EP 2
不夜城の月と、泥だらけの真実
深夜零時を回った東京・霞が関。
「不夜城」と呼ばれる官庁街の窓には、未だ無数の明かりが煌々と灯っている。
内閣府・政策統括官付の広大なオフィス。
疲れ果ててデスクに突っ伏す官僚たちの中で、一人、背筋をピンと伸ばしてモニターを見つめる女性がいた。
日野輝夜、25歳。
アースカラーの上質なブラウスに、休日の古着屋で見つけたというアンティークのフクロウのブローチをさりげなく胸元に飾っている。
「……日野補佐官。まだ残ってたの?」
コーヒーカップを持った中年の局長が、怪訝な顔で近づいてきた。
「ええ。長野県指定の『特別リゾート開発特区』に関する資料を少し精査しておりまして」
輝夜はふわりと微笑み、局長にも自ら持参した水筒から、温かいカモミールティーを紙コップに注いで差し出した。
「お疲れ様です、局長。少し冷えてきましたから、どうぞ」
「あ、ああ……ありがとう。君が淹れてくれる茶は、いつも本当に美味いな」
毒気を抜かれたように局長は目を細めた。
過酷な激務と派閥争いでギスギスした霞が関において、誰に対しても温かく接し、決して荒立たない彼女は、密かに『霞が関の月』と呼ばれ、多くの職員から慕われている。
だが、局長が輝夜のモニターを覗き込んだ瞬間、その顔色が一変した。
「……日野くん。君、大貫農園の土壌調査レポートを洗っているのか?」
「はい。長年、完全無農薬でやってきた土地から、突然基準値の数十倍ものカドミウムと鉛が検出された件です。……あまりにも不自然すぎます」
輝夜の澄んだ瞳が、モニターの数値を冷徹に捉えていた。
「周囲の農地のデータ、水脈の流れ、過去数十年の地質調査。すべてを照らし合わせましたが、この大貫農園の区画『だけ』に、これほどの有害物質が自然発生することは科学的にあり得ません。意図的に汚染土砂が撒かれたか、あるいは……」
「あるいは、検査データそのものが『でっち上げ』だと言いたいのかね?」
局長の声が、急に低く、威圧的なものに変わった。
カモミールティーの紙コップを乱暴にデスクに置く。
「……いいか、日野くん。このリゾート開発は、単なる地方の公共事業じゃない。国交省の幹部や、大手ゼネコンの『大帝国建設』……そして何より、あの赤山天人先生の息がかかった『国策』なんだ」
赤山天人。
その名前が出た瞬間、オフィスの空気が凍りついたように重くなった。
「大貫という農夫一人の犠牲で、何百億という金が動き、地方が潤う。それが政治というものだ。君のような優秀なブレーンが、こんな些末な『泥仕事』に首を突っ込んでキャリアを棒に振ることはない。……この件からは手を引きなさい。これは命令だ」
局長は足早に去っていった。
残された輝夜は、モニターに映る大貫源三の顔写真――太陽の下で、野菜を抱えて笑っている泥だらけの顔――を、静かに見つめていた。
(地方が潤う……? 土を殺し、人を騙して奪った土地に建つリゾートで、誰が笑うというのですか)
輝夜はパソコンの電源を落とすと、静かにオフィスを後にした。
深夜1時。
殺風景な官舎の自室に戻った輝夜は、部屋の電気を点けず、そのままベランダへと出た。
無機質なコンクリートのベランダには、彼女が手塩にかけて育てている無数のプランターが並んでいる。青々と茂るハーブやミニトマトの葉に触れると、微かに湿った土の生命力が、冷え切った指先に伝わってきた。
「……ごめんね。今日は少し、帰りが遅くなっちゃった」
輝夜は植物たちに小さく語りかけながら、部屋の窓を開け放ち、白檀のお香に火を灯した。
そして、趣味の陶芸で自ら焼き上げた『備前焼』のぐい呑みセットを取り出す。
冷蔵庫で冷やしておいた長野の地酒をトクトクと注ぎ、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、白く輝く満月が顔を出していた。
『月は迷わない』
輝夜はぐい呑みを両手で包み込むように持ち、幼い頃に長野の美しい星空の下で紡いだ、自分の魂のポエムを心の中で反芻した。
『暗闇の中で天高く昇り輝く。
人は自分では輝けない。前に進む事が出来ない。暗闇の中で迷い怯え泣く』
霞が関のシステムは強大だ。
数字と権力で塗り固められた巨大な機械の中で、大貫のような名もなき人々は、理不尽に押しつぶされ、自分を責め、本当の姿を見失っていく。
『だから月は変わらず、人が暗闇に道に迷わないように、本当の自分で有る為に、優しく人を照らし続ける』
輝夜は、冷たい日本酒をスッと喉に流し込んだ。
備前焼の土の感触が、唇に力強く残る。
「……大丈夫。必ず助けます」
輝夜は月に向かって、静かに、しかし鋼のように固い決意を込めて呟いた。
「あの美しい土と、あなたの誇りを……必ず取り戻してみせる。だから、どうか絶望しないで」
数字やデータで世界を動かすのが霞が関の仕事なら。
その数字に隠された『血の通った人間の痛み』を拾い上げ、システムのバグを正すのが、自分の仕事だ。
それがどんなに巨大な権力を敵に回すことになろうとも。
「……とはいえ、私一人の力では、ゼネコンの強固な裏帳簿はこじ開けられませんね」
輝夜が小さく息を吐いた、その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、ブルッと震えた。
画面に表示されたのは、『力武義正』の名前。
「……もしもし、義正さん? こんな夜更けにどうしましたか」
輝夜が電話に出ると、電話の向こうから、ガリッ、と硬い飴玉を噛み砕く音が響いた。
『よう、輝夜。……お前、また自分の管轄外の、とびきり重てぇモンを背負い込もうとしてるだろ?』
「ふふ、お見通しですか」
『霞が関の連中は数字しか見ねえが、俺はお前の声のトーンで全部分かるんだよ。……大帝国建設の土地買収の件だな』
電話越しの義正の声は、いつもの飄々とした飲み仲間のそれではなく、冷徹な算盤を弾く『武闘派の商社マン』の響きを帯びていた。
『その綺麗事、俺が現実の盤面に乗せてやる。……赤山の爺さんの利権だろうが関係ねえ。お前が月として輝くための”汚れ仕事”、俺が全部弾き出してやるよ』
暗闇に立ち向かうための、最強の「剣」と「算盤」が動き出した。
二つの異なる場所で、同じ悪意を標的に定めた光と修羅の軌道が、交差する時は近い。




