05. 取り巻きの暗躍
リンナと話した夜、私は商店の一階奥の父の作業室に向かった。
商店主にしては質素な仕事場には、木製の戸棚が並んでいて、帳簿や特別な商品が収納されている。
奥の作業机では、父親が何か作業をしていた。
机の端で、何ものっていない天秤秤がゆらゆらと揺れている。
窓から冷たい夜風とともに、私の花壇の花の香りが漂ってきた。
「父さん」
私が声をかけると、父親は振り返らずに言った。
「お父様と呼べと言っただろう」
父親はこの通り私を貴族の娘らしく仕立て上げたいらしかったが、商店で従業員と寝泊まりしている私には、とうてい無理だったのではないかと思う。
「要件は何だ」
「お父様は、全部知っていたんでしょう。アニがこれからどうなるのか、全部」
「ああ」
「何で私をアニの取り巻きにしたの?」
父親はようやく振り向いた。
「なぜそんなにあの女に肩入れする? 聞く話だと、あの女は人格の破綻した狂人だというが」
「質問に答えてよ」
「お前が夢見がちだからだ。そんな様子では、この商店は継がせられない」
私はあっけにとられた。
「継がせるつもりだったの?」
「成り行きによってはだ。だからお前は、現実を見るようになさい」
父親は私から目をそらした。
「貧乏な平民が人間には持て余すような力を持って生まれてきたら、それは人間ではない。資源だ。資源に人権はない」
「人権」という言葉が口から出るあたり、彼は今風な人だ。
私は父親のそういう所を信頼している。
「理想論が必要ないとは言わない。だが、お前は性格が幼すぎる。あの女のことはさっさと忘れろ」
一方でわざわざこんなことをしなければ私を信頼できないあたり、父親は不安症だと思う。
そしてその不安は正しかったのだ。
私は手に持っていた白い封筒を差し出した。
「絶縁書を書いたの。受け取って、これから私が何をしても、私とお父様とは何の関係もないと言ってほしい」
「……カルラ」
「絶縁書だけじゃない。私が王家にはむいたことで商店に火の粉が振りかかるという、巨大なリスクを受け入れてほしい」
「……お前」
「父子じゃなくなっても、絶対に借りは返すわ。一生かけて返す」
私は右膝を引くと、その場に正座して手をついた。
甘やかされて育ったので、情けないことにこれが人生初の土下座だった。
「お願いします。許してください」
「やめてくれ、もう。立ちなさい」
父親は顔に手を当てて、深い溜息をついた。
顔を上げた父親は、数段老け込んでいるように見えた。
「ああいう聖女の取り巻きをすれば、お前も現実が見られるようになるかと思ったんだ。この世には仕方のないことばかりだと」
そう言われて、私はようやく安心した。
アニがこういう目に合うことに納得しきれないのは、私だけではなかったのだ。
「ごめんなさい、お父様」
「勝手にしなさい。私はもう知らない」
私は部屋を飛び出した。
急いで準備しなければならないことがある。
時刻は深夜になっていた。
明後日の朝、アニは魔物の巣に送られる。
***
石造りの牢屋の鉄格子の向こうで、アニの姿は変わり果てていた。
ピンクブロンドの髪は荒れ放題。
着ているのは、粗末を通り越した、布を引っ掛けたような罪人服。
裸足で路上を歩かされ、足はずたずただ。
床に座り込んだまま動こうとしないと思ったら、足首は重そうな鎖につながれている。
栄枯盛衰を体現したような姿だ。
アニは聖女だったはずなのだが、ここは最下層の罪人が入れられる牢である。
これでアニもちょっとは懲りただろう。
「来てくれたの?」
アニは真っ白になった顔を上げると、鉄格子を強く握りしめる。
「学校にいた時も、なんでいつも側に来てくれたの? あたしといたって、なんのいいこともないのに」
私は何でもないふうに言う。
「お父様にご機嫌を取れって言われたのよ。そうでなきゃ、誰も来ないわ」
「そう。あなたも大変だね」
それだけ言うと、アニは虚空を見た。
一面に積もった埃が、調光窓から差し込む淡い朝日を反射して瞬いた。
「あたし、この世界はあたしのための世界だと思っていたの。あたしがヒロインで、みんなに愛される」
アニはゆっくりと、言葉を舌の上で転がすように呟く。
「ようやく、あたし変われるって思ったの」
そして、アニは両手で顔を覆った。
「違ったのかな。やっぱりあたしのための世界なんて、どこにもなかったのかな」
「そうよ。この世界はみんなのもので、自分のための世界なんて存在しないのよ」
私はすぐさま応じた。
「そんなことも分かってないガキなんて、あんたくらいなのよ」
私は鉄格子のそばに歩み寄り、床に座り込んだ。
何がついているんだか、腐ったようなにおいのする床だ。
「私ね、あんたのための世界がないのって、おかしいと思う」
アニがきょとんとして私を見る。
私は迷わず続ける。
「そんな事実はありえなくても、私はここがあんたのための世界であってほしいわ。そうじゃなくちゃおかしい。こんな世界はおかしいわ」
私は鉄格子のなかに手を差し入れた。
アニはすがるように私の手を掴んだ。
「ねえ、あんたがもし、ここがあんたのための世界だって、もう信じられなかったらね――私はあんたのために生きているって思ってもいいわよ」
私は顔を傾けて微笑した。
「私の人生、あんたにあげる」
そして手を振りほどくと、手際よく持ってきた荷物をアニの手の上に載せていく。
「はい、鍵。牢屋番が隙だらけだからスッてきちゃった。あんた、もう誰も味方しないって思われているのね。これはそのボロ服の中に隠して」
「え? え?」
「その足枷を外したら魔法は使えるけど、油断しないでね。夜中に北門から逃げるのよ。ここの独房は見た限り警備がザルだから、あんたでもヘマしなければ逃げ出せるわ。攻撃するんじゃないわよ、あっちも攻撃するきっかけになるから」
私は牢の出入り口を気にしながら、小声で続ける。
「一時間くらい走った先に、小さな港があるの。この時期は、密入国を担当している船がきている。このお金を持っていけば、乗せていってくれるんじゃないかしら」
私は小さな革袋を差し出した。
生活費を切り詰めて、少しずつ増やしたものだ。
これで自分なりに商売を広げるつもりだったが、やむをえまい。
「遠くへ逃げて。あんたのことを誰も好きじゃなくても、負けないで。ここがあんたのための世界だって信じていて」
「待って。あたしに面会に来たのはカルラだけだよ。あたしが逃げ出したら、真っ先に疑われるのはカルラだよ」
私は本当にびっくりした。
「あんたって、そういうことも考えられる人間だったのね。まあ、うまくやるわよ。あんたじゃあるまいし」
アニはゆるゆると首を振る。
「それに、この国はどうなるの? カルラも、攻略対象の人たちも死んじゃうのかな」
「私とその攻略対象とやらを同列に語らないでくれる?」
私は思わず笑い声を上げた。
ひとしきり笑ったら、眉をつり上げて怒鳴りつけた。
「この馬鹿! あんたがそんな馬鹿だから、私はいつも苦労するのよ。あんたが世界で一番の馬鹿なんだから、他の賢い人々のことなんて気にしないことね。これに懲りたら、二度と自分の判断なんて信用するんじゃないわよ」
アニは青ざめて、首を振り続ける。
「でも、でも、魔物がくる。カルラが殺されちゃったら、あたし」
「ごちゃごちゃ言わない!」
私が怒鳴ると、アニはびくっと肩をすくめた。
怯えたような目も、荒れた髪も、こけた頬も、罵声を吐きたくなるくらいの美人だ。
この女、娼婦でもしたらまだマシなんじゃなかろうか。
頭のおかしい女枠の娼婦。
私にどれだけ怒られても能天気にヘラヘラしているし、時々言うことが核心をつくし、急にこちらが溜め込んできた苦しみを溶かすようなことをする。
なるほど、カウンセリング系娼婦なら世のため人のためだ。
だから似合わない聖女なんてやめてしまえ。
俗悪な連中なんて放り出してしまえ。
「生き延びて」と言おうとして止めた。
この女が逃げた後、本当にまともに生きていけるのか、私には全くわからない。
あまりにも責任感のない言葉だ。
「私がこんなにお膳立てしてあげたんだから、たまには自分でやり遂げてみせなさいよね」




