06. お祭り
翌朝になっても、アニが逃走したという噂は流れなかった。
噂が流れないってことは、逃げなかったんだろう。
いくらしょぼい脱出劇だって、絶対に人の口に登る。
結局、あの子が鍵を使うことはなかったのだ。
刑務所から徒歩十分の広場には大勢の老若男女がいる。
基本的に近所に住む貧しい町人だが、ちらほらと金持ちそうな商人や貴族階級が物珍しそうに舞台を見ている。
近くの通りには、集まった人々のために屋台まで出ている。
「そろそろ出てこねえかな、悪魔のアニ」
「狂人って噂は本当かな」
「さっさと出てこいよ、午後は仕事があるんだよ」
広場の中心には櫓のような舞台があって、いつもはそこで罪人の処刑が行われる。
しかし、アニは死刑囚ではない。
ただ生贄になるだけだ。
しかし周囲の住民の娯楽のために、アニは死ぬ前に見せびらかされるらしい。
下々への配慮も忘れない、素晴らしい王太子殿下と公爵令嬢様!
この町はその話題で持ちきりだ。
櫓の脇には屋根のない簡素な神輿があって、これで魔物の巣への道中を途中まで進むらしかった。
神輿は花で四方を飾り付けられている。
季節は春だった。
私は広場の隅で櫓を眺めている。
ここまで大騒ぎして、すべてが不始末に終わったのに、不思議と何の感情も沸いてこない。
晴れた青空に、学校でのアニの顔を思い浮かべてみた。
どの姿も憎たらしいほどの美人だ。
櫓の上でも美人であるといい。
実に儚く、哀れっぽく、蜘蛛の巣にかかった蝶のように見えるといい。
それなら観衆も少しは罪悪感が湧くだろう。
「クソみたいな世界」と小さく呟いた。
広場にざわめきが広がった。
アニが牢から連れられてきたらしい。
私は背伸びをすると、群衆の中から目を凝らしてアニを探した。
櫓の階段を登るアニの姿を見て、私は天を仰いだ。
馬鹿だ、馬鹿がいる。
昨日見た粗末な服の上に、罪人のマークが大きく描かれたいかにも晒し者らしい上着を着ながら、アニはそれに似つかわしくない満面の笑みを浮かべている。
眼は夢を見るように輝き、手は祈るように胸元で組んで、スキップするように櫓に飛び乗った。
またヒロイン気取りか。
いい加減にしろ、状況を見ろ。
ここの奴らはあんたを殺して、その血でパーティーするつもりで集まっているのよ。
アニは兵に導かれると、櫓の上で観衆を見回し、実にへったくそなカーテシーをした。
「喋るらしい」「喋るらしいぞ」と観衆が湧きかえる。
「あたし、なんにもしていないのにみんなから嫌われるし、怒られるし、もしかしてここはあたしのための世界ではないのかもって思っていたの」
アニの大声が広場に響いた。
ほとんど歌のように聞こえた。
「でもね、昨日違うってわかった。こんなに嬉しいことがあるなら、やっぱりここはあたしのための世界だよ」
寒々しい青空を背に、アニは満面の笑みを浮かべ続けている。
私は吐き気がした。
「嬉しかったの。本当に嬉しかったの。あたし、この世界のためなら死んでもいいって思えたの」
アニは笑う。
世界で一番幸せだとでも言いたげに笑う。
その笑顔。
顔が。
顔が目に焼き付いて、私の頭までおかしくなる。
観衆がわっと沸き立った。
「これで終わりか?」
「王太子を誘惑しておいて、なんにもしてないつもりなのかよ。笑えてくる」
「やっぱり言ってることがよくわからん。狂人だな」
「でも、死ぬって言ったよな?」
「悪魔は改心したんだ!」
兵たちが頷き合いながら、アニの足首の鎖を取る。
もう反抗もしないだろうという判断だ。
アニは傷だらけの裸足で壇上を駆けると、踊るように脇の神輿に飛び移った。
観衆たちは大喜びで担ぎ上げる。
青空に色とりどりの花が舞い、アニの周囲を取り囲むように旗が舞い、鼓膜を殴るような太鼓の音が響く。
民衆は「償え! 償え!」と歌っている。
アニも胸に手を当てて、楽しげに歌っている。
ほとんど輪唱に聞こえた。
『罪を償え!』
「ここはあたしのための世界!」
『卑劣を償え!』
「すべてあたしのためにあるの!」
『命で償え!』
「あたし、みんなを愛している! 世界のためなら、死んでもいいわ!」
『そしてアニは神になった!』
「これがあたしの運命だった!」
馬鹿、馬鹿、このド馬鹿!
何が運命よ。ちゃんちゃらおかしいわよ。
アニ、あんたはその悪趣味なお神輿から降りてきなさい!
担いでるあんたたちもあんたたちよ、いい加減にしないと怒鳴りつけるわよ。
本気でぶつわよ。
今謝ったらやめてあげるから。
今止まったらやめてあげるから。
人混みの中でもみくちゃにされながら、出せる限りの声を出して怒鳴るが、歌はやまない。
歓声はやまない。
目から馬鹿みたいに涙が出てくる。
出たって誰も気にもとめない。
「止まれ――!」と肺をねじ切るように叫んで、そうしたら息も吸えなくなってその場にしゃがみ込む。
右手前にいるおっさんが振り返って、「縁起の悪いこと言うな、祭りの最中だぞ」と言うので腹をヒールで蹴り飛ばす。
それでも止まらない。
誰も止まらない。
神輿は波に乗った帆船のように、ものすごい勢いで前進していく。
伸ばした右手が観衆にはじき飛ばされる。
足がもつれたところを後ろからなぎ倒されて、顔面から石畳に倒れ込んだ。
起き上がった頃には神輿は見えなかった。
めちゃくちゃな嗚咽を漏らしながらうずくまると、「お嬢さん、どうぞ」と声がして、黄色のハンカチが差し出された。
お気に入りのミモザの柄のハンカチだ。
私がアニにあげたやつである。
当然のように、ハンカチはアニが差し出していた。
罪人の服を着たまま、私の目の前にしゃがみ込んでいる。
止まってくれた。
側に来てくれた。
アニは当惑したように言う。
「あなたって、なんでいつも来てくれるの? ここ、あんまり上品な場所じゃない気がするけれど」
「アニ、なんで、なんで」
「そりゃあ、上からあなたがすっ転んでるのが見えたから。飛び降りてきちゃったよ。あ、みなさんすみませーん。すぐ戻りまーす」
観衆は興をそがれ、ものすごく迷惑そうな顔でこちらを見ている。
怪我をした少女を助けているという建前なのでみんな黙ってはいるが、わざとらしくため息をついて急かす。
アニは観衆をちらちら気にしながら、小さく囁いた。
「あんなずさんな計画で逃がそうとするなんて、カルラも大概、極楽トンボだね。お金は拘置所の南の庭に隠してあるから、ちゃんと回収するんだよ」
私はすがりつくようにアニの肩を掴んだ。
「戻らないで。走って逃げよう、ね? いい子だから」
アニは優しいしぐさで、そっと私の手を払う。
「本当にいい世界だね。あなたがいるといつもそう思うの。あたし、この世界が気に入ったよ」
アニは淡く微笑んだ。
私の話なんて聞いちゃいない。
最初からずっとそうだった。
「さようなら、カルラ。今までありがとう」
それだけ言うと、『私の人生』は実にあっけなくいってしまった。
王都は守られたのだ。




