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02. 王太子

 雪が解けるころには、私は驚きを通り越して呆れていた。


 私は当然のことからモラル微妙なことまでまんべんなくブチ切れ倒したが、アニが不機嫌になることはとうとうなかった。


 放課後、私は先生方へのごますりのために書類作業を買ってでて、席で帰り支度をしているアニに命令した。


「暇なんでしょう、手伝いなさい」

「ふーん、わかった」


 ……もっと早くブチ切れておけばよかった。


 今日の教室には数人の生徒が残っていて、静かに自習をしている。

 廊下にはたくさんの生徒が歩いており、賑やかな笑い声がこちらにまで響いた。


 私たちはいつもの窓際の机に向かい合って座った。

 靴の横に置いた魔道具から暖気が放たれ、脛の肌がひりひりするほど温まる。


 私は書類の穴にひもを通すだけで四苦八苦しているのだが、その間にアニは書類の束三つを綴じて、綴じ紐の端を焼いて補充する。


「なんでそんなに速いのよ」

「農家では、冬は内職するの。慣れたらどうってことないよ」


 アニは淡々と語りながら、小さな動きで紐を結んでいく。

 木机に書類の束がどんどん積みあがる。


 アニの手は目まぐるしく動く割に、動作には何の焦りもない。

 取引先で見た機械のようだ。


 私はアニの荒れた手が気になった。

 あかぎれのあとがひどく、乾いた肌に血の色の線が蜘蛛の巣のように張っている。

 貴族の暮らしをしていれば、こんなことにはならない。


「手、荒れててみっともないわよ。何とかしなさい」

「しょうがないよ、あたしとカルラじゃ役割が違ったんだから」


 アニはあっけらかんという。

 聖女だとかより、こういう素直でよく働くところこそが、アニの本質的な美点だと私は思うのだが。


「あんた、農家に帰ったら?」


 我ながら、けっこう理不尽なことを言っている。

 アニは苦笑した。


「どうかなぁ。帰ったら王家の人に怒られるなぁ。家族も怒られるだろうなぁ」


 私は言葉を詰まらせた。


 なるほど、この女は帰りたくなくて帰らないわけではないのだ。


「それに、あたしはこの世界のヒロインだよ。玉の輿が約束されているんだもの。はやく王妃になって贅沢な生活がしたいなぁ」


 違う、馬鹿なんだ。底抜けな馬鹿なんだ。


 私は力が抜けた。


 アニは席から立ち上がると、積みあがった書類の山を教卓まで運んで行った。

 制服の灰色のスカートがひらひらと揺れる。


「カルラは帰れって言うけどさ、あたしはここにいたいんだ。農家の七女が文字を教えてもらって、こんなおべべまで着せてもらって、夢みたいな話。お母さんにもここのご飯、食べさせてあげたいなあ」


 そして席に戻って来ると、小さく鼻歌を歌いながら、また作業を手早く終わらせていく。

 ほのかな紙の匂いが机の周囲に漂う。


 紙の端が私の指先の肌を擦ってひやりとしたが、赤い線が浮かんだだけで、血は流れてこなかった。


「あのさ、貴族として生活したいなら、『攻略対象』とやらにちょっかいかけるなって言ったわよね。なんでやめないの?」


 それは単純な疑問だった。この女は私が何を言っても大人しく言うことを聞くのだが、こと「乙女ゲーム」に関しては一歩も譲ることがなかった。


「だってそりゃあ、ここはあたしのための世界なんだから。王太子様はあたしのことを愛してくれるわ。公爵令嬢だってペンと振られて心ヘキヘキよ」

「王太子サマ、好きねぇ」


 精一杯いやらしい悪意を込めて言ってやったつもりだったのだが、アニは顔の横で両手を組むと、頬を薔薇色に染めて叫んだ。


「王太子様、大好き! ルアン様もカイ様もアンドレ様もゴン様もオッポレ様も大好き! カルラのことも大好き!」


 出るわ出るわ、この国の権力者の美男子たちの名前が続々出てくること。


 王太子殿下を名前で呼ばなくなったのは、小さいがこれでも進歩なのだ。

 王都に来た頃は殿下を名前で呼んで、公爵令嬢に一喝されて泣いていた。

「公爵令嬢の意地悪! ここはあたしの世界なのに!」とのこと。

 我が国の聖女の頭がこんなに悪いなんて、私こそ泣きたいのだが。


「あんたの『好き』は羽毛より軽いのね」

「軽くないよ」


 アニは微笑んで机に肘をつき、私の顔を覗き込んだ。


「あなたたちに会えば、あたしは変われるって思ったんだ。聖女だって言われて常識の違う世界に放り込まれたことも、家族友達と引き離されたことも、少しも悲しむ気にならなかった。あなたたちのおかげだよ。本当だよ」


 ちょっと怖くなる時がある。

 なぜここまで「自分の世界」だと思い込んでいるんだ。

 なぜ思い込みだけで、ここまで動けるんだ。


 逆に、思い込みが解けたら、この子はどうなってしまうんだ?


 同時に、胸の中でほわほわとした温かいものが湧くのを押さえられない。

 癇癪持ちだと嘲られ、貴族社会では成金の娘だといってやっぱり嘲られ、居場所なんて帳簿の中にしかなかった。

 大好きだとか、カルラのおかげだとか……そういった言葉をかけられたのは、実は初めてだった。


「カルラもみんなも、あたしのために生きているんだよね。いつもありがとう!」


 株を上げて落とすのがアニの通常仕様である。


「羽毛より軽いのはあんたの脳みそだわ。比べただけ羽毛がかわいそうだわ」


 私は力が抜けて、椅子の背もたれにだらしなく寄り掛かった。

 アニはそんな私に構わず、夢見る目つきで語りだす。


「ゲームのパッケージに、『あなたが選ぶのは、どの運命?』って書いてあったの」

「え? 『乙女ゲーム』って、賭けトランプの事じゃないの?」

「トランプ? うーん、どうだっけ。そんな感じかも……?」


 アニは宙に目を彷徨わせてしばらく考えていたが、やがて気を取り直したようだ。


「運命なんて、自分には関係ないものだと思っていた。でも今のあたしには、幸せな運命がある。あたし、変われるの」


 ――運命、ねぇ。

 私は自分が幸せな運命であることを知るより、不幸な運命を乗り越える方に血沸き肉躍るタイプだが、それは人それぞれか。


 この女は馬鹿なりに生きている。

 無心で仕事をするアニの姿を、私は机に片肘をついてぼんやりと眺めた。


 みんな、もっとまともにこの世界の常識を教えてやればいいのに。

 確かにアニは何もかも分かっちゃいないが、公爵令嬢の嫌味ばかりでは育つものも育たない。


 私は作りかけの書類の束をアニの前に放り出した。

 アニは何も言わずに勝手に束ねていく。


 私が教えてやらねばならないんだろうか。

 しかし、私がこの馬鹿女の責任を取るのはごめんだ。


「私、すぐ怒るけど、あんたぜんぜん嫌がらないのね。不真面目なくせに」

「そりゃあ、こんなにちいちゃくって、そばかすの可愛い子に怒られたって、全然怖くないよ」

「お粗末さま、あんたの見てくれは平民らしい下品さね」


 つい憎まれ口が出たが、この女の見目が私なんかよりよっぽど愛らしいことは確実だ。

 黙って大人しくしていれば聖女っぽいのに。


「ねえ、カルラの花壇みせて? 何度も頼んでるんだから、そろそろ連れてってよ」

「い・や・よ!」

「おや、先生の手伝いをしているのか」


 遠くから声がかけられたので、私は目を向けた。

 すぐに背筋を伸ばして立ち上がった。


 王太子殿下はにこやかに私たちの机に近づいてきた。

 教室内にざわめきが広がり、廊下の人々も面白そうにこちらを眺めている。


 王太子殿下は艶やかな黒髪の美男で、夢中になるアニを理解はした。

 残念ながらアニは「攻略対象」とやらの男たち全員に色目を使っているので、共感は一切できない。


 というか来るなよ王太子! 

 私は脳内で絶叫した。

 ふらつくな、急に現れるな、適当にしゃべりかけるな。

 王族サマが何を考えているかなど知ったこっちゃないが、そっちが自由に動くから、成金貴族が気を使わなきゃならないんだ。


 アニは顔を輝かせて王太子殿下に飛びついた。


「王太子様! あたし、この学校の役に立ちたくて頑張っているんです」


 薄く微笑んで立っている王太子に、アニは猫のように擦り寄る。

 あまりの不敬に私はぶっ倒れそうなほどハラハラしているのだが、王太子殿下が強く出ないので、止めるに止められない。


 周囲の白い目が痛い。

 叶うことなら、「この女と私は他人です」と叫んで回りたい。


 王太子も王太子だよ。

 私は内心で文句を垂れた。

 もっときっぱり、アニにも分かるようにコテンパンに振ってくれればいいのに。

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