EP 3
金煙管と反逆の契約
「さあ、冷えたじゃろう。まずは温かい紅茶でも飲みんさい」
事務所の奥、応接室へと通された健太の前に、湯気を立てるアンティークのティーカップと、焼き立てのスコーンが置かれた。
ふわりと漂うアールグレイとバターの甘い香りが、雨で冷え切った健太の体をじんわりと包み込む。
桜田リベラは、向かいの革張りのソファに優雅に腰を下ろした。
その足元には、先ほどの巨大なシェパード――アモンが静かに伏せ、黄金の瞳で健太を観察している。
「あ、ありがとうございます……」
震える両手でカップを受け取った健太は、一口だけ紅茶を飲んだ。
数日ぶりに胃の腑に落ちた温かい液体に、張り詰めていた糸がふつりと切れ、健太の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「俺……っ、俺、本当にやってないんです……! 言われた通りにパスワードを使って、テスト環境に入っただけで……会社の金なんて一円も……!」
嗚咽を漏らしながら、健太はすべてを打ち明けた。
5000万円の不正送金、郷田社長の冷酷な罠、経理部長の裏切り、そして警察の理不尽な取り調べ。
自分がどれほど無力で、都合の良いように利用されたのかを。
リベラはスコーンにクロテッドクリームを塗りながら、静かに相槌を打っていた。一切の感情を交えず、ただ事実を拾い上げるような冷徹な表情だった。
ひとしきり泣きはらし、健太が言葉に詰まると、足元のアモンが低く喉を鳴らした。
『……情けない男だ。だが、今の言葉にも嘘の臭いはない。郷田とやらの周りには、さぞかしドス黒い腐臭が漂っていることだろうな』
「アモンの言う通りね」
リベラはティーカップをソーサーに置くと、ジャケットの懐から「それ」を取り出した。
黄金の輝きを放つ、見事な細工が施された金製の煙管だった。
彼女は優雅な手つきで煙管を口元に運び、ふうっ、と息を吸い込む。
(※無臭タイプのため煙草の匂いはしないが、彼女の纏う空気が、その瞬間、劇的に変わった)
先ほどまでの「上品な令嬢」の気配が霧散し、代わりに底知れぬ凄みと、獲物を狩る修羅の覇気が部屋を満たした。
「……郷田社長、じゃったか。随分とウチのシマの人間を、舐めた真似してくれたもんじゃね」
健太は息を呑んだ。
彼女の口調が、突然、ドスの効いた『岡山弁』に変わっていたからだ。
「え……?」
「よう聞きんさい、高橋健太」
リベラは煙管を指に挟んだまま、射抜くような目で健太を真っ直ぐに見据えた。
「あんたは悪人じゃない。ただの、ええカモじゃ」
「カモ……」
「そうじゃ。権力を持った悪党から見れば、あんたみたいに大人しくて、ちょっと保身に走るような小市民が一番扱いやすい『ゴミ箱』なんよ。自分の汚物を捨てるためのな」
ぐさりと、核心を突かれた。
健太は今まで、波風を立てないように、上司に逆らわないように生きてきた。その弱さが、今回の大火傷を招いたのだ。
「じゃがな」
リベラはふっと冷たく、しかしひどく頼もしい笑みを浮かべた。
「どんな理由があろうと、他人をゴミ箱扱いして平気な顔しとる外道は、ウチが一番反吐が出るんじゃ」
リベラは机の引き出しから、一枚の「委任契約書」を取り出し、健太の前に滑らせた。
「契約しんさい。ウチの敷居を跨いだ以上、もう泣き寝入りはさせん。あんたに被せられた泥は、利子を付けてあのクソ社長の顔面に叩き返してやる。ウチが全部、ひっくり返しちゃる」
その言葉には、絶対的な自信と、揺るぎない法的な暴力の裏付けがあった。
健太は震える手でペンを握った。
社会から見放され、警察からも犯罪者扱いされた自分を、目の前の規格外の弁護士と犬だけが「無実」だと断言してくれている。
「……お願いします。俺を、助けてください……っ!」
涙で滲む契約書に、健太は力強く自分の名前をサインした。
「契約成立じゃ」
リベラは満足そうに微笑むと、煙管を置き、ふたたび標準語の「令嬢弁護士」の顔に戻った。
「さあ、忙しくなるわよアモン。まずは、郷田社長の周囲を洗うわ。彼が『本当の悪人』であるという証拠を、徹底的に炙り出すの」
『承知した、リベラ。俺の鼻から逃れられる嘘つきは、この世に存在しない』
理不尽な絶望に叩き落とされた青年の逆襲劇が、今、銀座の裏通りから幕を開けた。




