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第15帳 海に放れば、勝負になる

 江戸の港も、騒がしくなっていた。

 相模の船。

 伊豆の船。

 安房の船。

 下総の小舟。

 魚を運ぶ舟。

 塩を運ぶ舟。

 米を積んだ船。

 帰り荷を待つ船。

 船が増えれば、荷が増える。

 荷が増えれば、人が増える。

 人が増えれば、揉め事も増える。

 その日、港で声を張り上げていたのは、安房の水夫と伊豆の水夫だった。

「先に着けたのは俺たちだ!」

「潮を読めぬ安房者が何を言う!」

「伊豆の船は横入りしただろう!」

「港口で詰まっていたのはそちらだ!」

 森蘭丸が駆けつけると、すでに人だかりができていた。

 安房の水夫は日に焼け、肩が厚い。

 伊豆の水夫は身軽そうで、目つきが鋭い。

 二人とも譲らない。

「多米殿」

 蘭丸は振り返った。

「これは何の揉め事でございますか」

 多米殿は、いつものように帳面を開いていた。

「荷揚げ順にございます」

「荷揚げ順」

「はい。どちらの船を先に着けるかで揉めております」

「順番を決めていなかったのでございますか」

「決めておりました」

「では、なぜ揉めるのでございますか」

「潮、風、港口の詰まり、船頭の言い分、荷主の都合、すべて違いますので」

「つまり、決めても揉めるのですね」

「はい」

 蘭丸は頭を抱えた。

 そこへ、森長可が現れた。

「何だ。騒がしいな」

「兄上、今はお静かに」

「喧嘩か」

「喧嘩にする前に止めます」

「なら、早く決めればよい」

 長可は、安房の水夫と伊豆の水夫を見た。

「どちらが先か分からぬのか」

「はっ」

 安房の水夫が言った。

「なら、海で決めろ」

「兄上?」

 蘭丸が嫌な声を出した時には、もう遅かった。

 長可は安房の水夫の襟を掴んだ。

「え」

 次に伊豆の水夫の帯を掴んだ。

「ちょ、待て」

「兄上!」

 長可は二人を抱えるように持ち上げた。

 周囲がどよめく。

「海の者なら、海で決めろ」

 そして、二人を港へ放り込んだ。

 ばしゃん。

 ばしゃん。

 蘭丸は叫んだ。

「兄上!」

 長可は港の先を指した。

「あそこの杭まで泳ぎ、戻って来い。早い方の勝ちだ」

「勝手に決めないでください!」

 だが、海に落とされた二人は、すぐに顔を出した。

 怒るかと思いきや、二人とも目が変わっていた。

「杭までだな!」

「伊豆の泳ぎを見せてやる!」

「安房者をなめるな!」

 二人は、同時に泳ぎ始めた。

 港にいた者たちが、一斉に声を上げた。

     ◇

 安房の水夫は、力強かった。

 腕で海を叩くように進む。

 波を割り、息を大きく吸い、体を沈めず泳ぐ。

 伊豆の水夫は、速かった。

 身を細くして、水を切る。

 波に逆らわず、潮に乗るように進む。

 蘭丸は唖然としていた。

「多米殿」

「何でしょう」

「止めなくてよろしいのでございますか」

「もう止まりませぬ」

「止める気がないのでは」

「人が集まっております」

「そこですか!」

 港には、たちまち人が集まった。

 船頭。

 水夫。

 魚売り。

 塩売り。

 荷揚げ人足。

 屋台の親父。

 茶売り。

 菱屋の商人。

 いつの間にか、辛味噌大根の屋台まで来ていた。

「港で大根は売れるのか」

「泳ぎを見ながら食うらしい」

「誰が言ったのでございますか!」

 蘭丸が叫ぶと、風魔小太郎が港柱の陰から答えた。

「売れる」

「風魔殿!」

「濡れた者は腹が減る。見ている者も腹が減る」

「なぜ当然のように」

「人が集まれば、飯が要る」

 多米殿は頷いた。

「港屋台場所代」

「もう取るのですか!」

「場所を使っておりますので」

 蘭丸は、海を見た。

 安房と伊豆の水夫は、杭を回って戻って来るところだった。

 差は少ない。

 港の者たちが叫ぶ。

「安房! 押せ!」

「伊豆! 潮に乗れ!」

「杭を回ったぞ!」

「どっちだ!」

 長可は腕を組んで見ていた。

 楽しそうだった。

「よい泳ぎだ」

「兄上、そもそも兄上が投げ込んだのです」

「海の者だろう」

「だからと言って、勝手に海へ投げてよいわけではございませぬ!」

     ◇

 先に戻ったのは、伊豆の水夫だった。

 だが、安房の水夫もほとんど遅れていない。

 二人は港の縁を掴み、荒い息を吐いた。

 伊豆の水夫が言った。

「勝った」

 安房の水夫は、悔しそうに海水を吐いた。

「次は、潮の変わる時にやれ」

「言い訳か」

「潮が違えば、こっちが勝つ」

 また睨み合いが始まりかけた。

 蘭丸は慌てた。

「もう十分でございます!」

 だが、長可が笑った。

「なら、次もやれ」

「兄上!」

「潮が変わるなら、また決めればよい」

「そういう話ではございませぬ!」

 周囲の水夫たちがざわめいた。

「次は俺だ」

「安房と伊豆だけで決めるな」

「下総の舟もいるぞ」

「相模者を忘れるな」

 港はさらに騒がしくなった。

 多米殿の筆が動く。

「水夫競べ」

「多米殿」

「何でしょう」

「まさか」

「はい」

「はい、なのですね」

「港での喧嘩を、海の勝負にいたします」

「それはよろしいのでしょうか」

「殴るより安全です」

「兄上が海へ放り込む時点で安全ではございませぬ!」

 風魔が言った。

「勝ちを予測できる」

「風魔殿、あなたは毎回それですね!」

「海は分かりにくい。潮、風、息、腕。面白い」

「面白がらないでください!」

 多米殿は静かに書いた。

「予測札、港でも調査」

 風魔は、少し満足そうだった。

     ◇

 水夫競べは、その日のうちに二番、三番と続いた。

 安房。

 伊豆。

 相模。

 下総。

 杭まで泳いで戻る。

 潮に逆らう。

 潮に乗る。

 途中で力尽きれば、小舟が拾う。

 最初はただの喧嘩だった。

 だが、何度か泳がせるうちに、多米殿は別のものを見つけた。

「この者は、速い」

「はい」

「この者は、力がある」

「はい」

「この者は、疲れても沈まない」

「はい」

「この者は、人を引いて泳げる」

「はい?」

 蘭丸は聞き返した。

 多米殿は、港を指した。

「荷が落ちることがあります。人が落ちることもあります。小舟が遅れることもあります」

「はい」

「泳げる者の名を控えておけば、助かる命が増えます」

 蘭丸は黙った。

 たしかに、江戸の港は船が増えている。

 人も増えている。

 荷だけではない。

 人も落ちる。

 子供も落ちるかもしれない。

 酔った船頭も落ちるかもしれない。

 長可が勝手に始めた勝負が、水の番になる。

「多米殿」

「何でしょう」

「また、仕組みにするのですね」

「はい」

 多米殿は木札を書いた。

 水練名簿。

 水夫競べ。

 救い手控え。

「救い手」

「溺れた者を引き上げる者にございます」

 蘭丸は、少しだけ頷いた。

 これは、悪くない。

 だが、すぐに多米殿が続けた。

「見物札も取れます」

「それを言わなければ、感心したままでいられました!」

     ◇

 夕刻。

 港の騒ぎは、ようやく収まりかけていた。

 安房の水夫と伊豆の水夫は、結局二度泳ぎ、一勝一敗だった。

「決着がついておりませぬ」

 蘭丸が言う。

 多米殿は頷いた。

「だから次があります」

「そういうことですか」

 長可は満足げだった。

「海の者は、よく泳ぐ」

「兄上が投げ込んだからでございます」

「投げ込まれねば、泳がぬ」

「それは当然です!」

 その時、港の外から大きな声が響いた。

「待たれよ!」

 皆が振り向いた。

 駿河の船が着いていた。

 船から降りてきた男は、日に焼け、目が鋭く、海の匂いをまとっている。

 駿河の向井殿であった。

 向井殿は、港へ上がるなり怒鳴った。

「なぜ、我らを呼ばない!」

 蘭丸は、思わず目を瞬いた。

「え」

「水夫競べをしたと聞いた!」

 向井殿は、安房と伊豆の水夫を見た。

「安房と伊豆だけで、海を語るか!」

 安房の水夫が言った。

「先にいたのは俺たちだ」

 伊豆の水夫も言った。

「駿河は遅い」

 向井殿の眉が跳ねた。

「駿河の船乗りが遅いだと?」

 蘭丸は、嫌な流れを感じた。

「多米殿」

「何でしょう」

「これは、止めた方が」

「もう止まりませぬ」

「なぜ、いつもそうなるのですか!」

 向井殿は長可を見た。

「森殿。勝負の場を作ったのはそなたか」

 長可は腕を組んだ。

「海に放っただけだ」

「ならば、次は駿河も入れていただく」

「よい」

「兄上!」

 多米殿の筆が走った。

 駿河向井殿、抗議。

 水夫競べ、定例化要望。

「要望ではなく、抗議でございます!」

「抗議も、帳面に入れば要望になります」

「勝手に変えないでください!」

     ◇

 向井殿は、すぐに港の海を見た。

「杭まででは短い」

「長くするのか」

 長可が聞く。

「潮を見るなら、沖の浮き印まで行かねばならぬ」

「面白い」

「面白くございませぬ!」

 蘭丸が叫ぶ。

 向井殿はさらに言った。

「ただ速いだけでは駄目だ。荷綱を持って泳がせよ。沈んだ荷を拾わせよ。溺れた者を引かせよ。夜の火明かりでも目印を見つけさせよ」

 蘭丸は、少し驚いた。

 ただの意地かと思った。

 だが、向井殿は本気で港の技を見ている。

 多米殿も、珍しく深く頷いた。

「水夫競べではなく、水練改めにできます」

「水練改め」

「はい。速き者、強き者、救い手、綱持ち、夜目利き。分けて名簿に」

 向井殿は頷いた。

「港には、それが要る」

 蘭丸は、言葉を失った。

 長可が始めた乱暴な勝負が、駿河の向井殿によって本格的な港の仕組みになろうとしている。

 風魔が横で言った。

「種目が増える」

「風魔殿、言い方が」

「予測も増える」

「そこに戻らないでください!」

 多米殿は、もう木札を書いていた。

 江戸水練改め。

 月一度。

 安房、伊豆、相模、下総、駿河、参加可。

 速泳ぎ、綱持ち、救い手、荷拾い。

 見物札あり。

 港喧嘩、海中勝負へ持ち込むべからず。

 初例、森長可様。

 蘭丸は最後の一行を見た。

「多米殿」

「何でしょう」

「今回も兄上が初例でございますか」

「海へ放られましたので」

「放った側です!」

「なおさら初例にございます」

 長可は札を見て満足げに頷いた。

「俺の名で、水夫が泳ぐか」

「兄上、誇るところではございませぬ」

 向井殿は札を見て、腕を組んだ。

「次は駿河が勝つ」

 安房の水夫が笑った。

「やってみろ」

 伊豆の水夫も鼻で笑う。

「潮を読めねば沈むぞ」

 向井殿の目が光った。

「駿河の海を知らぬ者が、よく言う」

 蘭丸は、また揉めそうな気配を感じた。

 だが、今度は土俵ならぬ海がある。

 札もある。

 名簿もある。

 屋台も、すでに仕込みを始めている。

     ◇

 翌朝。

 港には、新しい札が立っていた。

 江戸水練改め。

 月一度。

 水夫、船頭、荷揚げ人足、参加可。

 速泳ぎ、綱持ち、救い手、荷拾い。

 見物札、一文。

 港喧嘩、即海入り無用。

 長可様による投げ込み禁制。

 初例、安房水夫、伊豆水夫。

 抗議初例、駿河向井殿。

 蘭丸は、その札を見て固まった。

「多米殿」

「何でしょう」

「抗議初例とは何でございますか」

「向井殿が、なぜ呼ばないと抗議されました」

「それを札に書く必要が?」

「次から呼び忘れませぬ」

「そういう問題ではございませぬ」

 その横で、長可が海を見ていた。

「蘭丸」

「何でございましょう」

「次は誰を投げる」

「投げませぬ」

「泳がぬぞ」

「申込ませます!」

 向井殿は、駿河の水夫たちに何やら指示を出していた。

 安房と伊豆の水夫は、すでに互いを睨みながら肩を回している。

 風魔は、港の陰で静かに呟いた。

「潮が読めれば、勝ちは読める」

「風魔殿!」

「予測だ」

「港でもそれですか!」

 多米殿の筆が動く。

「水練予測札、厳重調査」

 蘭丸は、もう止める気力をなくしかけた。

 江戸自由市では、港の喧嘩もただでは終わらない。

 安房と伊豆が揉めれば、海へ放られる。

 海へ放れば、泳ぎ比べになる。

 泳ぎ比べに人が集まれば、屋台が出る。

 屋台が出れば、見物札が出る。

 見物札が出れば、水夫の名簿ができる。

 名簿ができれば、港の救い手が決まる。

 そして呼ばれなかった駿河の向井殿は、怒りながら新しい定例行事を作って帰る。

 江戸の港では、海まで帳面に入った。

 なお、森長可だけは、しばらく「投げ込み禁制」の札を不満そうに眺めていたのであった。



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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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