EP 9
法廷の包囲網と、老農夫の記憶
東京地方裁判所。
その日の裁判所前は、異様な熱気に包まれていた。
「大貫さん! ネットでは土壌汚染はあなたの自作自演だと言われていますが!」
「認知症を盾にして、補償金を釣り上げるつもりですか!」
マスコミのフラッシュと、容赦ない罵声の嵐。
狗飼潤が仕掛けた「国家レベルの世論操作」は、完全にメディアを飲み込み、大貫源三を『日本中から憎まれる強欲な嘘つき爺さん』に仕立て上げていた。
「ひぃっ……!」
大貫が怯えて立ちすくむ。だが、その隣を歩く桜田リベラは、冷ややかな視線でマスコミを一瞥しただけで、微動だにしなかった。
「顔を上げなさい、大貫さん。有象無象のカメラなんて見る必要はないわ。あなたが向き合うのは、法廷の真実だけよ」
リベラは護衛の龍魔呂に目配せし、マスコミを蹴散らして堂々と法廷へと足を踏み入れた。
第715号法廷。
原告席に座るリベラと大貫に対し、被告席には大帝国建設の鮫島常務と、同社が雇ったエリート弁護士・神宮寺が余裕の笑みを浮かべて座っていた。
「――原告の主張は、全くの荒唐無稽であります」
開廷早々、神宮寺弁護士がよく通る声で法廷に響かせた。
高級なオーダーメイドスーツに身を包んだ彼は、傍聴席の記者たちに向けてアピールするように、大げさに両手を広げた。
「大貫氏の農園から有害物質が検出されたのは、彼自身がコスト削減のために不法投棄された安価な汚染土砂を肥料に混ぜたからです! それを隠蔽するため、善良なる大帝国建設のリゾート開発を不当に妨害し、法外な慰謝料を要求している。……これが本件の真実です」
法廷内がざわつく。メディアが報じている通りのシナリオだ。
「さらに、原告が『無理やり書かされた』と主張する同意書について。裁判長、こちらの証拠書類をご覧ください」
神宮寺が提出したのは、大貫の通院記録と、御用学者に書かせた『精神鑑定の所見』だった。
「原告の大貫氏は現在、初期の『認知症』を発症しています。最近の記憶が曖昧になり、自分がついた嘘と現実の区別がついていないのです。……彼は先月、自身の意思で正当にこの同意書にサインしました。しかし、後になって土地への未練と認知の歪みから、『密室で脅された』という被害妄想を抱くに至ったのです」
「な、ち、ちがう……! 俺はボケてなんかいねえっ!」
大貫がたまらず立ち上がり、叫んだ。
しかし、神宮寺は冷酷に鼻で笑う。
「では大貫さん。あなたはその同意書を『どこで』書かされましたか?」
「そ、それは……暗い部屋で……男たちに囲まれて……」
「暗い部屋? 具体的な場所は?」
「わからねえ……目隠しをされて車に乗せられたから……っ」
「ほら、ご覧なさい!」
神宮寺が勝ち誇ったように裁判長を振り返る。
「被害妄想特有の、極めて曖昧な証言です! 被告である大帝国建設の鮫島常務らは、事件当夜、品川の高級ホテルで取引先と会食をしておりました。一介の農夫を拉致して脅迫するなど、物理的にも不可能です!」
傍聴席の記者たちが一斉にペンを走らせる。
「やはり農夫の狂言だ」「認知症の妄想だ」。法廷の空気は、完全に神宮寺のペースに呑み込まれていた。
鮫島常務は、勝利を確信して下卑た笑いを浮かべている。
(……フフッ。赤山先生と内調の工作は完璧だ。このままこのクソ爺を妄想狂の異常者に仕立て上げて、裁判を終わらせてやる)
「以上です。原告の訴えは、病的な被害妄想に基づく不当な言いがかりであり、即刻棄却されるべきです」
神宮寺が一礼し、席に戻る。
裁判長もまた、大貫を哀れむような、あるいは呆れたような目で見下ろしていた。
「……では、原告代理人。反論はありますか?」
「ええ。たっぷりと」
カツン。
静まり返った法廷に、リベラのヒールの音が鋭く響いた。
彼女は一切の焦りを見せず、優雅な足取りで証言台の前へと進み出た。その手には、透明な証拠品袋に入れられた『同意書』が握られている。
「被告代理人の神宮寺先生。あなたは先ほど、鮫島常務らが事件当夜、『品川の高級ホテル』にいたと明言されましたね?」
「ええ、その通りですが? 領収書も提出済みです」
神宮寺が怪訝な顔をする。
「それは重畳。では、この同意書に隠された『目に見えない真実』を紐解いて差し上げましょう」
リベラは裁判長に向き直り、美しく、そして残酷な弧を描くように微笑んだ。
「裁判長。原告側は、この同意書に付着した『極微量の揮発成分(VOC)』のガスクロマトグラフィー鑑定結果を、新たな証拠として提出します」
「……揮発成分、ですか?」
裁判長が眉をひそめる。
「はい。この紙の繊維の奥底からは、大貫氏が極度の恐怖を感じた際に分泌した『ストレスホルモン由来の冷や汗』の成分……そして、ある『特注のルームフレグランス』と『業務用カーペット洗浄液』の匂いが検出されました」
鮫島常務の顔から、スッと血の気が引いた。
「神宮寺先生。あなたがアリバイとして提出した、品川の『ホテル・グランシャリオ』。……その地下にあるVIP専用スイートルーム707号室で使用されている香料の成分と、この同意書から検出された成分が、小数点以下の確率まで完全に一致したのです」
法廷が、水を打ったように静まり返る。
リベラの瞳の奥で、修羅の炎がメラメラと燃え上がっていた。
「認知症の妄想? 被害妄想? ……笑わせないでちょうだい。これは、大貫さんがそのホテルの密室に引きずり込まれ、暴力的な脅迫を受けた何よりの『科学的物証』よ」
国家が作り上げた嘘の城塞に、致命的な亀裂が走った瞬間だった。




