第17帳 江戸は外へ逃げる
江戸自由市は、また詰まり始めていた。
荷道は分けた。
客道も分けた。
空車戻り道も作った。
菱屋の表口、注文口、荷受口も分けた。
それでも、詰まった。
那須米が来る。
帰り荷が出る。
港には船が増える。
屋台には人が並ぶ。
相撲場には力自慢が来る。
水練改めには水夫が集まる。
道を分けたら、荷が増えた。
荷が増えたら、人が増えた。
人が増えたら、また道が詰まった。
森蘭丸は、朝から帳面を抱えて頭を抱えていた。
「多米殿」
「何でしょう」
「御屋形様の仰せ通り、流れを作ったはずでございます」
「はい」
「なのに、なぜ詰まるのでございますか」
「流れがよくなったからにございます」
「流れがよくなったのに、詰まるのですか」
「はい。流れがよくなれば、流れる荷が増えます」
蘭丸は、しばらく黙った。
「江戸は、面倒な町でございますね」
「はい」
多米殿は即答した。
◇
詰まりの元は、道だけではなかった。
蔵が足りない。
宿が足りない。
馬を留める場所が足りない。
火を使う屋台が増えすぎた。
菱屋の周りに小店が張り付きすぎた。
港近くの空き地には、誰かが勝手に小屋を建て始めている。
「道を広げますか」
蘭丸が言うと、多米殿は首を横に振った。
「道を広げれば、店が潰れます」
「では、店をどかしますか」
「どかせば、揉めます」
「では、どうするのでございますか」
「江戸を外へ逃がします」
蘭丸は顔を上げた。
「外へ」
「はい」
多米殿は絵図を広げた。
港のそば。
荷捌き場の外。
火元から離れた空き地。
馬を置ける広い場所。
職人が音を出してもよい場所。
そこへ、細い線が引かれていた。
「荷捌き町」
多米殿が言う。
「重い荷は、港の近くで分けます」
次に、別の線。
「蔵町。米、炭、味噌、鉄。重いものはここへ」
また線。
「火元町。屋台、煮炊き、焼き物は水場に寄せます」
また線。
「馬留め町。宿と馬屋をまとめます」
また線。
「取次町。菱屋の外へ、小商いを逃がします」
蘭丸は、絵図を見た。
江戸の外に、さらに江戸が描かれている。
「これは、町を増やすのでございますか」
「町を逃がすのでございます」
「同じでは」
「違います」
多米殿は、いつもの無表情で言った。
「増やすと言えば、皆が欲しがります。逃がすと言えば、詰まった者から動きます」
「言い方の問題でございますか」
「商いでは、言い方も銭にございます」
◇
問題は、誰が動くかだった。
人は、一度場所を取ると動きたがらない。
屋台の親父は言った。
「ここは客が通るんだ」
宿の女将は言った。
「馬留め町は遠い」
米蔵の番人は言った。
「蔵を移せば、手間がかかる」
菱屋の脇に店を出した小商人は言った。
「菱屋の隣だから売れるんです」
多米殿は、すべて聞いた。
そして木札を出した。
「移り札を作ります」
蘭丸は、嫌な予感がした。
「また札でございますか」
「はい」
「どのような札で」
「外町へ移る者は、初月の地代を半分にします」
屋台の親父たちが顔を上げた。
「火元町へ移る屋台には、水場を近くに用意します」
煮売りの者たちがざわつく。
「蔵町へ移る蔵には、荷捌き札を優先します」
米蔵の番人が黙った。
「馬留め町へ移る宿には、帰り荷の商人を回します」
宿の女将の目が変わった。
「取次町へ移る小店には、菱屋取扱札を見やすい場所に出せます」
小商人たちが顔を見合わせた。
蘭丸は、多米殿を見た。
「追い出すのではなく、移る利を作るのですね」
「はい」
「ずるいですね」
「効きます」
◇
そこで森長可が現れた。
「杭を打つのか」
「兄上」
「町境なら、杭だろう」
多米殿は頷いた。
「長可様には、外町の杭打ちをお願いしたく」
「よい」
「兄上に任せてよいのですか」
蘭丸は小声で言った。
「杭打ちは力が要ります」
「力以外も要ります!」
長可は、すでに太い杭を担いでいた。
「細い杭では折れる」
「誰がそんな大きな杭を」
「俺が選んだ」
「でしょうね!」
長可は外町の境へ行き、杭を打った。
どん。
地面が鳴った。
もう一本。
どん。
さらに一本。
どん。
小屋の主が慌てて出てきた。
「そこは、うちの小屋の前で」
「なら、動かせ」
長可は小屋の柱に手をかけた。
「兄上!」
「軽い」
「軽いかどうかではございませぬ!」
蘭丸が止めると、多米殿が静かに言った。
「小屋移り札を出します」
「多米殿まで!」
「勝手小屋は、外町へ移すよい機会にございます」
小屋の主は、長可と多米殿を見比べた。
「地代は」
「初月半分」
「水場は」
「近くに」
「なら……」
主は、少し考えてから言った。
「移ります」
蘭丸は目を丸くした。
「移るのですか」
「長可様に持ち上げられるよりは」
多米殿の筆が動いた。
「長可様、小屋移転促進」
「その書き方はやめてください!」
◇
夕刻までに、外町の杭は並んだ。
荷捌き町。
蔵町。
火元町。
馬留め町。
取次町。
細工町。
見物町。
まだ空き地ばかりである。
だが、札が立つと、人はそこに町を見る。
屋台が一つ移った。
馬屋が一つ移った。
米蔵の者が場所を見に来た。
小商人が菱屋取扱札の位置を確認した。
職人が音を出してよいかと尋ねた。
多米殿は、絵図に小さく印をつけていく。
「動き始めました」
蘭丸は外町を見た。
「まだ、何もないように見えますが」
「何もないから、動けます」
多米殿は言った。
「詰まってからでは遅うございます」
その言葉は、どこか御屋形様の言葉に似ていた。
詰まる前に、逃げ道を作る。
道にも。
荷にも。
人にも。
町にも。
◇
翌朝。
江戸の入口に、新しい大札が立った。
江戸外町割。
荷捌き町。
蔵町。
火元町。
馬留め町。
取次町。
細工町。
見物町。
移り札ある者、初月地代半分。
無断杭抜き禁制。
初例、森長可様。
蘭丸は、最後の一行を見て眉をひそめた。
「兄上、杭を抜いたのですか」
長可は腕を組んだ。
「曲がっていた」
「曲がっていたから抜いたのですか」
「真っ直ぐ打ち直した」
多米殿が言った。
「真っ直ぐかどうかではございませぬ」
「では何だ」
「帳面に合うかどうかにございます」
長可は、しばらく黙った。
「面倒だな」
「町とは、面倒なものにございます」
蘭丸は深く頷いた。
その横で、風魔小太郎が外町を見ていた。
「どの町が先に埋まるか、予測できる」
「風魔殿!」
「火元町は早い」
「聞いておりませぬ!」
多米殿の筆が静かに動いた。
「外町予測札、厳重調査」
蘭丸は、またため息をついた。
江戸自由市では、町は広げるものではない。
詰まる前に、逃がすものだ。
荷が逃げ、人が逃げ、火が逃げ、馬が逃げ、店が逃げる。
逃げた先に札が立ち、杭が立ち、銭が動く。
そして何もなかった外の空き地は、その日から江戸の続きになった。
なお、森長可だけは、しばらく新しい町境を見回っては、曲がった杭を抜こうとして蘭丸に止められるのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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