した。

「分かりました」

「分かってしまわれた!」

     ◇

 火元町の小火は、黒菱衆町番の初仕事になった。

 火元町番が客をどける。

 桶番が水を回す。

 蔵町番が薪を離す。

 港番から駆けた者が濡れ筵を持ってくる。

 長可は、壊し札を持つ小頭の横で待った。

「壊すか」

「まだです」

「まだか」

「まだです」

「今か」

「まだです」

 蘭丸は、それを見て胃が痛くなった。

 だが、小火は広がらなかった。

 水が回り、薪が離され、火は叩かれ、煙だけが残った。

 屋台の親父は、真っ青な顔で頭を下げた。

「申し訳ございませぬ」

 多米殿は言った。

「火元札を改めます」

「はい」

「薪を近くに積みすぎました」

「はい」

「罰銭」

「はい……」

「ただし、火元町番の働きにより延焼なし。屋台再開は、火元改め後」

 親父はほっとしたように頭を下げた。

 蘭丸は多米殿を見た。

「罰だけではないのですね」

「火を使う者を潰せば、飯が消えます」

「では」

「火を使わせるために、火を縛ります」

 多米殿は、いつものように答えた。

     ◇

 その日の夕刻、各町に黒菱衆の小隊が立った。

 港には港番。

 蔵町には蔵町番。

 火元町には火元町番。

 馬留め町には馬留め町番。

 取次町には取次町番。

 見物町には見物町番。

 槍を構えて威張るのではない。

 道を塞ぐ荷をどかす。

 喧嘩の間に入る。

 火元の桶を数える。

 井戸の水を見張る。

 夜に怪しい者を止める。

 迷った荷車を荷道へ戻す。

 町の者たちは最初、少し怖がった。

 だが、すぐに慣れた。

「黒菱様、こちらの荷はどこへ」

「蔵町へ回せ」

「火元札はどこで」

「多米殿の所だ」

「馬が暴れた!」

「馬留め町番を呼べ」

 黒菱衆は、敵ではなく目印になった。

 多米殿は、それを見て静かに言った。

「安心は銭になります」

 蘭丸は聞き返した。

「兵を置くと、商いになるのでございますか」

「はい」

「なぜ」

「盗まれぬ。燃えぬ。揉めても止まる。そう分かれば、店は開きます。荷は来ます。客も来ます」

 蘭丸は、黒菱衆の背を見た。

 黒い羽織に赤い武田菱。

 戦場では敵を怯えさせる色。

 江戸では、商人を安心させる色になろうとしていた。

     ◇

 風魔小太郎は、町番の様子を遠くから見ていた。

「風魔殿」

 蘭丸が声をかける。

「何だ」

「町番が立てば、風魔殿の仕事は減りますか」

「減らぬ」

「そうなのですか」

「表は黒菱。裏は風魔」

「裏」

「火種は、火になる前に匂う。盗人は、盗む前に見る。喧嘩は、殴る前に声が変わる」

 風魔は火元町を見た。

「我らが匂いを拾い、黒菱が足で止める」

 蘭丸は、少し納得した。

 風魔は見えない目。

 黒菱衆は見える手。

 江戸は、表と裏で守られる。

 多米殿がそれを聞いて、帳面に書いた。

 風魔、火種を嗅ぐ。

 黒菱衆、足で止める。

「多米殿、それも書くのですか」

「分担にございます」

「風魔殿のことを書いてよいのですか」

「忍びなので、読めぬように書きます」

 風魔が言った。

「読める」

「では、もう少し崩します」

「崩しても読める」

「忍びは面倒でございますね」

 蘭丸は、どちらに言ったのか分からなくなった。

     ◇

 翌朝。

 江戸の各町に、新しい札が立った。

 黒菱衆町番定め。

 港番、蔵町番、火元町番、馬留め町番、取次町番、見物町番。

 火の番、夜回り、荷守り、喧嘩止め、井戸桶改め。

 壊し札なき破却、禁制。

 火急の時は、町番小頭の判断を許す。

 長可様の独断破却、禁制。

 初例、火元町小火。

 蘭丸は、最後から二行目を見てため息をついた。

「兄上、また名が出ております」

 長可は腕を組んだ。

「俺は壊しておらぬ」

「壊そうとはしました」

「燃える前に壊すのは正しい」

 多米殿が頷いた。

「少し正しゅうございます」

「多米殿!」

「ですが、独断は困ります」

 長可は札を見つめた。

「では、火急なら小頭を担げばよい」

「そこを覚えないでください!」

 その横で、可成が静かに町を見ていた。

「蘭丸」

「はっ」

「黒菱衆は、戦場だけの兵ではない」

「はい」

「江戸を守れねば、江戸で食うこともできぬ」

 蘭丸は深く頭を下げた。

 江戸自由市では、火を消す者だけが必要なのではない。

 火を広げぬ者。

 荷を止めぬ者。

 喧嘩を大事にせぬ者。

 夜の町に目を置く者。

 黒菱衆五千は、槍を持ったまま、少しずつ町の骨になっていく。

 そしてその日から、江戸の商人たちは、黒い羽織に赤い菱を見ても、逃げなくなった。

 むしろ、その近くに店を出すようになった。

 多米殿は、それを見て静かに言った。

「やはり、安心は銭になります」

 風魔が隣で呟いた。

「どの町番の近くが一番売れるか、予測できる」

「風魔殿!」

「予測だ」

 多米殿の筆が動いた。

「町番前売上予測札、厳重調査」

 蘭丸は、もはや何度目か分からないため息をついた。

 江戸では、兵まで商いに化ける。

 敵を斬るための黒菱衆は、火を止め、荷を守り、町を流すための黒菱衆になった。

 なお、森長可だけは、しばらく火元町を歩くたびに小頭を見つめ、

「担ぐぞ」

 と言っては、蘭丸に止められるのであった。


――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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