第16帳 那須白粉、まだ売るな
江戸水練改めの札が港に立った翌日、江戸自由市に那須から文が届いた。
差出人は、那須資胤。
那須米が江戸で売れたこと。
帰り荷として塩、干物、堺小鍋、江戸だれ味噌を積めたこと。
関銭が定まれば、次も荷を出せそうなこと。
礼の文は、武骨ではあった。
だが、筋は通っていた。
多米殿は、その文を読み終えると、静かに帳面へ写した。
「多米殿」
森蘭丸は横から覗き込んだ。
「何でしょう」
「那須殿は、喜んでおられるのでございますか」
「はい」
「よかったではございませぬか」
「はい」
「では、なぜそのように難しい顔を」
「続きがあります」
多米殿は、文の後半を指した。
そこには、こう書かれていた。
那須は、米を多く出せる地にはあらず。
江戸の口はありがたきことなれど、米ばかりでは続かぬ。
那須より江戸へ出せるもの、ほかにあらば御教示願いたし。
蘭丸は、少し黙った。
「米が売れたのに、米だけでは続かぬのですね」
「はい」
「江戸は難しゅうございますね」
「江戸ではなく、土地が難しいのでございます」
多米殿は言った。
「米を出せる地は、米を出せばよろしい。ですが、米が強くない地に、米ばかり求めれば、土地が疲れます」
蘭丸は、那須米の俵を思い出した。
初荷として来た那須米は売れた。
だが、それは那須が米どころになるという意味ではない。
那須には那須の腹がある。
「それで、どうなさるのですか」
「御屋形様へ、伺いを立てました」
「いつの間に」
「昨日のうちに」
「早うございますね」
「米の話は遅らせると腐ります」
そこへ、森長可が現れた。
「米か」
「兄上、違います」
「那須米なら、昨日食った」
「違います」
「では、何だ」
多米殿は文を畳んだ。
「まだ、分かりませぬ」
蘭丸は首をかしげた。
多米殿が、分からないと言う時は、だいたい大きな面倒が来る。
◇
その日の夕刻、武田義信から返書が届いた。
赤い封ではない。
派手な印もない。
だが、封は固く、開ける者を選ぶ文だった。
使者は多米殿の前に膝をついた。
「御屋形様より、多米殿へ」
多米殿は深く頭を下げ、文を受け取った。
蘭丸は横で息を呑んだ。
「密命でございますか」
「大げさに言うものではございませぬ」
多米殿はそう言ったが、声はいつもより低い。
長可が近づこうとした。
「俺も見る」
「兄上は駄目です」
「なぜだ」
「密命でございます」
「ならば、なおさら見たい」
「そういうものではございませぬ!」
多米殿は封を切った。
文は短かった。
だが、重かった。
那須資胤の文、見た。
多米が申す通り、那須は米を多く出す地ではない。
されど、何も無き地ではない。
丸芋を渡せ。
食わせるな。増やさせよ。
田の弱き地、冷える地、水の利薄き畑に植えさせよ。
芽と青きところは食わせるな。毒になる。
那須は街道の大筋より少し外れている。
人目も薄い。
内密に物を試すには、ちょうどよい。
増えた後、一部を潰し、水にさらし、沈む白き粉を取らせよ。
その粉は、那須白粉と仮に呼ぶ。
種芋は外へ出すな。
粉だけを江戸へ戻せ。
芋を出せば真似される。
粉なら、ただの荷だ。
蘭丸は、最後の一文で息を止めた。
「多米殿」
「何でしょう」
「これは、菱屋で売る荷ではございませぬね」
「はい」
「那須殿へ渡すのですね」
「はい」
「商人ではなく」
「那須家へ」
多米殿は、文を丁寧に畳んだ。
「これは商いではございませぬ」
「では」
「仕込みにございます」
◇
丸芋は、菱屋の奥に残されていた。
南蛮甘藷は、すべて御屋形様が持ち帰った。
だが、丸い芋の方は、まだ江戸にある。
売るな。
食わせるな。
田の弱い地で試せ。
そう命じられた芋である。
多米殿は、丸芋を一つずつ改めた。
「二十六」
「前と同じ数でございますね」
「長可様が食べておらねば」
「食べておりませぬ!」
蘭丸が叫ぶと、長可は不満そうに腕を組んだ。
「毒と言われたからな」
「毒と言われなければ食べていたのですね」
「煮れば食えると言った」
「まだ駄目です!」
多米殿は木箱を閉じた。
「十六を那須へ。六を江戸で控え。四を失敗に備えます」
「失敗に備えるのでございますか」
「必ず失敗します」
「言い切りましたね」
「新しいものは、失敗します」
多米殿は木札を書いた。
丸芋御用種。
那須家預け。
生売り禁制。
食用禁制。
種芋外出し禁制。
芽、青きところ、食用禁制。
那須白粉、内密。
蘭丸は、最後の一行を見て眉をひそめた。
「那須白粉とは」
「御屋形様の仮名にございます」
「白粉というと、女房衆のものでは」
「これは違うようです」
「では、何でございますか」
「文によれば、潰し、水にさらし、沈む白き粉」
「食べ物ですか」
「分かりませぬ」
「多米殿にも分からぬのですか」
「はい」
多米殿は、珍しく素直にそう言った。
「ですが、御屋形様は、粉だけを戻せと仰せです」
「芋ではなく」
「芋ではなく」
「なぜでございましょう」
「芋は植えれば増えます」
「はい」
「粉は植えても増えませぬ」
蘭丸は、ようやく少しだけ分かった。
「増やし方を、隠すのでございますか」
「はい」
多米殿は頷いた。
「商いではなく、囲い込みにございます」
風魔小太郎が、いつの間にか蔵の陰にいた。
「隠す匂いがする」
「風魔殿」
「これは、荷ではない」
「では、何でございますか」
「種だ」
風魔は丸芋の木箱を見た。
「種は、盗まれる」
蘭丸は背筋が冷えた。
今まで、江戸の荷は人を集めるものだった。
米、炭、味噌、蕎麦粉、魚、布、鍋。
売ればよい。
札にすればよい。
流せばよい。
だが、これは違う。
流してはならない荷である。
◇
多米殿は、その場で那須資胤への返書を用意した。
文面は丁寧だった。
那須米初荷の礼。
江戸納入札の継続。
帰り荷望み欄の利用。
そして、丸芋御用種の預け。
ただし、肝心なところは短い。
田弱き地に植えよ。
冷え、水利薄き畑を選べ。
食わせるな。
売るな。
種を外へ出すな。
芽と青きところ、口に入れるべからず。
増えた後、潰して水にさらし、沈む白き粉を取れ。
粉のみ、江戸へ戻せ。
蘭丸は、文を見ながら言った。
「多米殿」
「何でしょう」
「これは、那須殿に失礼ではございませぬか」
「何がでしょう」
「米の礼に、食べられぬ芋を送り、増やせ、売るな、食うな、粉にせよ、と」
「失礼ではございませぬ」
「なぜ」
「御屋形様の密命にございます」
「それで通るのでございますか」
「那須殿が、何か無いかと問うてきました」
「はい」
「何かを返すのです」
「丸芋を」
「はい」
「食えぬ丸芋を」
「今は」
「今は?」
「増えれば、腹になります」
多米殿は、少しだけ声を低くした。
「那須が米を多く出せぬなら、米でない腹を持つべきにございます」
蘭丸は黙った。
米が来る町、江戸。
その江戸から、米ではない腹が那須へ送られる。
不思議な流れだった。
◇
問題は、誰に運ばせるかだった。
那須へ米を運んできた商人に持たせれば早い。
だが、多米殿は首を横に振った。
「商人には持たせませぬ」
「なぜでございますか」
「商人は、売れると思えば売ります」
「密命と伝えれば」
「売れる密命ほど危ういものはございませぬ」
風魔が頷いた。
「人は、秘密に値を付ける」
「風魔殿が言うと重うございますね」
「忍びなので」
多米殿は、那須家の使者を呼んだ。
米の礼状を持ってきた者である。
その者は、文と木箱を前にして、緊張していた。
「これは、那須殿へ直接お渡しせよ」
多米殿が言った。
「途中で開けてはならぬ。数を減らしてはならぬ。濡らしすぎても、乾かしすぎてもならぬ」
「承知いたしました」
「食うな」
「食いませぬ」
「煮てもならぬ」
「煮ませぬ」
「芽と青きところは毒にございます」
使者の顔が強張った。
「毒でございますか」
「毒です」
長可が横から言った。
「だから俺も食っておらぬ」
「兄上は黙っていてください」
使者は木箱を見て、ますます緊張した。
「これほど大事なものなので」
多米殿は答えた。
「那須の腹になるかもしれぬものにございます」
使者は、深く頭を下げた。
◇
丸芋の木箱は、夜明け前に江戸を出た。
表向きは、那須家への返礼。
帳面上は、御用種。
商いの荷ではない。
蘭丸は、荷が出ていくのを見送った。
風魔の者が、遠くからついている。
「風魔殿」
「何だ」
「見張るのでございますか」
「見張る」
「那須まで?」
「途中まで」
「なぜ」
「種は、途中で消える」
蘭丸は、木箱を見た。
米俵でも、金でも、硝子玉でもない。
ただの芋である。
それでも、盗まれるかもしれない。
それが不思議だった。
風魔は言った。
「米は食えば終わる」
「はい」
「種は、植えれば増える」
「はい」
「増えるものは、銭より厄介だ」
蘭丸は、その言葉を胸に留めた。
◇
丸芋が出た後、多米殿は別の木札を作った。
那須白粉、まだ売るな。
蘭丸は、その札を見て首をかしげた。
「多米殿」
「何でしょう」
「まだ届いてもおりませぬ」
「はい」
「粉も出来ておりませぬ」
「はい」
「なのに、なぜ売るなと」
「届いた時に、誰かが売ると言い出すからです」
「誰が」
多米殿は黙って蘭丸を見た。
蘭丸は、少し嫌な予感がした。
「まさか、多米殿ご自身では」
「売れます」
「やはり!」
多米殿は、少しも悪びれなかった。
「白き粉。内密。那須産。御屋形様の御指令。これだけで値が付きます」
「だから売ってはならぬのでは」
「はい。ですから、今のうちに札を立てます」
「自分を止めるためでございますか」
「江戸を止めるためです」
長可が札を見た。
「白粉なら、女が使うのか」
「兄上まで」
「売れるなら、なぜ売らぬ」
多米殿は、義信の文を思い出すように言った。
「売れば終わります。使い道を増やせば、値が育ちます」
蘭丸は、その言葉に少しだけ納得した。
米は食う。
味噌は売る。
蕎麦は切る。
水は札にする。
相撲は見物にする。
だが、那須白粉は、まだ売らない。
売らずに、育てる。
◇
数日後、義信から追加の文が届いた。
そこには、さらに短く書かれていた。
米は飯にせよ。
糊にはするな。
丸芋より白き粉を取り、札と帳面を貼れ。
食う米を、貼る米にするな。
蘭丸は、その一文を読んで固まった。
「多米殿」
「何でしょう」
「今、何と」
「米は飯にせよ。糊にはするな」
「糊」
蘭丸は、屋台通りと米蔵を思い出した。
江戸では米を集めている。
人に食わせるためである。
だが、札を貼るにも、帳面を直すにも、米粒を練って糊にすることがある。
江戸は札だらけだ。
長可避け。
水札。
だれ札。
相撲札。
水練札。
江戸納入札。
帰り荷取次札。
札を増やすたびに、飯粒も少しずつ潰されていた。
「多米殿」
「何でしょう」
「米を食うために集めているのに、札を貼るためにも潰していたのでございますか」
「はい」
「札を減らせばよいのでは」
「江戸が止まります」
「即答ですね」
「札がなければ、揉めます。揉めれば、荷が止まります。荷が止まれば、飯が減ります」
「その飯を貼るために使う」
「そこが問題にございます」
多米殿は、義信の文を丁寧に畳んだ。
「御屋形様は、それを見ておられたのでしょう」
蘭丸は、少し寒気がした。
道を見る。
蔵を見る。
帰り荷を見る。
関銭を見る。
そして、札を貼る飯粒まで見る。
御屋形様の目は、どこまで届いているのか。
◇
翌朝。
多米殿は、新しい帳面を作った。
那須御用畑控。
丸芋御用種控。
那須白粉控。
糊米削減控。
蘭丸は、最後の帳面を見て顔をしかめた。
「糊米削減控」
「はい」
「そのような帳面まで作るのでございますか」
「米を飯に戻す帳面です」
「聞こえはよいですが、また仕事が増えました」
「はい」
長可が横から言った。
「つまり、米は食ってよいのだな」
「それは最初からそうです」
「糊にするな」
「兄上は、糊にしませぬでしょう」
「分からぬぞ」
「分かってください!」
風魔が静かに言った。
「那須白粉が届けば、札が増える」
蘭丸は振り返った。
「なぜそうなるのでございますか」
「糊が増えるから」
「風魔殿!」
多米殿は、静かに筆を取った。
「那須白粉到着後、札増加注意」
「多米殿まで!」
多米殿は真顔だった。
「糊が増えれば、貼れるものが増えます」
「増やさなくてよろしい!」
「流れを貼り合わせるために必要です」
蘭丸は、義信の言葉を思い出した。
荷は、来てから考えるな。
来る前に流れを作れ。
今度は、粉が来る前に帳面が作られている。
江戸自由市では、まだ届かぬ粉にすら、先に札が立つ。
◇
その日の夕刻、那須へ向かう使者から、最初の報せが届いた。
丸芋御用種、無事に中継地を通過。
箱、異常なし。
数、十六。
風魔の者、陰にあり。
多米殿は、それを帳面に写した。
「よろしゅうございます」
蘭丸はほっとした。
「まだ植えてもおりませぬが」
「はい」
「まだ増えてもおりませぬが」
「はい」
「まだ粉にもなっておりませぬが」
「はい」
「それでも、よろしいのですね」
「流れ始めましたので」
蘭丸は、那須へ向かった木箱を思った。
江戸から那須へ、丸芋が行く。
那須で、誰にも知られず増やされる。
一部は潰され、水にさらされ、白い粉になる。
その粉だけが、いつか江戸へ戻る。
それは米でもない。
飯でもない。
まだ荷ですらない。
だが、御屋形様はすでに見ている。
米を飯に戻すための粉。
札と帳面を貼る粉。
江戸の流れを、米粒ではなく丸芋でつなぐ粉。
多米殿は、最後に小さな札を書いた。
那須白粉。
まだ売るな。
まず貼れ。
次に混ぜよ。
最後に売れ。
蘭丸は、その札を見て深く息を吐いた。
「多米殿」
「何でしょう」
「最後には、売るのでございますね」
「売れますので」
「結局、そこへ戻るのですね」
「はい」
長可が言った。
「粉は食えるのか」
「兄上、それはまだ分かりませぬ」
「食えたら呼べ」
風魔が言った。
「売れる時期は、予測できる」
「風魔殿!」
「予測だ」
多米殿の筆が静かに動いた。
「那須白粉予測札、厳重調査」
蘭丸は、もはや何度目か分からないため息をついた。
江戸自由市では、米が足りぬから芋を送るのではない。
米を飯にするために、芋を粉にする。
那須の丸芋は、まだ芽も出していない。
それでも江戸では、もうその白い粉を巡って、帳面だけが先に増え始めているのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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