08. 都落ち
王太子や公爵令嬢は、男爵令嬢風情が身を挺して抗議したという事実が煩わしかったのだろう。
私の醜態は世間の噂にはならなかった。
それでもまさか粗相をした女が同じ学校にいるわけにもいくまい。
私は自主退学させられた。
父は私をかばおうとしたが、出世街道をばく進している我が家に迷惑をかけたくないので、先日書いた絶縁書を流用させてもらった。
父は私を甘やかして結構な金額を持たせてくれたが、それだけで一生暮らしていけるとは思えない。
車輪が石にぶつかりガタガタと揺れる荷馬車の隅に座り込んで、私はぼんやりと地図を眺める。
とりあえず隣国の親戚の世話になるつもりだ。
ほとぼりが冷めれば、この国に戻ることもあるのかもしれない。
外では朝日が緑の小麦畑の上に落ち、濡れた土の匂いが荷馬車の中まで漂ってくる。
絵に描いたような美しい農村の風景だ。
私はこんな世界は嫌いだ。
人ばかり多く、自分勝手で、信じたいものだけを信じる。
何より私に優しくない。
ここがアニのための世界だというのなら、まだ納得できるかもしれない。
アニみたいなイカレポンチのためにあるというのなら。
クソすぎるので。
旅装のスカートを直しながら、私は幌の隙間から差し込む日光に地図を近づけて、現在地を確認した。
息をのんだ。
「すみません、降ります」
私は御者に叫んだ。
何の因果か、ここはちょうどアニの故郷の村だった。
***
とはいえ、どこにアニの家があるのか一切分らない。
なだらかな農地の中に小さな集落があったが、中央の粉ひき小屋のほかは、どれが住居でどれが倉庫なのかすら分からない。
家々の間をうろつきながら途方に暮れていると、遠くから農婦が「あんた、どこから来たの」と問いかけた。
真っ黒に日焼けした肌を持つ農婦は、見るからに私を怪しんでいる。
「あの、聖女アニの家を探しに来たんです」
私が言うと、農婦は眉間に深い皺をよせた。
「なに、あんた王都から来たの? 見せもんじゃないよ、帰りな」
「ち、違うんです。私は」
何とか弁明しようとしたが、声が震えて言葉にならない。
「友達、で」
眼から大きな雫がぼろりと落ちた。
雫はあとからあとから零れ落ちる。
私は思わず顔を両手で押さえた。
「骨が、届けられる現場も、見てて。花を、花束を届けたかったんです、けれど。花束を」
農婦はびっくりしたように私を頭からつま先までじろじろ見つめていたが、やがて確かめるように言った。
「鞄しか持ってないけど……」
***
農婦はアニの母親だった。
彼女は粗末な小屋の中に入れてくれた。
私は居間の古い木造りのテーブルについた。
「あの子には苦労させられたもんだよ。こういう家に、あのみてくれの娘が生まれたわけだろ? 旦那もおばあちゃんもびっくりするし、ご近所はうるさくて」
「……今も言われますか?」
「今? ああ、処刑のことね。ないない。王都からの噂は誰も信じちゃいないんだ。あの子は大人しくて無口な子だったから」
私は口をつぐんだ。
貴族デビューでだいぶん性格が変わっていたらしい。
ノーコメントだ。
ノーコメントに限る。
「五番目の子だけ、元聖女の兄だからって冬の工場勤めがクビになったけど。それだけ少し困ったわ」
「……『乙女ゲーム』って何か分かります?」
「『乙女ゲーム』? 知らないよ。王都ではそういうのが流行ってるの?」
農婦は首を傾げて、面白そうに笑う。
そのしぐさが不思議なほどアニに似ていた。
私は少し息をついた。
やはりアニが「乙女ゲーム」とやらを信じだしたのは、王都に来てからか。
「アニはどんな子でしたか?」
農婦は顔に満面の笑みを浮かべると、待っていたかのようにテーブルに身を乗り出した。
「本っ当に面白みのない子よ。我儘なんて言ったこともない。私らはさ、末っ子だから甘やかしたかったんだけどさ。あの子はね、あれだよ、諦め体質なのよ」
農婦はそこでやっと息をついた。
指で机の縁を撫でる。
「それでも働き者だったから、三軒の家から嫁に来ないかって言われていたんだ。あの子が決めかねているうちに、王都から神官が来て……有無も言わさず連れて行っちゃった」
農婦は茶色い顔にひどく疲れたようにしわを寄せて、深くため息をついた。
「無理やりにでも嫁に出しておけばよかったかねえ」
***
アニの家を出ると、物乞いらしき汚い子供が玄関の前をうろうろしていた。
私は無視して歩いて行く。
ずんずん歩いて行く。
やがて、道は小さな川沿いを走り出した。
私は河原に降りると、汚れていない草の上を選んで腰かけた。
田舎らしく小川は澄んでいて、大きな石がごろごろ沈んでいるのが綺麗に見える。
せせらぎの音が耳に甘やかに響いた。
青空の下で、私は鞄からノートを取り出した。
退学になる寸前、私は図書室で聖女の歴史を調べた。
とことん根性引きしたが、とうとう「乙女ゲーム」という言葉は出てこなかった。
しかし、共通点に気づいた。
聖女たちは皆必ず王家や高位貴族に従順で、殉死したものも少なくなかった。
ただの忠義だとも受け取れる。
しかし、彼女たちは必ずこう言った。
「私たちは愛されている。世界の中心なのだ」と――
私は少し妄想した。
聖女の力の覚醒ともに、一つの思想が聖女の頭に降りてくる。
それは「ここは自分のための世界だ」と思い込ませる、強迫観念に似た美しい考えだ。
貴族社会に連れ込まれた孤独な聖女は、一心にこの思想に縋る。
そして、国に忠実で、心を折らずに戦い続ける人間兵器が出来上がる。
これこそが、強大な力の代償なのだ。
――なんてね。
せせらぎの音の合間に、小さな足音が聞こえた。
振り向くと、先ほどアニの家の前にいた汚らしい浮浪児が近寄ってくる。
追い払おうかと思ったが、私は結局いくらか恵んでやることにした。
ここはアニの世界なのだから。
「あ、待って。お金が欲しいんじゃないの」
子供は流ちょうに口をきいた。
私は思わずきょとんとした。
「大人にずいぶん生意気な口を聞くじゃない」
「そこは『貴族に』じゃないんだ」
「貴族は嫌い。偉い奴らなんてみんな大嫌い!」
「カルラ、どうしちゃったの? あんなに身の程を気にしていた癖に」
私はびっくりして子供の汚い顔を見つめる。
「私、名前なんて言ってないわよね」
「自己紹介は学園だね」
私はしばらく口をつぐんだ。
まじまじと、ぼさぼさの頭を黒ずませた、幼い浮浪児の顔を見つめる。
やがて叫んだ。
「あっ、あっ、あんた……」
「うん。あたしアニだよ」
子供はあっけらかんとして言う。
「なんでこんな、あたしよりちっちゃくなっちゃったの」
「転生ってわけじゃなさそうだね。体が壊れたとき、勢いで魂が飛ばされちゃって、路上で野垂れ死んでる子供に入っちゃったの」
「し、死体……?」
「うん。腕とか、ちょっと腐って取れかけてる」
浮浪児は左腕を差し出した。
確かに肘のあたりがドロドロに溶けていて、今にもぽろっと落ちそうだ。
「カルラ、針と糸とか持ってない?」
「持ってるけど、こんな肉を縫ったら、ますます崩れてきちゃうわよ……」
仕方がないので、以前入荷したピンクのリボンを上から包帯のように巻いて補強してやった。
浮浪児は「かわいい!」とご満悦だ。
「聖女の力はあるの?」
「使えるよ。体がぶっ壊れた反動か、力をぜんぶ解放しても平気なくらい。魔法上手くなっちゃったなぁ」
「あんた、聖女っていうより人外よ。人間やめちゃっているわよ」
「そうかもね。あたし、どうなってんだろ」
浮浪児は私の隣にちょこんと座りこんだ。
私は「あっそう……」とか言いながら小川に目を戻したが、その実めちゃくちゃ呆然としている。
気持ちとしては泣きながら抱きつきたいのだが、浮浪児があまりにも平然としているので、感情を出すことはなんとなく憚られた。
一杯食わされているんじゃなかろうか。
この子供は私を騙して金銭をまきあげるつもりなのでは。
浮浪児はふいに言った。
「王太子様たちは元気?」
「え? そりゃあもう……」
「公爵令嬢は? 嘘ついたこと、牢屋でちょっぴり反省したの。注意とかも、真面目に聞けばよかった」
「……二人とも元気よ。嫌になるほど元気。もうすぐ結婚式だわ」
「それなら良かったな。でも、あたしがみんなから愛されるはずだったのに!」
「あ、あんたのそういうところ、本当に頭がおかしくなるわよ……」
「ふふん」
浮浪児は少し上を向いて、自慢げに笑った。
「あー、その仕草とかそっくり。似すぎ。あんた本当にアニなのね」
「気持ちはわかるよ。今のあたしは汚いし、粥もすすれない生活をしているよ。もうここはあたしのための世界じゃないっていう状況だけど」
小さなアニは立ち上がると、勢いのままに土手の草原を数歩下り、振り返って私に笑いかけた。
アニの背後でせせらぎが透明に瞬いた。
「不思議だね、まだあたしは自分がヒロインな気がしているの」
私も少し笑った。
「そうよ、ここはあんたのための世界よ」
「カルラの人生もあたしのもの?」
「図々しいわよ。成仏しろ、成仏」
「アハハ」
青空を見上げて笑うアニを、私は立てた膝の上に肘をついて眺めた。
「じゃあ、元気でね、カルラ。また会えたらいいね」
「……あんたはこれからどうするの?」
「もちろん、王城に戻るよ。王太子様、雇ってくれるよね?」
肘は膝からずり落ちかけた。
「は?」
「あんなに活躍したんだから、褒められちゃうかなぁ。王妃にしてもらったり――は無理だったか、結婚済みだ――でも、きっとみんな優しくしてくれるよね」
祝賀会で私が言った通りであった。すべて。
アニの尊厳は失われていなかった。
その証拠に、小さな死体になっても、アニの無邪気な笑顔は何一つ変わっていなかった。




