第一章 罪の切り分けと、動き出す巨悪
スケープゴートの夜
「高橋。お前、会社からいくら抜いた?」
冷暖房の効いた社長室。
高級な革張りのソファに深く腰を沈めた郷田社長は、葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながらそう言った。
「え……? 抜いた、とは……?」
高橋健太、24歳。
ITベンチャー『グロース・フロンティア』に入社して2年。月の残業時間はとうに200時間を超え、目の下には消えない隈が張り付いている。
徹夜明けの霞む頭で呼び出された彼に、郷田は分厚いファイルをドンッとテーブルに投げ出した。
「とぼけるな。会社の裏口座から、ダミー会社に5000万円が送金されている。しかも、決済システムにアクセスした履歴は、お前のIDだ」
「なっ……!? ご、5000万!? 違います、俺はそんなこと絶対にやっていません!」
健太は声を荒げた。
そもそも、末端のプログラマーである健太に、会社の資金を動かす権限などあるはずがない。
「社長! 俺には決済システムのアクセス権限すらありません! 何かの間違いです!」
「間違いじゃないよ、高橋くん」
背後から声がした。青ざめた顔で立っていたのは、経理部長の木下だった。彼は健太と目を合わせようとせず、震える声で告げた。
「君、一昨日の夜、『システムバグの修正テストに必要だから』と言って、私のマスターパスワードを借りていったじゃないか……。まさか、あんな大金を横領するなんて……」
「は……? 木下部長、何を言ってるんですか! パスワードを渡してきたのは部長の方からで、『急ぎの修正だからこれで入ってやってくれ』って頼まれたから、俺は規則違反だと思いながらも仕方なく……!」
「往生際が悪いぞ!!」
郷田の怒声が室内に響いた。
健太はハッとして郷田を見た。その目は全く怒っていなかった。むしろ、底意地が悪いほど冷たく、嘲笑っていた。
(……嵌められた)
遅すぎる理解だった。
最近、郷田社長が裏で怪しい投資に手を出して多額の損失を出したという噂が、社内で密かに囁かれていた。
その穴埋めだ。
5000万円という金を会社から引き出し、その罪を、逆らえない末端の社員になすりつける。木下部長も共犯か、あるいは脅されて口裏を合わせているのだろう。
「お前には失望したよ、高橋。……懲戒解雇だ」
「待ってください! 俺じゃありません! 調べてくれれば絶対に分かります!」
「調べるのは警察の仕事だ。俺は温情をかけてやってるんだぞ? 三日だ。三日以内に5000万全額を返済すれば、警察沙汰にはしないでおいてやる」
郷田はニヤリと笑い、葉巻を灰皿に押し付けた。
「返せなければ、お前は『犯罪者』だ。せいぜい親兄弟に泣きついて金を集めるんだな」
それからの数日間は、健太にとって地獄だった。
郷田は約束の三日を待たずして、翌日には警察に被害届を出した。
アパートに警察が踏み込み、健太は任意同行を求められた。取調室でいくら無実を訴えても、刑事たちは「アクセスログ」と「木下部長の証言」という決定的な証拠を前に、健太の言葉など全く信じてくれなかった。
『お前がやったんだろ? 素直に吐けよ』
『若いやつが、変な情報商材やギャンブルに手を出して会社に迷惑をかける。よくある話だ』
激しい尋問。
さらに最悪なことに、会社の匿名掲示板やSNSには、健太の実名と顔写真が「5000万横領犯」として晒されていた。
『高橋健太ってやつ、やっぱりヤバかったんだな』
『いつも挙動不審だったし』
『あいつのせいでボーナス出ないってマジ?』
誰も助けてくれない。
実家の親に電話しても、「お前、本当にやってないんだろうね?」と疑いの声が混じっていた。
たった数日で、健太の人生は完全に崩壊した。
警察の取り調べから解放された深夜。降りしきる冷たい雨の中、健太は傘も差さずにフラフラと東京の街を歩いていた。
もう、死ぬしかないのか。
自分が何をしたっていうんだ。ただ、言われた仕事を断れず、真面目に働いていただけなのに。
――なぜ、あんな悪党がデカい顔をして笑っていて、俺が泥水をすすらなきゃいけないんだ。
絶望と理不尽な怒りが限界を超えた時。
健太は、ネットの裏掲示板で見つけた「ある都市伝説」のような書き込みを思い出した。
『どんな罪人でも、悪人でも拾ってくれる法律事務所がある』
『そこは悪党を弁護するのではなく、悪人にされた人間を救う場所』
『――悪人専門の法律事務所』
健太は震える手でスマホを取り出し、雨粒で濡れる画面をスワイプした。
藁にもすがる思いだった。もし本当にそんな場所があるのなら。自分のこの濡れ衣を、この地獄を、誰か一人でも信じてくれるのなら。
画面に表示された住所は、銀座の端。
「……桜田……弁護士事務所……」
健太は重い足を引き摺り、暗闇の底から、そのたった一筋の蜘蛛の糸に向かって歩き出した。




