EP 4
嘘の揮発成分(VOC)と、偽りの星月夜
桜田法律事務所のデスクの上には、大貫農夫から預かった『同意書』が、透明な証拠品袋に入れられて置かれていた。
「アモン。もう一度、この紙に染み付いた匂いを正確にプロファイリングしてちょうだい」
リベラが腕を組みながら指示を出すと、アモンは黄金の瞳を細め、袋の僅かな隙間から深く息を吸い込んだ。
『……何度嗅いでも吐き気がするな。強烈な恐怖による「冷や汗」の匂いと、それを上塗りしようとする人工的なルームフレグランスの悪臭だ』
「その『冷や汗』の匂い。大貫さんが自分の意思でサインしたのではなく、脅されたという法的な根拠になり得るかしら?」
リベラが問うと、アモンは鼻をフンと鳴らし、自らの人間離れした嗅覚のロジックを語り始めた。
『当然だ。人間が極度の恐怖を感じたり、あるいは嘘をつこうとした時、脳の扁桃体が過剰に反応する。自律神経が乱れ、コルチゾールやアドレナリンといったストレスホルモンが血中に異常分泌されるんだ』
アモンは前足で証拠品袋をトントンと叩く。
『その結果、アポクリン汗腺から特有の「揮発性有機化合物(VOC)」が放出される。嘘をつく奴からは「酸っぱい錆」のような腐臭がするが、この爺さんの同意書から立ち昇っているのは、純度100パーセントの「恐怖と絶望」の成分だ。……間違いなく、密室で複数人に囲まれ、暴力的な脅迫を受けた状態でサインさせられている』
「完璧ね」
リベラは満足そうに微笑んだ。
「犬の嗅覚」というファンタジーを、「自律神経とホルモン分泌によるVOCの検出」という科学的根拠に変換する。これこそが、リベラがアモンの鼻を法廷で最強の『物証』へと錬成するメソッドだ。
「問題は、大貫さんを脅したその『密室』がどこか、よ。その人工的なルームフレグランスの匂い、もっと細かく分解できる?」
『……ベルガモットのトップノートに、重すぎるバニラのベース。そして、微かに混ざっているのは、業務用の強力なカーペット洗浄液の匂いだな』
「ベルガモットとバニラ……それに業務用洗浄液」
リベラはノートパソコンを開き、桜田財閥のコネクションでアクセスできる、都内の高級ホテルの備品・アメニティ発注データベースを叩き始めた。
「……見つけたわ」
数分後、リベラは冷酷な笑みを浮かべ、モニターを指差した。
「品川にある『ホテル・グランシャリオ』。表向きはハイクラスなシティホテルだけれど、地下にVIP専用の極秘エントランスがあって、政治家やゼネコンの密会の場としてよく使われているわ。ここのスイートルームの特注フレグランスが、まさにベルガモットとバニラのブレンドよ」
『間違いない。その星月夜とやらで、爺さんは脅されたんだな』
「ええ。ホテルの防犯カメラ映像と、スイートルームの宿泊者名簿さえ手に入れば、大貫さんを拉致・脅迫した大帝国建設の連中の尻尾が掴めるわ」
リベラはパソコンを閉じ、ハンドバッグを手にした。
「行くわよ、アモン。ホテルの支配人に『任意の証拠開示』をお願いしに行きましょう。……もちろん、断られたら裁判所の令状を叩きつけるけど」
リベラが事務所を出ようとした、まさにその時。
カラン、とドアベルが鳴り、一人の大男が姿を現した。
「……嬢ちゃん。随分とキナ臭い所に首を突っ込もうとしてるらしいな」
赤いジャケットを羽織った『鬼龍』のマスター、鬼神龍魔呂だった。
「龍魔呂。どうしてここに?」
「たまたま馴染みの情報屋から耳に入ったんだがな。大帝国建設の裏には、タチの悪い半グレ集団どころか、プロの『掃除屋』が飼われてるって噂だ」
龍魔呂は懐から真鍮製のオイルライターを取り出し、カチリ、カチリと弄びながら、修羅の眼光を細めた。
「相手はただのブラック企業じゃねえ。国家権力に寄生した、本物のマフィアだ。お前と犬っころだけで乗り込むには、少々荷が重いぜ」
「……護衛をしてくれるって言うの? 高くつくわよ」
「心配すんな。報酬は、事件が終わった後の極上のお茶会で手を打ってやる」
龍魔呂の申し出に、リベラはフッと緊張を解いて微笑んだ。
「頼もしいこと。じゃあ、車を出してちょうだい」
数十分後。
品川のビル群にひっそりと佇む『ホテル・グランシャリオ』の地下VIP専用駐車場。
ベートーヴェンの『交響曲 第7番 第2楽章』を低い音量で流しながら、龍魔呂の愛車である無骨なランドクルーザー70系が、静かにコンクリートの坂を下りてきた。
「……おい、リベラ」
ハンドルを握る龍魔呂の声が、一段階低くなった。
助手席のリベラも、後部座席のアモンも、同時にその「異変」に気づいていた。
広大な地下駐車場の奥。
大帝国建設の役員が乗る黒塗りの高級ハイヤーの周囲に、数人の屈強な男たちが倒れていた。全員が意識を失い、ピクピクと痙攣している。
そして、その中心。
ハイヤーのボンネットに腰掛け、悠然とセブンスターを燻らせている一人の男がいた。
「……何者かしら。私たちの獲物を、先食いしたみたいだけれど」
リベラが目を細める。
男――力武義正は、近づいてくるランクルを一瞥すると、ゆっくりと立ち上がり、口の中で飴玉をガリッと噛み砕いた。
霞が関の月を守る「算盤の剣」と、理不尽を絶対に許さない「法廷の修羅」。
決して交わるはずのなかった二つの規格外の力が、薄暗い地下駐車場でついに正面から激突しようとしていた。




