EP 2
嘘を嗅ぐ犬
銀座のメインストリートから一本路地に入った、静かな裏通り。
きらびやかなネオンの喧騒が嘘のように静まり返ったその場所に、目当ての建物はあった。
レトロで重厚な西洋建築。その一階にあるアンティーク調のマホガニーの扉には、真鍮のプレートがひっそりと掲げられていた。
『桜田法律事務所』
「ここが……」
雨に濡れた衣服から滴る水滴を拭う余裕すらなく、健太はごくりと唾を飲み込んだ。
一流企業の社長や政治家が密かに出入りするような、威圧感すら漂う門構えだ。横領犯として警察に追われ、ネットで実名まで晒されている自分のような人間が、足を踏み入れていい場所とは思えなかった。
だが、もう後がない。
健太は震える手を伸ばし、重い扉を押し開けた。
カラン、と上品なベルの音が響く。
「す、すみません……」
おずおずと足を踏み入れた健太は、その空間に圧倒された。
一般的な法律事務所にあるような、無機質なスチールデスクや書類の山はどこにもない。
ふかふかのペルシャ絨毯、間接照明に照らされた革張りのアンティークソファ。そして、部屋の奥からは、なぜか甘い焼き菓子と上質な紅茶の香りが漂っていた。
「あの……誰か、いませんか? 俺は……」
助けてほしい。そう言いかけた健太の言葉は、喉の奥で凍りついた。
受付カウンターの横。
薄暗い影の中から、「それ」がゆっくりと立ち上がったのだ。
「ヒッ……!」
思わず後ずさる。
それは、黒と茶色の毛並みを持つ、巨大なジャーマン・シェパードだった。
ピンと立った耳と、引き締まった屈強な肉体。何より恐ろしいのは、その「眼」だった。ただの動物ではない、まるで人間の奥底まで見透かすような、酷く理知的な黄金色の瞳が健太を射抜いていた。
シェパードは音もなく健太に近づくと、その濡れたズボンの裾に鼻先を近づけた。
「あっ、あっち行け……! 俺は、俺はただ……!」
極度の疲労と恐怖でパニックになりかけた健太は、思わず叫んでいた。
「俺はやってないんだ!! 会社の金なんて、5000万なんて盗んでない!! 嵌められたんだ!!」
誰も信じてくれなかった言葉。
それを、よりにもよって犬に向かって叫んでしまう自分が惨めだった。膝から崩れ落ちそうになった、その時。
ピクリ、と。
シェパードの黒い鼻先が動いた。
『――フン。酷い悪臭だな、小僧』
「えっ……?」
健太は耳を疑った。
野太く、威厳のある低い男の声。
誰もいないはずの受付で、声は間違いなく、目の前のシェパードから発せられていた。
『恐怖と絶望の匂い。それに、自己保身からくる“小さな嘘”の腐臭も混じっているな。……全く、どいつもこいつも薄汚れた匂いを持ち込みおって』
犬が、喋った。
いや、違う。声が直接、頭の中に響いてくるような感覚だ。
「お、お前……犬、だよな……?」
腰を抜かし、絨毯にへたり込んだ健太を見下ろし、雄のシェパード――アモンは、ひげを震わせて鼻で笑うような仕草を見せた。
『我が名はアモン。この事務所の門番にして、真実を嗅ぎ分ける者だ。……おい、小僧』
アモンの黄金の瞳が、健太の目を真っ直ぐに覗き込む。
『お前は完全な善人ではない。過去に己を守るために、いくつかくだらん嘘をついてきた匂いがするぞ』
「あっ……」
図星だった。健太の脳裏に、会社で怒られたくなくて、小さなミスを隠蔽した過去の記憶が過ぎる。やはり、自分はここでも追い出されるのか。そう絶望しかけた時だった。
アモンは優雅にお座りの姿勢をとると、奥の部屋に向かって首を向けた。
『だが――“5000万円を横領したか”という一点においてのみ、この小僧の言葉に嘘の匂いはない。ただの哀れなスケープゴートだ』
アモンがそう告げた瞬間。
カチャリ、と事務所の奥にある重厚な扉が開いた。
「アモンがそこまで言うんなら、話くらいは聞いちゃろうかね」
鈴の転がるような、それでいて芯のある凛とした女の声。
漂ってくる紅茶の香りが、一段と濃くなる。
奥の部屋から姿を現したのは、一人の女性だった。
身体のラインに沿った仕立ての良い黒のスーツ。艶やかな黒髪。誰もが振り返るほどの圧倒的な美貌。
彼女は、ほのかに甘い香りのする金の煙管を指先で弄びながら、絨毯で腰を抜かしている健太を見下ろした。
「よう来たね。あんたが悪党にされかけとる、迷える子羊じゃな?」
それが、規格外の令嬢弁護士・桜田リベラと健太の出会いだった。




